しゃぶしゃぶの極上の余韻と共にレストランを出た俺たちは、秋葉原の駅前で解散の時を迎えた。
「今日は本当にありがとうございました。また、SNSでもよろしくお願いします」
カメラマンさんと、大手レイヤーさんに頭を下げ、相互フォローになったスマホの画面を見せ合う。レイヤーさんは最後まで、
「あああ尊い……絶対また合わせしましょうね!」
と泣きそうになりながら手を振ってくれた。二人が駅の改札へと向かった後、俺は今日一日、俺のマネージャーとして全てを取り仕切ってくれたサークル主のお姉さんに向き直った。
「……お姉さん。今日は一日、本当に。……おかげさまで、私自身も、とても楽しめました」
ウィスパーボイスで、心からの感謝を込めて微笑みかける。すると、お姉さんは顔を真っ赤にして、ブンブンと激しく首を横に振った。
「いえいえ! こちらこそもー、ひっさしぶりに心臓がバクバク鳴って、最高にドキドキさせていただきましたよ!」
彼女は興奮冷めやらぬ様子で、俺の手を両手でギュッと握りしめた。
「かっふぇさん、本当にマンハッタンカフェそのもので、奇麗で、可愛くて……もう、言葉になりません。さっきのレイヤーさんじゃないですけど、本気でお持ち帰りしたいぐらいです!」
「……ふふっ。ありがとう、ございます」
オタク特有の最大級の賛辞に苦笑しつつ、俺は優しく手を握り返した。
「また絶対、イベントでご一緒しましょうね!」
「……ええ。必ず」
元気よく手を振りながら、お姉さんの背中が秋葉原の眩い喧騒の中へと消えていく。その姿が見えなくなるまで見送ってから、俺はずっしりと重いボストンバッグを抱え直し、帰りの電車へと乗り込んだ。
■
――ガタン、ゴトン。
夜の冷えた空気を切り裂いて走る電車内で、俺は座席の端に腰を下ろし、ふうっと長く息を吐き出した。ウマ娘の無尽蔵なスタミナを以てしても、流石に今日一日の精神的疲労は計り知れない。
だが、その疲れを吹き飛ばすような現実が、手元のスマートフォンの中で輝いていた。
【フォロワー数:301,254】
さっきのしゃぶしゃぶの時点では29万人台だったフォロワー数が、帰りの電車に乗っているこのわずかな間に、あっさりと30万の大台を突破していたのだ。
『……順調ですね、四月一日さん』
カフェが、画面を覗き込んで静かに微笑んだ。足元では、ボストンバッグに同化しているお友達が、「やったやった!」と嬉しそうにゆらゆらと揺れている。
「ああ……。あと、たったの2万人だ。32万人の『レジェンドウマ娘』まで、もう手が届くところまで来てる」
俺はスマホを握りしめ、窓に映る自分の(かっふぇの)顔を見つめた。今日一日の熱狂の余韻が、まだ瞳の奥に燻っている。
「じゃあ、今晩は最後に……もう一丁、畳みかけるか」
『と、言いますと?』
「帰ったら、すぐにライブ配信だ。今日のコミケの報告と、ギャロップ発売の記念も兼ねてな。……鉄は、熱いうちに」
俺がニヤリと笑って言葉を切ると、カフェは黄金の瞳を優しく細め、まるでデュエットのようにその言葉を引き継いだ。
『……打つ、ですね。四月一日さん』
二人の視線が交差し、自然と笑みがこぼれる。足元のお友達も、「やるぞやるぞ!」と楽しそうに首を縦に激しく振っていた。
コミックマーケットという大舞台を制し、次なる目標は目前。異世界への扉を完全にこじ開けるための、かっふぇの長くて熱い夜が、再び幕を開けようとしていた。
■
六畳間のアパートに帰り着いた俺は、どっこいしょと重いボストンバッグを畳の上に下ろした。暖房をつけ、冷え切った体を解すように大きく伸びをする。
「ふぅー……流石に疲れたな。でも、すぐに配信の準備をしねぇと……」
『四月一日さん。配信の件ですが、一つ提案があります』
勝負服をハンガーに掛けようとしていた俺に、空中に浮かぶカフェがふわりと近づいてきた。
「提案?」
『はい。……今日は、衣装(勝負服)無しで配信してみては、どうでしょう?』
「衣装無しって……どういうことだ?」
俺が首を傾げると、カフェは静かに微笑んで説明してくれた。
『私たちの世界では、ファンの方々にとって、レースやイベントでの華やかな衣装はもちろんですが……オフの日の、飾らない『私服のウマ娘』の姿というのも、非常に根強い人気と需要があるんです』
「なるほど、オフショット的なファンサービスってことか」
『はい。今日は一日中、完璧なマンハッタンカフェとして、振る舞ってくださいました。ですから夜の配信は、少し肩の力を抜いたストリートの姿でライブをするというのも、一興かと思います』
「(コクコク!)」
足元のお友達の影も、カフェの提案に強く頷いている。そして、自分の頭のあたりを指差し、「耳飾りだけ!」とジェスチャーをして見せた。
「なるほどな。それならそれで、やってみるか」
俺はボストンバッグの中から、勝負服のセットの一部であるターコイズの耳飾りだけを取り出した。俺の頭から生えている本物のウマ耳にそれを取り付ける。我ながら手馴れた物だ。そして服装は、日中ダウンジャケットの下に着ていたダボダボのオーバーTシャツに、パラシュートパンツという実にラフでストリート感の強い出立ちだ。
『……うん。首元や胸元など、不自然な露出部分はありませんね。完璧です』
「おう。中身がおっさんだからな、そこら辺のチェック助かるぜ」
カフェの厳しい露出チェックをクリアした俺は、パソコンの前に座り、リングライトのスイッチを入れた。
配信タイトルはシンプルに『コミケ、お疲れ様でした』。
深く息を吸い込み、表情筋を「ダウナーでミステリアスなかっふぇ」へと切り替える。プロのインフルエンサーとして、この数ヶ月で培った完璧なガワの制御だ。
「……よし。いくぞ」
配信開始ボタンをクリックする。
すると――開始からわずか数十秒で、同時接続者数のカウンターが狂ったような勢いで跳ね上がり始めた。1万、2万、そしてあっという間に『3万人』を突破だ。
(……夜の23時過ぎだっていうのに、3万人って。お前らも本当に飽きないねぇ)
俺は内心で盛大に苦笑しつつも、表面上は一切の動揺を見せず、カメラに向かってゆっくりと長い睫毛を伏せた。
「……こんばんわ。かっふぇ、です」
静かで、どこかハスキーなウィスパーボイス。その第一声を皮切りに、画面の右側を流れるコメント欄が、滝のような勢いで加速し始めた。
『うおおおおおお! おつかっふぇー!!』
『待ってた!! 今日はお疲れ様!』
『えっ、今日の配信私服!? ダボTシャツめちゃくちゃ可愛い!!』
『勝負服も神だったけど、オフ感あるこの姿も破壊力やばい』
『耳飾りだけつけてるの最高すぎる』
『ていうか3万人!? 勢いエグすぎだろww』
「……ふふっ。夜遅くに、たくさん集まっていただいて、ありがとう、ございます」
俺は小さく微笑み、まずは今日のイベントに関わってくれた人々への感謝を口にした。
「……今日、会場で直接お会いできた方々。そして、サークルに招待してくださった主さん。……列の整理など、たくさん助けていただいたカメラマンさん。本当に、お疲れ様、でした」
画面越しに、深く、丁寧にお辞儀をする。
「……そして、心からの感謝を、申し上げます。……私にとって、初めてのコミケでしたが……皆さんのおかげで、非常に楽しく、過ごさせていただきました」
俺がそう告げると、コメント欄は温かい労いと熱狂の渦に包まれた。
『お疲れ様ー!!』
『現地で遠くから見たよー! マジで発光してるかと思った!』
『いや本当に神レベルのコスプレだった。というかコスプレの次元超えてた』
『てか、SNSの写真も見たけど、生で見たまんまだったなかっふぇさん』
『わかる。写真掲載の許可してくれたのもありがたい……っていうか、あれで加工無しとか人類の奇跡だろ』
『すっぴんであのクオリティとか、マジで同じ人間とは思えない』
『今日のビッグサイトで一番輝いてたよ!』
「……ありがとう、ございます。皆さんが、マナーを守って、優しく接してくださった、おかげです」
俺はコメントを拾いながら、ゆったりとしたペースで言葉を紡いでいく。
「……そういえば、イベントの後は。サークル主さんたちと、秋葉原で……打ち上げ、をしてきました。……しゃぶしゃぶ、です。とても、美味しかった、ですよ」
俺がそう報告した、まさにその時だった。コメント欄に、一際目立つ赤色の文字(スーパーチャット)が飛んできた。アイコンに見覚えがある。
【サークル主:かっふぇさん、今日はお疲れ様でした! しゃぶしゃぶ、本当にすごくおいしそうに食べてましたね……4人前は軽くペロリと食べられていて、見ていて気持ちよかったです!】
「……あ。主さん。……その節は、ごちそうさま、でした」
俺が嬉しそうに(そして少し恥ずかしそうに)微笑むと、その『4人前』という暴露情報に、リスナーたちが即座に反応した。
『サークル主さんキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!』
『主さん今日はお疲れ様!』
『えっ、4人前!?www』
『あんなに細くて綺麗なのに!?』
『競馬場での大食い伝説は伊達じゃなかったww』
『やっぱりウマ娘並みの食欲は健在かよ!』
『すげぇなかっふぇさん……食べたカロリーどこに消えてるの?』
『燃費が完全にアメ車』
『そのギャップがたまらんのよ……いっぱい食べる君が好き……』
「……今日は、たくさん動いたので。お腹が、空いてしまって。……お肉、とても柔らかくて、とろけました」
俺が頬に手を当てて幸せそうに呟くと、コメント欄は『可愛い』『養いたい』の大合唱となった。そこから、話題は自然と今日のコミケでの『伝説的な出来事』へとシフトしていく。
『そういえばさ、今日かっふぇさんが詐欺師を撃退したって噂聞いたんだけどマジ?』
『あー! 500ウォンのやつ!』
『マジだよ。俺、列の少し後ろにいたけど、かっふぇさん、騙そうとした男の腕を片手でガシッと掴んで逃がさなかった』
その話題が出た瞬間、俺は少しだけ真面目なトーンに声色を落とした。
「……ああ。その件、ですね。……せっかくの、皆さんの愛が詰まったイベントで、あのような形で誰かを騙そうとするのは……とても、悲しいことだと、思います。……だから、少しだけ。お灸を、据えさせて、いただきました」
少しだけ冷たい、絶対零度の『マンハッタンカフェの瞳』でカメラを見つめる。
『ひぇっ……かっこいい……』
『かっふぇさんに捕まるなら500ウォン出すわ(ダメです)』
『男が泣き叫ぶくらい力強かったらしいじゃん。握力どうなってんの?』
『マジで正義のウマ娘じゃん!』
『可愛いだけじゃなくて物理的にも強いとか無敵かよ』
『俺もかっふぇさんに腕へし折られたい』
『↑性癖歪んでるぞお前』
大盛り上がりのコメント欄。俺は「折ってはいませんよ」と苦笑しながらフォローを入れつつ、さらに今日のハイライトへと話を繋いだ。
「……でも、一番驚いたのは。……やはり、午後の、撮影ですね。……『囲み』というものは、初めて、経験しましたから」
『出た! 伝説の屋上5分間!』
『俺あの中にいたよ!! マジで死ぬかと思った!!(嬉しさで)』
『フラッシュの量エグかったよね』
『どえれぇことになってたぞ。屋上の一角だけ人口密度がバグってた』
「……はい。何十人もの方に、一斉にカメラを向けられるのは……少し、不思議な気分、でした。……でも」
俺は、あの屋上で感じた高揚感を思い出し、自然と口角を上げた。
「皆さんの熱意が、ビシビシと伝わってきて。とても、心地よい時間でしたよ。綺麗な写真を、たくさん撮っていただいて。……本当に、ありがとう」
その言葉に、リスナーたちの熱狂は最高潮に達した。
『ああああああかっふぇさぁぁぁん!!』
『こちらこそありがとう!!』
『今日で完全に一生推すこと決めたわ』
『ギャロップの表紙も買ったよ!!』
『30万人突破おめでとう!!』
凄まじい勢いで流れるコメントの波と、絶え間なく飛び交うスーパーチャットの嵐。夜も更けていく中、配信の熱気は冷めるどころか、ますます熱を帯びていく。
「(……すごいな。この勢いなら、本当に……)」
俺は、画面の端に表示されている自分自身のフォロワー数のカウンターをチラリと盗み見た。30万と数千。配信を始めてからわずか30分の間に、さらに数字が跳ね上がっている。
『……ええ。この熱狂の渦の中心にいれば、必ず届きます』
カフェが、俺の内心の言葉に答えるように力強く頷いた。お友達の影も、俺の足元で「いける! いける!」とリズムを取って応援してくれている。
「……さて。そろそろ、夜も深くなってきましたね」
俺は名残惜しそうなコメントを優しく宥めるように、ゆっくりとエンディングの挨拶へと向かった。
「……今日は、本当に長い一日でした。……皆さんも、ゆっくり休んで、暖かくして、寝てくださいね。……私も、今日はぐっすりと、眠れそうです」
『おつかっふぇー!』
『ゆっくり休んでね!』
『最高のコミケをありがとう!!』
『また明日!』
「……はい。おやすみ、なさい。……また、お会いしましょうね」
カメラに向かって小さく手を振り、配信終了のボタンをクリックする。プツン、と画面が暗転し、六畳間に再び静寂が戻った。
「……っしぁ!! 終わったぁ!!」
俺は勢いよく畳に寝転がり、大きく手足を伸ばした。
「いやぁ、流石に喋り疲れた……! でも、手応えはバッチリだぞカフェさん!」
『ええ、お疲れ様でした、四月一日さん。今日の配信で、かっふぇの魅力はさらに広い層へと確実に伝わったはずです』
空中から降りてきたカフェが、労うように俺の顔を覗き込む。
『コミケでの圧倒的な存在感、詐欺を未然に防いだ正義感、そして大食いという親しみやすさ。……これらが全て合わさって、かっふぇという存在は、今やインターネット上で一つの『現象』になりつつあります』
「現象、か……。ただの日雇いのおっさんが、現象ねぇ」
俺は自嘲気味に笑いながらも、スマホの画面を開いた。
【フォロワー数:308,912】
31万、そしてその先の32万という数字が、はっきりと射程圏内に捉えられていた。
ウマスタを通じた、元の世界への帰還の糸口。
その扉の鍵が、もう目の前にぶら下がっている。
「……明日か、明後日には。確実に『レジェンドウマ娘』の大台に乗るな。……そしたら、いよいよだ」
『はい。……カレンチャンさんや、タキオンさん。……向こうの世界と、今度こそ完全に通信を繋ぎましょう』
奇妙な三人の共同生活は、冬のコミックマーケットという大旋風を巻き起こし、ついに次元の壁を突破するための最終フェーズへと突入しようとしていた。
俺は心地よい疲労感に包まれながら、ウマ娘の身体を深い眠りへと沈めていった。