薄暗い六畳間に、スマートフォンの液晶が放つ無機質な光だけが不自然に浮かび上がっている。
「……公式コスプレイヤー、か」
画面に表示されたDMの文面を三度、四度と読み返しても、そこに書かれている文字列が変化することはなかった。ウマ娘という巨大コンテンツの元締めである公式企業からの、直々のオファー。本来ならば、インフルエンサーとしてこれ以上ない名誉であり、飛び上がって喜ぶべき大チャンスだ。しかし、俺とカフェの間に流れる空気は、歓喜よりも、ひどく現実的で冷静な思案のそれに満ちていた。
『……四月一日さん。どう、思われますか?』
空中にふわりと浮かぶカフェが、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。足元のお友達も、俺たちのただならぬ雰囲気を察してか、ピタリと動きを止めてこちらの様子を窺っている。
「どう、って……。正直に言えば、これ以上ないくらい美味い話だ。公式のイベントに出るとなれば、知名度の上がり方はコミケの比じゃない。フォロワー32万人なんて、一瞬でぶち抜けるだろうさ」
俺は腕を組み、深く息を吐き出した。
「だが、問題は『身分』だろうなぁ」
その言葉に、カフェもスッと表情を硬くした。
以前、奇跡的に舞い込んだ大手ハンバーガーチェーンとのコラボ案件の時のことを思い出す。あの時は、俺(四月一日)という戸籍上の人間が『かっふぇの代理人・マネージャー』として矢面に立ち、報酬の振込先や身元確認の書類を全て引き受けるという、いわば法的な抜け道スレスレの手段を使った。企業側も「かっふぇ本人の身元非公開」という特殊な条件を、特例中の特例として飲んでくれたのだ。
「あのハンバーガーの時は、企業側がかなりホワイトで柔軟だったのと、俺が代理人として動くことでなんとか誤魔化せた。だが、相手が『ウマ娘の公式』ともなれば、話は全く別だ」
『……と、言いますと?』
「コンプライアンスがガチガチなんだよ。何せ馬主と国が絡んでるからな。そこに公式イベントに演者として出演して『報酬(ギャラ)』を受け取るとなれば、厳密な業務委託契約や、秘密保持契約(NDA)が必須になると思う。かっふぇ本人の公的な身分証明書、マイナンバー、本名、住所……。代理人を立てるにしても、おそらく、代理人も一緒に立ち合いが必要になるだろうし。コスプレイヤー本人と金銭を受け取る人物が別……なんていう異常事態を公式が容認するわけがない。突っ込まれたら、俺たちは一発でアウトだ」
日雇い労働で社会の裏側や契約のシビアさを嫌というほど見てきた俺の直感が、全力で警鐘を鳴らしていた。報酬を受け取るための『プロの演者』として公式に関わろうとすれば、俺たちの最大の弱点である『かっふぇは体はあるが公的な身分がない』『四月一日は身分はあるが体が無い』という壁に、必ず粉砕される。
「……それに」
俺はスマホの画面から視線を外し、カフェの黄金の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「俺たちが今一番欲しいのは、金じゃない。向こうの世界へ繋がるための『フォロワーの数』だろ?」
俺の言葉に、カフェはハッとしたように目を見開き、やがて、花がほころぶような柔らかく力強い笑みを浮かべた。
『……はい。その通りですね、四月一日さん』
「(ウンウン!)」
足元のお友達も、俺とカフェの意見が完全に一致したのを見て、嬉しそうに激しく首を縦に振っている。実際、生活費や税金のための金なら、これまでの配信の投げ銭で当分は安泰なのだ。リスクを冒してまで、身分を偽ってギャラを受け取る必要は全くない。
だが、公式イベントという『莫大なフォロワーを獲得できる最強の舞台』だけは、なんとしても利用したい。
「身元を隠したまま、ギャラを受け取らずに、公式イベントの舞台にだけ立つ……。そんな都合のいい参加方法が、あるわけ……」
俺が頭を掻き毟りながら呟いた、その時だった。
『――ありますよ。一つだけ』
カフェが、何かを閃いたようにスッと人差し指を立てた。
「えっ? あるのか?」
『はい。……報酬を受け取る『仕事』としてではなく、『ボランティア(無償の協力者)』としてイベントに出演する方向では、どうでしょうか?』
「ボランティア……?」
『ええ。チャリティ活動、とも言い換えられますね』
カフェは空中で少し姿勢を正し、懐かしい故郷を思い出すような、穏やかな声で語り始めた。
『私たちの世界……トレセン学園のウマ娘たちは、ただレースで走るだけが使命ではありません。ファンの方々や地域社会への恩返しとして、地方のイベントに赴いてボランティア活動をしたり、チャリティのための催しに参加したりすることが、日常的によくあるんです』
「へぇ……。そういえば、アイドルの側面もあるんだったな」
『はい。ボランティアとしての参加であれば、営利目的の厳密な雇用契約は発生しにくいですし、交通費や弁当の支給程度の『厚意』で動く立場になります。それなら……』
「それなら、面倒な身分証の提示や、法的な契約書を回避できる可能性が跳ね上がる……!」
俺はポンッと手を打った。確かにその通りだ。企業側にとっても『ギャラはいらないから、当日の賑やかしのボランティアとして参加させてくれ』という申し出であれば、決済のハードルは劇的に下がるはずだ。
「よし、その方向で行こう。ボランティアなら、最悪身分は隠し通せるだろうしな」
『はい、私もそう思います。かっふぇの存在意義とも、合致しているはずです』
方針は決まった。俺はスマートフォンのキーボードを立ち上げ、公式からのDMに対する返信の文面を練り始めた。
『ご連絡ありがとうございます。大変光栄なお話ですが、私情により、いきなり身分を明かしての正式な契約を結ぶことは控えさせていただきたいと考えております。
ですが、もしよろしければ、報酬等は一切不要の当日参加のボランティア(無償協力)という形であれば、ぜひイベントに参加させていただきたいです。』
「……こんなもんか。つっても流石に、公式相手にこんな上から目線みたいな条件を出したら、怒られるか、呆れられてスルーされるかもな」
俺は苦笑しながら、送信ボタンをタップした。
(まぁ、断られたら断られたで仕方ない。それに断っても、断られても何も問題はないだろう。今の俺たちの勢いなら、自力で配信を続けていればいずれ32万人には届くのだから)
そう思って、スマホを畳の上に置こうとした――その瞬間だった。
ピロンッ!!
「うおっ!?」
送信から数秒も経っていない。まるで俺の返信を画面の向こうで待ち構えていたかのような、尋常ではない速度で折り返しのDMが飛んできたのだ。
『承知致しました!!
いきなりのメッセージで、大変不躾なお願いをしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。
かっふぇ様のご意向、完全に尊重いたします。報酬不要のボランティアという形で全く構いませんので、どうか、どうかイベントへの参加をお願いできないでしょうか!?』
「…………」
『…………』
俺とカフェは、画面に表示されたその文面を眺め、同時に顔を見合わせた。
「……なんか、すげぇ下から出てきたな。どんだけかっふぇに出てもらいたいんだか」
『コミケでのあの大反響を見た直後ですから……。企業の方も、是が非でもかっふぇの存在を自社のイベントに取り込みたいと、必死なのでしょうね』
公式のプライドをかなぐり捨ててでも、バズの震源地を確保したいという大人の事情が、画面越しにビンビンと伝わってくるようだった。
「……まぁ、向こうがそれで構わないって言うなら、こっちとしては願ったり叶ったりだ。OKと返しておくか」
俺は短く『承知いたしました。よろしくお願いいたします』とだけ返信を送った。
すると、再び秒速で『ありがとうございます!!!!!』という感嘆符だらけのお礼と共に、イベントの詳細が書かれたPDFファイルのリンクが送られてきた。俺はリンクをタップし、その企画書に目を通した。
「えーっと、なになに。……新年一発目の、JRA(中央競馬会)との大型コラボイベント。会場は競馬場。……で、日付けは」
俺は、そこに記載されていたイベントの開催日に視線を落とし。ふと、動きを止めた。
「……来年の、一月四日。『金杯』でのコラボイベント、だってさ」
『金杯……。新年の始まりを告げる、伝統のレースですね』
一月四日。カレンダーを見上げれば、今日は十二月の三十日だ。年が明けてから、およそ四日後。それが、この公式イベントの本番の日。
俺はスマホの画面から視線を上げ、宙に浮かぶカフェの顔を見た。カフェもまた、何かを察したように俺を見つめ返していた。
二人の口元に、自然と、ひどく曖昧な苦笑いが浮かぶ。
「……なぁ、カフェさん」
『はい』
「この時(一月四日)まで……俺、この姿(身体)でいると思うか?」
俺の問いかけに、カフェはふわりと長い黒髪を揺らし、小首を傾げた。
『……わかりま、せんね』
現在、かっふぇのフォロワー数は31万人を優に超えている。目標である『32万人(レジェンドウマ娘)』の到達と、ウマスタを通じた異世界への通信回線の確立まで、本当にあとわずかなのだ。
「明日は大晦日だ。年越し配信でもぶち上げれば、今の勢いなら確実に数万人は集まる。間違いなく、年が明ける瞬間には……32万人の壁を越えることができると予想できるよな?」
もし、32万人に到達し、カレンチャンやタキオンとの通信が完全に繋がったら。その瞬間、次元の歪みが修正され、俺の魂は元の三十路男の身体へと弾き出され、カフェたちは元の世界へと帰還してしまうかもしれない。
つまり、一月四日のイベント当日には、『かっふぇ』というインフルエンサー自体が、この世界から跡形もなく消滅している可能性が非常に高いのだ。
「……でもまぁ、一応はOKとしておこう。向こうの世界との通信が繋がったからって、すぐに帰れるとは限らない。何があるかわからんしな」
『ええ。帰還の手続きや、次元の調整に時間がかかるかもしれませんからね』
「それに、最悪当日に俺たちが元の身体に戻っちまってても……『ボランティア』として約束しただけだからな。体調不良でドタキャンしたって、違約金が発生するわけじゃない。向こうには迷惑かけちまうが、そこはインフルエンサーの気まぐれってことで諦めてもらうしかないさ」
俺がそう言って肩をすくめると、カフェも、
「そう、ですね」
と深く頷いた。
「ひとまずは、年明けの金杯イベントをターゲットに設定して動く。……だが、その前に帰れる、体が戻れるチャンスが来たら、迷わず元の世界への帰還を優先する。……これでいいな?」
『はい。四月一日さんとのこの奇妙な生活も……いよいよ、最終コーナーを回った、ということですね』
カフェの黄金の瞳が、どこか名残惜しそうに、けれど真っ直ぐに未来を見据えて光った。
「(スリスリ……)」
不意に、足元から温かい気配を感じた。見下ろすと、お友達が、俺の足とカフェの足を交互に撫でながら、俺たち二人の顔を楽しそうに見つめていた。
「ははっ、お前は本当に、ずっと呑気でいいな」
『ふふっ。お友だちなりに、私たちの結末を見届けようとしてくれているのですよ』
六畳間のアパート。
俺と、幽霊と、悪霊。
最初は戸惑いと絶望しかなかったこの奇妙な共同生活は、冬の寒空の下、確かな絆と目的を共有する『チーム』へと変わっていた。
公式イベントという保険を手に入れ。俺たちは、全てに決着をつけるための舞台――フォロワー32万人を賭けた『大晦日の年越し配信』へと、静かに、しかし熱い闘志を燃やして歩みを進めていった。