十二月三十一日、大晦日。
世間が紅白歌合戦や年越し番組で盛り上がり、どこか浮き足立った空気に包まれる中。俺の住む六畳間のアパートには、静かで、しかし確かな熱を持った緊張感が漂っていた。
「……よし」
鏡の前に立ち、漆黒の勝負服のシワを丁寧に伸ばす。黄色のリボンが定位置にあることを確認し、長く艶やかな黒髪をそっと撫でつけた。何度となく袖を通したこの特別な衣装も、もしかすると今日が最後になるかもしれない。そう思うと、指先に伝わる生地の感触が、いつもより少しだけ重く、そして愛おしく感じられた。
「……いよいよ、ですね」
空中にふわりと浮かぶ本物のマンハッタンカフェが、俺の隣に並ぶようにして鏡を覗き込み、静かに口を開いた。
「ああ」
俺は短く頷き、パソコンの横に置いたスマートフォンを手に取った。SNSのアプリを立ち上げ、現在のアカウント状況を確認する。
【フォロワー数:315,218】
コミックマーケットでの大旋風、そして競馬雑誌『ギャロップ』の発売効果。さらには、ネットニュースやまとめサイトでの『かっふぇ無加工すっぴん伝説』の拡散。それらが幾重にも重なり合い、フォロワー数は一晩でさらに数千人単位の伸びを見せていた。
「目標の32万人まで、あと五千人弱……。普通なら一日じゃ厳しい数字だが、今夜の『年越し』という特大のバフがかかった状態なら、絶対に射程圏内だ」
『ええ。今日この日のために、私たちが積み上げてきたものの集大成ですから』
足元のお友達も、見えない拳を握りしめて激しく首を縦に振っている。
「配信タイトルは、『年越し&32万人耐久』、だな」
『はい。……行きましょう、四月一日さん』
俺たちは互いに深く頷き合い、パソコンの前に座った。欲しいものリストに居れて、そしてファンによって手元に届いた配信器具一式、リングライトのスイッチを入れ、マイクの音量レベルを調整する。時計の針は、告知していた配信開始時刻である午後十時を、まさに指し示そうとしていた。
一つ、深呼吸。
日雇い労働者・四月一日の魂を奥底へ沈め、ミステリアスで可憐なウマ娘・かっふぇのペルソナを完璧に被る。
そして、マウスのカーソルを『配信開始』のボタンへと合わせ、静かにクリックした。
■
「……こんばんわ。かっふぇ、です」
配信画面が切り替わり、俺のウィスパーボイスがマイクに乗った瞬間。画面右側に表示されている同時接続者数のカウンターが、まるで壊れたスロットマシンのように凄まじい勢いで跳ね上がり始めた。
1万、2万、3万……そして開始数十秒で、あっという間に4万人の壁を突破する。
『うおおおおおおおお!』
『待機!!』
『今年最後のかっふぇだあああああ!』
『こんばんわああああ!』
『大晦日におつかっふぇー!』
『4万人!? 紅白の裏でこの同接はエグすぎるww』
滝のように……いや、もはや濁流のように流れ去っていくコメントの数々。俺は小首を傾げ、アンニュイな微笑みをカメラに向けた。
「……今日は、年越し配信、そして……32万人耐久です。……大晦日の、貴重な時間を、私なんかのために割いていただいて……本当に、ありがとう、ございます」
『かっふぇと年を越すために蕎麦買ってきたぞ!』
『むしろかっふぇさんを見るのが俺の年越し行事だ』
『今年も一年おつかれさまー!』
『いやほんと、お疲れ様。色々あったねー』
『っていうか、まだかっふぇさんデビューしてから数ヶ月しか経ってないんだもんなぁ……』
『信じられるか? あの競馬場での伝説の大食いから、まだ数ヶ月なんだぜ……』
『最初の写真投稿が懐かしいわ。あそこから全てが始まった』
『コミケ降臨から雑誌掲載まで、濃すぎる数ヶ月だったな』
リスナーたちが、この数ヶ月の激動の軌跡を振り返り、感慨深げなコメントを次々と投下していく。日雇いでその日暮らしをしていた頃からすれば、本当に信じられないような日々の連続だった。タワーバーガーを限界まで詰め込んだ日、有馬記念、そして昨日のコミケで数百人のカメラマンに囲まれた日。その全てが、この『32万人』という数字への布石だった。
そんなエモーショナルな空気が流れる中。ふと、コメント欄にいくつか、素朴な疑問が混ざり始めた。
『そういえばさ、今日のタイトル』
『なんで30万とか、キリのいい50万じゃなくて、32万人耐久なの?』
『確かに。32万人ってちょっと中途半端じゃね?』
『なんか意味ある数字なんだっけ?』
そのコメントを拾った俺は、カメラに向かって、スッと目を細めた。長い睫毛の奥にある黄金の瞳で、画面の向こう側のリスナーたちを真っ直ぐに射抜く。
「……中途半端、では、ありませんよ」
吐息混じりの、静かな声。俺は、カフェから教わったこの世界の真理を、誇り高く口にした。
「私は……、ウマ娘、ですから。……ファン数32万人は、『レジェンドウマ娘』への……大切な、一歩。ですよ」
その言葉が発せられた瞬間。コメント欄は、一瞬の静寂の後、爆発的な納得と歓喜の渦に飲み込まれた。
『あああああ! そういうことか!!』
『ゲームの仕様じゃん!!』
『確かにゲームだと32万人でレジェンドクラス到達だわ!!』
『うんうん、結構難しいよねあのファン数稼ぐの』
『そっか、32万人ってウマ娘だったら明確な一区切りなんだ!』
『さすがかっふぇさん、設定(?)に忠実すぎるww』
『なり切ってるねー! プロ意識高くてすこ』
『現実世界でレジェンドウマ娘のファン数耐久やる女、最高すぎるだろ』
『かっふぇをレジェンドに導くのは俺たちだ!!』
『【赤スパチャ¥10,000】レジェンドへの足しにしてください!!』
『設定』や『なり切り』だと解釈するリスナーたちの反応に、俺は心の中で、
(俺たちにとっては現実のシステムなんだけどな)
と苦笑しつつ、表面上は嬉しそうに小さく微笑んだ。
「……ふふっ。ありがとう、ございます。……私の、専属トレーナーにでも、なったつもりで。……どうか、最後まで、お付き合いくださいね」
『はいっ!!!(クソデカボイス)』
『トレーナーになります!!!』
『俺がかっふぇのトレーナーだ!!(後方腕組み)』
『同担拒否過激派トレーナー湧きすぎで草』
完璧なツカミと、リスナーのモチベーションの爆上げに成功し、現在のフォロワー数は【316,800人】を突破。このままいけば、年を越す前後に到達できる完璧なペースだ。
「……ひとまずは。年越しの時間まで、ゆっくり、お話ししましょうか」
俺はそう言って、コメント欄の質問を拾いながらの雑談パートへと移行した。
『今年一番美味しかったものは?』
「……一番、ですか。……とても迷いますが、やはり、初めて食べた『ビックサイズのサイズバーガー』と……昨日の、『打ち上げしゃぶしゃぶ』でしょうか。……お肉は、世界を救いますから」
『名言でた』
『肉食系ウマ娘』
『あんなに細いのにブラックホール胃袋なのバグでしょ』
『お正月はどこか行くの? 初詣とか』
「……そう、ですね。……人が少ない時間帯を狙って、少しだけ。……でも、屋台のりんご飴や、じゃがバターは……絶対に、食べたいですね」
『結局食い気じゃねーか!w』
『かっふぇさんが屋台にいたら絶対二度見するわ』
『俺の地元の神社に来てくれー!』
和やかなQ&Aをこなしていくうちに、時計の針は午後十一時を回った。コメントの熱気も少し落ち着き、大晦日特有の、どこかまったりとした、ゆるやかな空気が配信に漂い始める。
「……少し、喉が、渇きましたね。……せっかくの、年末ですし。ゆっくりと、珈琲でも、淹れましょうか」
俺は立ち上がり、あらかじめパソコンの横に用意しておいた、手挽きのコーヒーミルと、お気に入りのコーヒー豆を取り出した。
「……少しだけ。音を、大きくしますね」
マイクの感度を上げ、ミルの近くへと寄せる。ウマ娘の繊細な指先でハンドルを握り、ゆっくりと、一定のリズムで豆を挽き始めた。
―――ゴリッ……ゴリッ……ゴリッ……。
静かな六畳間に、豆が砕ける低く心地よい音が響き、マイクを通じて四万人のリスナーの耳へと届けられる。簡易的な『ASMR』の始まりだ。
『うおお……耳が幸せすぎる』
『ミルの音めっちゃ良い……』
『かっふぇさんのウィスパーボイスと珈琲を挽く音、親和性高すぎて寝落ちしそう』
『大晦日の夜に、美少女が静かに珈琲を淹れてくれる配信。ここが天国か』
『画面越しなのに、焙煎のいい香りが漂ってきそう』
「(スンスン……)」
足元では、お友達の影がミルの下からこぼれる香りを嗅ぐように、見えない鼻をヒクヒクさせている。空中のカフェも、目を閉じてその心地よい音と香りの想像に浸っているようだった。
やがて豆を挽き終わり、ドリッパーにお湯を注ぐ。
コポコポ……というお湯の滴る音と、粉が膨らむかすかな音が、さらにリスナーたちの心を落ち着かせていく。
マグカップに注がれた漆黒の液体を、両手で包み込むように持ち、カメラの前でふう、と小さく息を吹きかけた。
「……いただきます」
コクッ、と喉を鳴らして一口飲む。
『美味しそうに飲むなぁ』
『見とれちゃう』
『CMのオファー来るぞこれ』
そんな癒しのコメントが流れる中、ふと、一つのコメントが目に留まった。
『年越しだし、珈琲じゃなくて、お酒は飲まないんですか?』
『あー、確かに。大晦日くらい飲んでもいいよね!』
『かっふぇさんのほろ酔い姿とか絶対ヤバい(確信)』
『絶対日本酒とか似合う』
お酒か。
日雇い時代、俺にとって仕事終わりのストロング系チューハイや安物の発泡酒は、生きるための鎮痛剤のようなものだった。正直、大晦日くらいは熱燗でも一杯やりたい気分ではある。
だが。今、俺が被っているこの肉体とペルソナは、どう考えても『そういう設定』ではない。俺はマグカップをそっと机に置き、ほんの少しだけ目を丸くしてから、クスリと悪戯っぽく笑った。
「……お酒、ですか?」
カメラに顔を近づけ、ひそひそ話をするように、限界まで声を落として囁く。
「……私。こう見えても……未成年、ですから。……お酒は、ダメですよ」
トレセン学園の生徒であるウマ娘は、当然ながら学生であり未成年だ。冗談なのか、完璧なキャラづくりなのか、それとも本当に見た目通りの年齢なのか。その曖昧でミステリアスな回答に、コメント欄は今日一番の熱狂で弾け飛んだ。
『未成年(概念)』
『そりゃウマ娘(学生)だもんな!!!ww』
『キャラ守っててえらい!』
『中身は絶対酒豪だろ!! 競馬場でモツ煮食ってたし!!』
『未成年でこの妖艶さと落ち着きは完全にバグだろ』
『いや、案外ガチで女子高生とか女子大生くらいの年齢説あるぞ。肌綺麗すぎるし』
『未成年かっふぇにお年玉あげたい……』
『【赤スパチャ¥50,000】お年玉です!!!』
『【赤スパチャ¥10,000】ジュース買ってね!!』
「……ふふっ。お年玉、ありがとう、ございます。……大切に、使わせて、いただきますね」
俺が上品に微笑みながら会釈をすると、スパチャの雨はさらに激しさを増していった。
時計の針は、午後十一時四十五分。
年明けまで、残り十五分だ。
パソコンの隅に表示させている別ウィンドウのカウンターはといえば……。
SNSのフォロワー数は――。
【319,104】
「(……来るぞ)」
俺はマグカップを握る手に、ギュッと力を込めた。隣にいるカフェの表情が、スッと引き締まる。お友達も、揺れるのをやめてじっと画面を凝視していた。
32万人という『レジェンドウマ娘』への大台。
そして、異世界のシステム『ウマスタ』との完全なリンク。
この推測が正しいのか、それとも肩透かしだったのか……、泣いても笑っても、あと千人弱で結果が判る。
「……皆さん。今年も、残り。……あと、わずかですね」
俺は、珈琲の香りが漂う六畳間から、四万人のリスナーたちへ向けて、静かに、しかし確かな祈りを込めて語りかけ始めた。
世界の境界線を越えるための最後のカウントダウンが、今、始まろうとしている。
※明日、明後日はちょっとお休み。
次話投稿は27日(日曜日)の予定です。