一方、その頃。別次元に位置するトレセン学園においても、事態は静かに、しかし確実に動き始めていた。
「ふぅむ……居ないねぇ」
白衣のポケットに両手を突っ込み、アグネスタキオンは誰もいない廊下で一人、深く息を吐き出した。カフェが忽然と姿を消し、代わりに世界に現れた『四月一日』という名の謎の用務員。彼に直接接触し、肉体と精神の入れ替わりに関する何らかの情報を引き出そうと考えたタキオンは、学園内をあちこち探索していた。
だが、これが驚くほど見つからないのだ。
「たづなさん、少し良いかな。最近よく見る『四月一日』という用務員の所在を知らないかい?」
「四月一日さんですか? ええ、本当に働き者で、私たちも助かっているんですが……どこにいるかと言われると。さっきまで中庭の落ち葉を掃いていたはずなんですけどねぇ」
理事長秘書の駿川たづなに聞いても、首を傾げられるばかり。
「……彼なら、先ほど生徒会の備品搬入を手伝ってくれたところだ。非常に手際が良くて助かっているのだが、終わると風のように去っていってしまってな。今どこにいるかは私にも判らない」
生徒会長であるシンボリルドルフでさえ、その神出鬼没ぶりにはお手上げのようだった。さらには、自らの担当トレーナーである『モルモット君』を捕まえて問い詰めてみたが。
「ああ、四月一日さん? さっきトレセン学園の裏口付近で、壊れたフェンスの修繕をしてくれてたよ。愛想はあんまりないけど、仕事が丁寧ですごくお世話になってるんだ。探してるなら裏口に行ってみたら?」
そう言われて裏口へ向かっても、そこには見事に修繕されたフェンスがあるだけで、当の本人の姿は影も形もなかった。誰もが『彼には世話になっている』と口を揃えるのに、誰も彼の正確な足取りを掴めていない。まるで、最初からこの学園の風景の一部として溶け込んでいるかのような、異様なまでの存在感の無さ、あるいは隠密性の高さだった。
「やれやれ……。随分と学園の裏方に馴染んでいるじゃあないか。……おや?」
タキオンが白衣の裾を翻し、次の捜索場所を思案していたその時。白衣のポケットに入っていたウマホが、短い振動と共に通知音を鳴らした。画面を開くと、ウマスタのメッセージアプリに『マンハッタンカフェ』からの新着メッセージが届いていた。
『マンハッタンカフェ:大欅の場所が判った。府中競馬場……ああ、そちらではレース場、だな。の、大欅だ。こっちにはトレセン学園がない代わりに、そういう事になってる』
その文面を見た瞬間、タキオンの紅茶色の瞳に、理知的な光がスッと灯った。彼女は「ククッ」と喉の奥で笑い声を漏らし、慣れた手つきでフリック入力を返す。
『アグネスタキオン:合点がいったよ。パラレルワールドの差異とはいえ、大欅……。私の知っている物ならば、あの第三コーナーのあたりにある、あの大欅でいいのかな?』
『マンハッタンカフェ:それだ』
『アグネスタキオン:であれば、やはり『想いが募る場所』だからこそ、だね』
タキオンは、学園に隣接する府中レース場の、あの巨大な樹木の姿を脳裏に思い描いた。
『アグネスタキオン:ウマ娘は皆、ターフの上で無数の人々の想いを背負って走る。ならば、その想い(エネルギー)を長年受け止め、吸い続けた場所にもまた……次元を歪めるような、色々なオカルト(特異点)が生じるのだろうさ』
全ては必然だったのだろう。彼女が薬品を投入したトレセン学園の切り株と、別次元の日本に存在する府中競馬場の大欅。その二つは、並行世界において『無数の思念が集束するポイント』という共通の役割を持ち、だからこそ二つの世界を繋ぐポータルとして機能した。
謎の大部分が解明され、タキオンが科学者としての知的好奇心を大いに満たしていた、その矢先。
『マンハッタンカフェ:すまん、カフェから伝言だ』
画面の向こうにいる四月一日から、ふいにワンクッションを置いたメッセージが届いた。そして、その直後に送られてきた文面は、間違いなく彼女のよく知るウマ娘の言葉そのものだった。
『マンハッタンカフェ:「余計な事をしなければ、こんなことにはならなかったんです。反省してください。タキオンさん」……だとさ』
「アハハハッ!」
タキオンは、誰もいない廊下で腹を抱えて大笑いした。文字面だけでも、あの黒髪のウマ娘が呆れ果てたような、恨みがましい目をこちらに向けているのがありありと想像できた。
『アグネスタキオン:辛辣な言葉が染み入るよ、カフェ。いやはや、やはり君がいないと、この部屋も学園もどうにも張り合いがない。無事に戻ってきた暁には、お詫びとして私の特製・特別な栄養ドリンクをプレゼントして差し上げようじゃあないか!』
軽口を叩きながら送信ボタンを押すと、今度は数秒のタイムラグすらなく、即座に返信が飛んできた。
『かっふぇ(四月一日):「不要です」……だとさ』
「ククッ……相変わらず、つれないねぇ」
即答で拒絶されたタキオンだったが、その表情はどこまでも楽しげだった。姿形は変われど、魂は間違いなく繋がっている。その事実が、得体を知れない並行世界の謎に挑むタキオンの心に、確かな熱を灯していた。
「さて、と」
タキオンはスマートフォンを白衣のポケットにしまい、顔を上げた。
次元を繋ぐポータルの場所は特定できた。あちらの世界のカフェたちがフォロワーを増やし、ウマスタの機能を完全に掌握して次元の壁をこじ開けるのを待つのが本筋だ。だが、こちら側にいる『四月一日』という存在を放置しておくわけにもいかない。彼を確保し、現状、お前は誰なのかを問い詰める必要がある。
「私一人では、あの神出鬼没な用務員君を見つけるのは骨が折れそうだからね。ここは素直に、彼女たちの手を借りるとしようか」
タキオンはニヤリと笑みを深め、白衣の裾をなびかせながら踵を返した。
向かう先は、学園の女子寮。カフェの記憶を保持している数少ない協力者……カレンチャンとネオユニヴァースのいる部屋へと、タキオンは軽やかな足取りで向かっていった。
■
『マンハッタンカフェ:こちらは深夜、というか早朝ですけど、よく寮長が許してますね。と、カフェが言っているけど』
スマホの画面越しに、呆れ果てたカフェの言葉をそのまま打ち込んで送信する。トレセン学園の女子寮は門限や消灯時間に厳しいと聞いている。こんな時間までスマホをいじっていれば、普通なら寮長(ヒシアマゾンというウマ娘らしい)に見つかって大目玉を食らうらしいのだ。
しかし、すぐに返ってきたタキオンのメッセージは、俺とカフェの前提を根本から覆すものだった。
『アグネスタキオン:おや、こちらはまだ夕方だよ。そちらは何時なんだい?』
「……夕方?」
俺はパソコンの時計に目をやった。デジタル時計は『午前4時15分』を指している。年越し配信を終え、興奮冷めやらぬままタキオンたちと情報共有を続けていたため、すっかりこんな時間になっていたのだ。
『マンハッタンカフェ:朝四時だな』
『アグネスタキオン:ほう、面白い。こちらは夕方4時だ』
『マンハッタンカフェ:……ちなみに、年明けの四時だが』
『アグネスタキオン:ますます面白いじゃあないか。こちらは年末の夕方4時だ。……つまり、キッチリ12時間ズレているねぇ』
「12時間……時差があるのか」
俺がポツリと呟くと、背後のカフェも『なるほど……』と納得したように顎に手を当てた。地球の裏側でもあるまいし、別次元との間に半日もの時差が存在するとは思いもしなかった。
『アグネスタキオン:もしかして、向こう側(君たちのいる世界)が先に進んでいて、後からその影響を受ける形でこちらの世界の時間が流れている……?』
タキオンから、いかにも科学者らしい考察が飛んでくる。しかし、すぐに、
『アグネスタキオン:いや、証明する手段がない以上、今は仮説の域は出ないな』
と、自己完結したようなメッセージが続いた。
『アグネスタキオン:それより、四月一日君とやら。先ほどの話の続きだが……君と同名の作業員が、どうにもすばしっこくてなかなか捕まらなくてね。行動パターンや居場所について、何か心当たりはないかい?』
「心当たり、と言われてもなぁ……」
俺は頭を掻いた。自分の抜け殻がどういう基準で動いているのかなど、元の持ち主である俺にもさっぱり見当がつかない。
『マンハッタンカフェ:……さあなぁ。むしろ、同姓同名と言うか……俺の肉体が今行方不明でね。それが俺の身体なら、可能なら取り戻したいぐらいだが』
日雇いで鍛えた頑丈さだけが取り柄の冴えない肉体だが、これでも三十年近く連れ添った自分の器だ。異世界で勝手に用務員としてこき使われていると想像すると、なんとも言えない複雑な気分になる。
『アグネスタキオン:ほうほう。では、彼に会ったら写真を送ろう。それで確認してくれたまえ。もしそれが君の体だった場合は、肉体はこっちにきて、精神はそちらに残り、カフェの体に入っているという……まぁトンチキな状態という事になる』
「トンチキって……」
俺は苦笑いを浮かべた。確かにその通りなのだが、天才科学者にそうあっさりと断言されると、自分たちの置かれている状況の異常さがより際立ってくる。
『マンハッタンカフェ:……自分の抜け殻を確認するのは怖いが、頼んだ』
『アグネスタキオン:任されたとも』
画面の向こうで、タキオンがニヤリと笑っている光景が目に浮かぶ。彼女にとって、この次元を跨いだ異常事態すらも、極上のモルモット(観察対象)でしかないのだろう。
『アグネスタキオン:にしても、こうして別次元と安定してメッセージが出来ているのは奇跡だねぇ』
ふと、タキオンがそんな感慨深げな言葉をこぼした。
『マンハッタンカフェ:確かに。最初にウマスタがクラッシュした時は、二度と無理かと思ったよ』
フォロワー24万人で一瞬だけ繋がり、強制再起動で途絶えた細い糸。それが今、32万人の『レジェンドウマ娘』へ到達したことで、強靭なケーブルとなって二つの世界を繋ぎ止めている。無数のオタクたちの情熱とシャッターの閃光が、文字通り次元の壁を穿ったのだ。
「……とりあえず、俺たちが今やれることはやり切ったな」
俺はスマホを机の上に置き、大きく伸びをした。タキオンたちが向こうの世界で『四月一日』の肉体を見つけ出し、ポータルである大欅の謎を解明してくれるのを待つ。そして俺たちは、こちらの世界で公式イベント(金杯)を成功させ、さらなるフォロワーを獲得する。
『ええ。……長かった一日が、ようやく終わりますね』
カフェが、窓の外の白み始めた空を見つめながら静かに微笑んだ。お友達の影も、疲れ果てたようにボストンバッグの横で丸くなっている。
年明けの、午前四時過ぎ。
異世界とのホットラインを繋いだまま、俺はウマ娘の身体をベッドへと横たえ、ようやく深い、深い眠りへと落ちていった。