正月二日目の朝。六畳間のアパートに差し込む冬の陽光で、俺は重い瞼をゆっくりと押し上げた。
「……あー、身体痛ぇ……」
大晦日の年越し配信、そして深夜(早朝)までのタキオンたちとの異世界通信。怒涛の疲労感が全身の筋肉に鉛のようにのしかかっていた。ウマ娘の強靭な肉体であっても、中身のおっさんのキャパシティを完全に超えた数日間だったことは間違いない。
布団の中でモゾモゾと身をよじらせながら、俺は枕元に放り投げていたスマートフォンを手探りで掴み取った。画面を点灯させると、SNSのメッセージアプリに一件の通知が来ている。アイコンは、あのウマ娘の公式企業アカウントからだった。
『かっふぇ様、あけましておめでとうございます。先日お話ししておりました公式イベントの件ですが、詳細が決定いたしました。一月四日、『京都金杯』の開催に合わせて、京都競馬場でのゲスト出演をお願いしたく存じます』
「……京都、か」
俺は寝ぼけ眼をこすりながら、その文面を呟いた。関東圏の中山競馬場ではなく、関西の京都競馬場。日雇い時代、交通費をケチって隣県にすらろくに行かなかった俺にとっては、完全なる『遠征』だ。
『京都、ですか。……ふふっ。これはまた、少し遠出の旅行になりますね』
いつの間にか俺の枕元にふわりと浮いていたカフェが、そのメッセージを覗き込んで、少しだけ楽しそうに黄金の瞳を細めた。足元では、すでにお目覚めだったお友達が「京都だー!旅行だ旅行だ!」とばかりに、見えない両手を上げてバンザイをして跳ね回っている。
「旅行だなぁ。……まぁ、新幹線代とかは向こうが手配してくれるんだろうし、楽しませてもらうか」
俺は布団から這い出しながら、企業への返信を打ち始めた。
『ご連絡ありがとうございます。京都競馬場での件、承知いたしました。……ちなみに、こちら側のSNSアカウントで、イベントに出演する旨を宣伝してもよろしいでしょうか?』
送信すると、正月だというのに即座に折り返しの返信が来た。中の人もご苦労なことだ。
『もちろんです! 大歓迎いたします。ただ、こちらでの公式発表を本日の昼、12時に予定しております。かっふぇ様の告知も、そちらの時間に合わせていただければ幸いです!』
画面上部の時計を見ると、現在の時刻は午前10時を少し回ったところだった。
「12時解禁か。なら、それに合わせて告知のポストを作っておくとするか」
『はい。……その前に、朝食ですね、四月一日さん』
「ああ。腹減ったな」
俺はスマホをデスクに置き、小さなキッチンへと向かった。ウマ娘のブラックホール胃袋を満たすには到底足りないかもしれないが、とりあえず冷蔵庫にあるもので手早く済ませることにする。フライパンに油をひき、ウインナーを数本転がして火にかける。パチパチと弾ける音と共に食欲をそそる香りが漂ってきたところで、卵を二つ割り入れて目玉焼きを作る。
その横で小鍋に湯を沸かし、スーパーの特売で買っておいた季節外れのオクラを刻んで入れ、味噌を溶き入れて即席の味噌汁を完成させた。どんぶりには、昨日の夜に炊いておいた白米を山盛りにする。
そして最後に、一番重要な作業――、手挽きのミルで豆を砕き、三杯分のコーヒーを丁寧にドリップする。
「ほらよ。熱いうちに香りと味を楽しみな。おあがり下さい、っと」
『……ありがとうございます。とても良い香りです』
「(スンスン)」
小さな折り畳みテーブルの上に、カフェとお友達のためのマグカップを二つ置き、自分用のコーヒーと朝食のセットを並べる。ウインナーの脂と目玉焼きの黄身を白米に絡め、一気に口の中へとかき込む。オクラの味噌汁で流し込むと、疲れた五臓六腑に温かい塩分が染み渡っていった。
「……美味ぇ」
俺がどんぶり飯を平らげ、食後のコーヒーで一息ついたところで。ふと、昨日から頭の片隅でずっと燻っていた『ある計画』を、カフェに打ち明けることにした。
「……なぁ、カフェさん。ちょっと相談というか、提案があるんだが」
『はい。何でしょうか?』
マグカップの湯気を手で仰ぐような仕草をしていたカフェが、不思議そうに小首を傾げる。
「今回の公式イベントのことなんだが……。いっそ、向こうの企業(公式)に、『本当のこと』を少し混ぜて伝えて、大々的に協力を仰ぐってのはどうだろう?」
『本当のこと、ですか? ……詳しく、お聞かせ願えますか』
「ああ。つまり、こういうことだ」
俺は少し身を乗り出し、声を潜めるようにして語り始めた。
「俺たちが目指してる100万人のフォロワー獲得、そして府中競馬場にある『大欅』の調査。これを俺たち個人の力だけでやるには、流石に限界がある。特に大欅なんて、競馬場の敷地内だ。勝手に入り込んでゴソゴソやってたら、一発で不審者扱いされてつまみ出される」
『……確かに、セキュリティは厳しいはずですね』
「だから、ウマ娘の公式企業っていう『最強のスポンサー』を味方につけるんだよ。『実は私、異世界から迷い込んでしまった本物のマンハッタンカフェなんです』って、耳と尻尾を直接見せて信じ込ませる」
俺の突拍子もない提案に、カフェは驚いたように目を丸くした。
『それは……あまりにも危険な賭けではありませんか? 企業の方に信じてもらえるかもわかりませんし……。それに、もし私が本物だと名乗ったとして、四月一日さんの肉体や、このアパートでの生活はどう説明するのですか? 身分証などの問題が、根本的に解決していませんよ』
至極真っ当な懸念だ。
俺の魂がカフェの身体に入っている以上、『中身は四月一日というおっさんです』などと正直に言えば、間違いなく精神異常者か厄介な詐欺師として病院送りにされるだろう。
「そこなんだよ。そこもちゃんと考えてある」
俺はニヤリと笑い、人差し指を立てた。
「つまり、今のこの状況を、『ぐるっと180度逆転させて』伝えるんだ」
『180度、逆転……?』
「(首をコテン)」
カフェだけでなく、足元のお友達も「どういうこと?」と首を傾げている。
「よく聞けよ。今、現実は『カフェの肉体に俺(四月一日)の魂が入っていて、幽霊としてカフェとお友達が横にいる』って状況だろ?」
『はい』
「それを、公式にはこう伝えるんだ。『私は本物のマンハッタンカフェ本人です。ですが、こちらの世界に来た時、四月一日という人間の幽霊(守護霊)に取り憑かれてしまいました。この世界の身分証や手続きは、その幽霊の四月一日が、自分の残した戸籍を使ってサポートしてくれています』……って具合にな」
俺がその『カバーストーリー』を口にした瞬間。
六畳間に、数秒間の静寂が落ちた。
『…………あっ』
やがて、カフェが全てを理解したように、ポンッと小さく手を打った。
「わかるか? これなら、中身がおっさんだという信じがたい真実を隠したまま、『なぜマンハッタンカフェが、四月一日という全くの別人の男の身分証やアパートを使って、この世界で不都合なく暮らせているのか』という矛盾を、完璧に説明できるんだ」
このカバーストーリーの最大の利点は、企業側から「四月一日」という人間の存在を不審に思われても、「彼は私を助けてくれている幽霊(マネージャー)なんです」と言い訳ができることだ。それに、本物のウマ娘と判れば、あちらも気を使ってウマスタの内部(タキオンとのやり取りなど)を強制的に見られるリスクも少ないだろう。何せ、本物なのだから。
だから、俺はあくまで『マンハッタンカフェのフリをしたマンハッタンカフェ』という、ある意味トンチキとして振る舞い続ければいい。
「これなら、身分証が俺(男)のものでも、企業側は『幽霊の代理人が契約している特例』として、なんとか処理できるかもしれない。公式の協力を得られれば、大欅の調査だって大手を振ってできる。……コレで、行けるんじゃねぇかって思うんだが」
俺の熱弁を聞き終えたカフェは、顎に手を当てて深く思案し始めた。
『……なるほど。真実と嘘を反転させることで、こちらの状況の辻褄を合わせるのですね。確かに、論理としては非常に筋が通っていますし、良い作戦かもしれません』
だが、彼女は黄金の瞳に少しだけ不安の影を落として、俺を見つめ返した。
『……でも。企業の方々は、それを信じるでしょうか? いくらなんでも、異世界から来ただの、幽霊がついているだの……常識的に考えて、一笑に付されて終わる可能性が高いのでは』
当然の危惧だ。現代社会を生きる大企業の人間が、そんなオカルトじみたファンタジー設定を簡単に信じるわけがない。だが。俺には、それを無理やりにでも信じさせるための『絶対的な武器』があった。
「そりゃあ、言葉だけなら誰も信じねぇよ。でもな」
俺はダボダボのTシャツの首元を少し引っ張り、頭の上でピンと立っている本物のウマ耳を指差した。
「人間の耳があるはずの場所には、髪の毛と平らな肌しかない。頭のてっぺんから生えてるこの耳には、間違いなく血管が通ってて、体温がある。腰から生えてる尻尾も、骨の髄から動かせる」
そして、俺は履いているパラシュートパンツの上から、己の太ももをパンッ! と力強く叩いた。
「なにより……この脚がある」
『え……』
「中身がおっさんだろうがなんだろうが、この肉体は紛れもなく『ウマ娘』なんだ。本気で走ったら、時速60キロ以上で、人間の常識をへし折るスピードで走れる。……目の前で馬並みの速度で走られたら、向こうは認めるほかねぇじゃん?」
いくら高度な特殊メイクやCGだと疑おうと、圧倒的な『物理法則の無視(身体能力)』を見せつければ、どんな現代人でも己の常識を疑わざるを得なくなる。
「百聞は一見に如かず、だ。京都のイベントで公式の偉いさんに会ったら、挨拶代わりに、度肝を抜いてやるのさ」
俺が不敵な笑みを浮かべてそう言い放つと。カフェはパチクリと数回瞬きをした後、呆れたように、しかしとても頼もしそうに、ふわりと微笑んだ。
『……ふふっ。本当に、四月一日さんという人は……大胆不敵というか、無茶苦茶ですね』
「日雇い現場じゃ、声のデカさと実力を見せつけた奴が勝つんだよ。公式だろうがなんだろうが、巻き込めるもんは全部巻き込んで、最短距離で元の世界に帰してやるさ。俺も元に戻りたいしな」
時計の針が、午前11時半を回ろうとしていた。
12時の公式発表まで、あと少し。
「よし、そろそろ宣伝のポストを作るか。京都金杯で、かっふぇの伝説の第二幕をブチ上げてやる!」
「(オーッ!!)」
お友達が、見えない拳を天高く突き上げる。
公式という最強のカードを利用し、100万人のファンと大欅へと迫るための、大胆すぎる『反転計画』。
俺たちは決意を新たに、パソコンの画面へと向き直った。新たな年、新たな戦いが、いよいよ本格的に幕を開けようとしていた。