動画を投稿してから数時間後。
部屋を片付け、洗濯を済ませ。飯のためにスーパーから持ち帰ったばかりの米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れたあたりで、放置していたスマホが今まで聞いたことのない頻度で「ピコン、ピコン」と通知音を鳴らし始めた。
「……お?」
画面を覗き込むと、先ほど投稿した『お米買ってきました』の動画が、ものすごい勢いで拡散されていた。
タイムラインには、驚愕と混乱の入り混じったコメントが次々と流れていく。
『おいおい片手で……この細腕でどうやって?』
『影の落ち方や重心のブレを見てみたけど、加工してないねこれ。ガチだ』
『フィジカル、圧倒的フィジカル』
『どこのジム行ってるの? ぜひ筋トレのメニュー教えてほしい』
『ただのコスプレかと思ったけど、なんか本物のウマ娘みたい。耳の動きとかすごい作り込み』
『この超人的な絵面で、背景が生活感あふれる安アパートっていうのがシュールすぎるw』
『だぼだぼの服可愛い。どこのやつだろ?』
どうやら、コスプレ界隈やウマ娘ファンだけでなく、日夜肉体改造に励む「筋肉クラスタ」の目にも留まったらしい。
「CGやワイヤーアクションを疑う層」と「ガチの筋力だと見抜いて戦慄する層」、そして「クオリティの高すぎるコスプレだと勘違いする層」が見事に混ざり合い、ちょっとしたバズを引き起こしているようだ。
炊飯器から漂い始めた甘い米の香りを嗅ぎながら、俺はニヤリと口角を上げた。
「お、これは悪くない、悪くないぞー」
画面右上のフォロワー数のカウンターが、更新するたびにチャリン、チャリンと目に見えて増えていく。この調子なら、インフルエンサーとして小銭を稼いで生活基盤を安定させるというAIの提案も、あながち夢物語ではなくなってくる。
宙に浮いたまま俺の肩越しに画面を覗き込んでいたカフェも、嬉しそうに目を細めた。
『ふふ。良い感じにフォロワーさんも増えています。順調ですね』
彼女自身、あちらの世界でファンを獲得していく過程を知っているからか、数字が伸びていくことに対する喜びにはどこか実感がこもっていた。足元では、お友達の影が「やったやった!」とばかりに小躍りして、床を無音でタップしている。
「ああ。これなら、意外とこの現実世界でも図太く生きていけそうだな」
湯気を上げる炊飯器を背に、俺たち――奇妙な運命共同体――は、スマホの画面を見つめながら揃って楽しげに笑い合った。
■
炊きたての白米の香りが、狭いアパートの部屋いっぱいに充満する。
スーパーで買ったばかりの鮭を焼き、ほうれん草のお浸しを作り、インスタントの味噌汁を添える。ごく普通の、いつも通りの夕食のはずだった。
だが、いざ食卓につき、手を合わせて箸を伸ばした瞬間から、俺は自分の中に潜む「異常」に気がついた。
―――米が、止まらない。
茶碗一杯のご飯が、文字通り一瞬で消え去る。おかずを少しつまむだけで、また白米が欲しくなる。無意識のうちに炊飯器へ向かい、おかわりをよそう。その動作を三度、四度と繰り返すうちに、先ほど炊き上がったばかりの三合の米が、あっという間に底をついてしまった。
「……嘘だろ。俺、三合食ったのか?」
空になった炊飯器の釜を見つめ、俺は呆然と立ち尽くした。
満腹感はある。しかし、胃もたれするような苦しさは微塵もなく、むしろ「ちょうどいい腹八分目」といった爽快感すらある。
『……恐らくは、先ほど力を使ったからだと思います』
俺の顔色を窺うように、カフェが少しだけ申し訳なさそうな声で告げた。
『ウマ娘の身体は、車で例えるなら燃費の悪いスポーツカーのようなものです。運動すればするほど、莫大なエネルギーを消費し、それを補給しなければなりません。三十キロの米袋を持ち運んだことで、本能的にカロリーを要求したのでしょう』
「なるほどね……。こりゃ、米は三十キロで正解だったわ」
俺は額に手を当て、深い溜息をついた。
食費のエンゲル係数が跳ね上がる未来が確定したが、今は嘆いている場合ではない。この「大飯食らいのスポーツカー」に燃料を与え続けるためにも、稼ぐための何か……、現状はインフルエンサーとして、しっかりと稼ぐ基盤を作らなければならないのだ。
食後のコーヒー、もちろんカフェとお友達のための「お供え」付きを準備し、俺たちは改めてテーブルを囲んだ。
「さて、調子に乗っての第二弾の動画企画を考える会、といくか」
マグカップから漂う香気とともに、俺は切り出した。
「さっきのバズり方を見る限り、俺たち――いや、この『マンハッタンカフェの身体』の強みは、その異常なフィジカルと可憐さのギャップにある。単なるコスプレや日常動画じゃなく、このパワーを使った動画を作ったほうがよさそうだよな?」
俺の提案に、空中のカフェと足元のお友達は、揃って深く頷いた。
「三十キロの米袋の次はどうする? リンゴでも片手で握り潰すか? いや、それはちょっと絵面が乱暴すぎるか……フライパンでも曲げるか?」
俺が思いつく限りの「怪力アピール」を羅列していると、カフェが静かに、しかしどこか強い意志を秘めた黄金の瞳で俺を見つめてきた。
『……四月一日さん。せっかくなら、走りを見せたいです』
「走り、か」
ウマ娘。
その名の通り、彼女たちの本質はそこにある。俺も元々ゲームやアニメで知っていた程度の知識ではあるが、彼女たちがレースにかける情熱は並々ならないものがあるはずだ。
『そうです。ウマ娘は、走るために生まれて来ました』
カフェの静かな声に、わずかに熱がこもる。普段はミステリアスな彼女だが、その根底には、誰よりも速く駆け抜けたいというアスリートとしての強烈な渇望が息づいている。
『この世界には、ターフも、歓声も、ライバルもいません。ですが……だからこそ、この世界でも、私たちの走りを見せたいのです』
彼女の言葉に呼応するように、傍らに立つお友達の影も、左右に激しく揺れながら「そうだそうだ!」と無言の熱い同意を示している。
その真っ直ぐな瞳と、不器用ながらも真摯な熱量に当てられ、俺は思わず毒気を抜かれたように息を吐き出した。三十路前の日雇い男が、他人の……しかも異世界の少女の熱意にほだされるなんて、我ながら笑えない。だが、不思議と嫌な気はしなかった。
「……わかったよ」
俺は腕を組み、ニヤリと笑って見せた。
「じゃあ、それ採用。次の動画で、ウマ娘の圧倒的なスピード、この現実世界の連中に見せつけてやろうぜ。……ま、CGとか、AIとか言われるのがオチだろうけどな」
『それは、それで。面白そうです』
■
夜の土手。人の気配はなく、ただ秋の夜風と虫の音だけが響いている。月明かりが、アスファルトの舗装路を青白く照らし出していた。
「よーし、ここなら誰にも見られないだろ」
俺は広角レンズに設定したスマホを、道端の車止めブロックに立てかけるようにして置いた。画面のボタンをタップし、録画モードを作動させる。
……させた、はずだった。
「まずは試しに、どんなもんか走ってみるか」
深く息を吸い込み、なんの気なしにアスファルトを蹴った。その瞬間である。
「おお!?」
思わず、自分の口から素頓狂な叫び声が漏れた。
一歩踏み出した瞬間の、爆発的な加速。風が壁のように顔にぶつかり、周囲の景色が線となって後ろへすっ飛んでいく。まるで、アクセルをベタ踏みしたスポーツカーか、大型バイクにでも跨っているかのような理不尽な推進力。
気を抜けば一気にトップスピードまで跳ね上がってしまいそうな勢いにビビり、俺は慌てて足にブレーキをかけた。
「おいおい……マジかよ」
息を呑み、興奮混じりに笑いながら空中のカフェへと視線を向ける。
だが、彼女の反応は予想に反して冷ややかなものだった。腕を組み、少し不満げに黄金の瞳を細めている。
「……どうしたん、カフェさん」
『フォームが無茶苦茶です』
ピシャリと、一切の容赦がないダメ出しが飛んできた。
『ただ力任せに足を回しているだけです。もっと、地面を蹴って、大きくストライド。腕も良く振ってください。前傾も少し強めに』
「お、おお?」
『私のポテンシャルは、そんなものじゃないです』
厳しいコーチの顔を見せた彼女に困惑しつつも、俺は言われた通りの姿勢を意識して、再び駆け出してみた。するとこれが驚きだ。
――全く、違う。
先ほどのような暴力的なだけの加速じゃない。地面の反発力を無駄なく推進力に変え、身体全体がぐいーっと前へ力強く押し出される圧倒的な感覚。
横を見れば、お友達の影が「その調子だ!」とばかりに楽しげに併走している。
さらにカフェも涼しい顔で並走しながら、『もう少し顎を引いて』『歩幅を保って』と次々にフォームの修正を告げてくる。気づけば、ただの試し走りが、完全なスパルタ・トレーニングの様相を呈していた。
「ふぅ……よし、こんなもんか」
ウマ娘の規格外のスタミナのおかげなのか、結構走ったのだが息一つ切れていない。
風を切る快感にすっかり満足し、俺はスタート地点へとジョギングで戻ってきた。
「さて、いざ本番の録画を回す前に、さっきのテスト動画を確認しよう………!?」
俺は、立てかけてあったスマホの画面を覗き込み、そのまま石像のように硬直した。
録画時間が表示されているはずの画面上部には、赤々と『LIVE』の文字が光り輝いている。
「げ」
そして画面の端では、滝のような勢いで何らかのテキストがスクロールし続けていた。
『どうされまし……、あ』
――俺は録画ボタンではなく、間違って、ライブ配信ボタンを押していたのだ。
■
画面の右端で、文字の滝が凄まじい勢いで流れ落ちていた。
最初は数人だったはずの視聴者数が、SNSのアルゴリズムに乗ってしまったのか、あるいは昼間の「三十キロ米袋バズり」からの流入か、数百、数千という単位でみるみるうちに膨れ上がっている。
そして、コメント欄はまさしく阿鼻叫喚の様相を呈していた。
『は? 今のスピード何!?』
『車かバイクのライトかと思ったら人じゃねーか!!』
『AI生成乙……ってこれライブ配信じゃん!! リアルタイムでどうやって合成してんの!?』
『いやいやいや、いくらなんでも速すぎる。CGでしょ?』
『生配信でこんな精巧なCGをトラッキング付きで流せる技術があるならそっちの方がヤバいわ』
『昼間にお米30kg片手で持ってたアカウントだ!』
『ウマ娘のコスプレ……? いや、それにしてもあのダッシュの初速、人間業じゃないぞ』
『陸上の世界記録とかそういう次元じゃないwww原付より速いwww』
『というかフォームが完璧すぎる。途中からめちゃくちゃ綺麗に加速したぞ』
『誰か速度計算してくれ!』
『もしかして本物のウマ娘って実在したの?』
疑念、驚愕、混乱、そして純粋な熱狂。
あらゆる感情が入り混じった無数のテキストが、とめどなく画面を下から上へと駆け抜けていく。深夜の閑散とした土手で、俺のスマホの中だけが異常な熱を帯びて炎上するように盛り上がっていた。
「…………」
『…………』
画面を覗き込んだまま、俺は石像のように固まった。背後からそっと画面を覗き込んでいるカフェも、さすがに予想外の事態に言葉を失っているようだ。お友達の影に至っては、「やっちまった」とばかりに頭を抱えるようなポーズで小刻みに震えている。
録画で撮って、後からいい感じに切り抜いて「走ってみました」程度の動画にするつもりだったのだ。まさか、フォームの確認から無茶苦茶な急加速、さらには見えない影(霊)とのスパルタ指導の様子まで、一部始終を全世界に向けて生放送してしまっていたとは。
「……っ」
冷や汗が背中を伝う。このまま黙って配信を切るのも不自然極まりない。かといって、気の利いた言い訳など今の頭で思いつくはずもなかった。
俺は咳払いを一つすると、カメラに向かって少しだけ顔を向けた。美しい黒髪が夜風に揺れ、黄金の瞳がレンズ越しに無数の視聴者を見据える。
「……夜分に、失礼致しました。それでは」
低く、静かで、どこか影を帯びた透明感のある声。
それを言い放つと同時に、俺はタップミスをしないよう慎重に、かつ最速で「配信終了」の赤いボタンを押し込んだ。
――ブツンッ。
画面が真っ暗に切り替わる直前、コメント欄の最後にこんな一文が弾けるように飛び込んできたのが見えた。
『えっ、声! 声聞いた!? マンハッタンカフェそのままじゃ!?!?』
暗転したスマホの画面には、呆然とした表情の美少女の顔が反射している。
「っしー……。……うっし! 帰るぞ!!」
『はいっ!』
俺はスマホをひったくるように掴み上げると、大急ぎで踵を返した。
せっかくカフェから教わった美しいストライドもフォームもかなぐり捨てて、なりふり構わず全力疾走で深夜の土手を駆け抜ける。
後ろでは、お友達の影が慌てた様子でついてきている。
明日、この大失態がネット上でどれほどの騒動になっているか……今は考えることすら恐ろしく、俺たちは逃げるように安アパートへと急ぎ足で戻るのであった。