冬の刺すような寒気が少し和らいだ、一月三日の午後。東京駅を一望できる、丸の内の落ち着いたカフェ。
「……本日は、お忙しい中お時間を作っていただき、誠にありがとうございます」
向かいの席に座るスーツ姿の男性――『ウマ娘』のプロモーションを担当する公式企業のS氏が、丁寧な手つきで名刺を差し出してきた。俺は小さく会釈をしてそれを受け取り、ミステリアスな美少女のガワを被ったまま、ウィスパーボイスで返答した。
「……こちらこそ。お招きいただき、光栄です」
俺の服装は、いつもの完全防備スタイルだ。目深に被ったニット帽でウマ耳を隠し、ダボダボのダウンジャケットとパラシュートパンツで全身のシルエットを覆い隠している。そして足元は、相変わらずの『い草地のサンダル』だ。日雇い時代からの癖で、足が蒸れるのが嫌で冬場でもこれなのだが、S氏は俺の足元をチラリと見て少し驚いたような顔をしたものの、すぐにプロの笑顔へと戻った。
「では、早速ですが明日の進行と、本日の予定についてご説明させていただきます」
S氏はタブレットを取り出し、スケジュール表を表示した。
「本日はこの後、新幹線で京都まで移動していただきます。すでに京都駅近くにご用意したホテルのスイートルームを押さえておりますので、そちらでゆっくりとお休みください。今回は『ボランティア(無償協力)』という特殊な形でのご参加ですので、交通費、宿泊費、そして滞在中の食事代等の経費は、全て弊社の方で負担させていただきます」
「……ありがとう、ございます。助かります」
「ただし、事前にご相談させていただいた通り、衣装……『勝負服』の準備やメイク等は、かっふぇ様ご自身でお願いする形となります。弊社でスタイリストや衣装を用意することも可能でしたが、かっふぇ様のご意向を尊重し、今回は『自前』ということで……よろしいでしょうか?」
「……ええ。私にとっては、あの服が一番……馴染みますから」
俺が静かに微笑むと、S氏は「なるほど」と深く頷き、そして、どこか信じられないものを見るような、それでいてオタク特有の熱を帯びた眼差しで俺の顔をじっと見つめてきた。
「それにしても……。こうして直接お会いして、改めて思いますが。本当に、『マンハッタンカフェ』そのものですね。SNSで拝見した無加工の写真にも驚かされましたが、実物のオーラはそれ以上だ」
S氏は感嘆の吐息を漏らし、俺のニット帽の隙間から覗く長い黒髪や、瞳の色を観察するように目を細めた。
「髪の質感も、背格好も、そして何より……その『目の色』。いやはや、現実の人間の地毛や裸眼で、その深い黄金色の瞳というのは、なかなか考えられないのですが……。事前のアンケートでもお伺いしましたが、カラーコンタクト等は、本当になされていないのですよね?」
「……はい。生まれつきの、地、です」
俺が真っ直ぐにS氏の目を見つめ返して答えると、彼は圧倒されたように背筋を伸ばし、苦笑いを浮かべた。
「いやぁ……本当に、凄いですね。神様が気まぐれで生み出した奇跡としか思えません。コミケでのあの異常な熱狂も、実際にこうしてお会いすれば納得しかありませんよ」
「……ふふっ。自覚は、あります」
俺が少しだけ悪戯っぽく微笑むと、S氏は「これはやられた」というように肩をすくめた。公式の担当者をも一瞬で虜にしてしまう、ウマ娘の圧倒的なビジュアルの暴力。この調子なら、俺が計画している『反転作戦(実は本物でした作戦)』も、案外すんなりと信じさせることができるかもしれない。
『……四月一日さん、とても順調ですね。相手の方も、すっかりかっふぇのペースに引き込まれています』
俺の隣の空席に座っているカフェが、紅茶のカップを傾けるふりをしながらクスリと笑った。足元のお友達の影も、テーブルの下でS氏の靴紐を結ぼうとするようなイタズラな動きをしている。
「では、明日の詳細な動きについてご説明します」
S氏がタブレットの画面をスワイプし、明日の京都競馬場でのタイムテーブルを表示した。
「明日はお昼に、ウマ娘の声優さんたちにご登壇いただく公式のトークイベントが予定されています。かっふぇ様のお仕事は、そのイベントに登壇していただくことです」
「……イベントに登壇、ですか」
「はい。具体的には、マンハッタンカフェ役、アグネスタキオン役、そしてジャングルポケット役の三名の声優さんの横で、本物のウマ娘さながらに控えていただき、イベントに華を添えていただく役割となります。時間は11時45分から12時30分まで。場所は、京都競馬場の『緑の広場』特設ステージです」
「……承知、いたしました」
プロの声優さんたちの横に並んで立つ。日雇い労働者のおっさんだった俺が、大勢の観衆の前で公式イベントのステージに立つ。冷静に考えれば足が震えそうなプレッシャーだが、俺の中には不思議と恐怖心はなかった。この数ヶ月、『かっふぇ』としてライブ配信で培ってきた度胸と、隣にいる本物のカフェの存在が、俺に絶対的な自信を与えてくれている。
「イベント終了後は、関係者席にご案内しますので、そこで昼食を取りながらメインレースである『京都金杯』をゆっくりとご観戦ください。そして、全レースが終了した後の16時35分から17時00分まで、再びステージにご登壇いただき、ファンの皆様へ向けて笑顔を振りまいたり、声優さんたちのサポートをしていただいたり……という流れになります」
「……わかり、ました」
「あ、それと。これは当日の進行次第でもあるのですが……」
S氏は少し言いにくそうに言葉を濁し、タブレットから顔を上げて俺を見た。
「その、イベントの中で、少しだけ……かっふぇ様に『走って』いただくことも、お願いできないかと考えておりまして」
「……走る、ですか?」
俺が首を傾げると、S氏は少し恥ずかしそうに頬を掻いた。
「ええ。実は、かっふぇ様が一番最初にSNSに投稿された動画……あの、夜の河川敷で、いきなり物凄い速度で走っていかれた動画があったじゃないですか。あれを見たい、という声が、社内でも、そしてファンの間でも非常に多くてですね」
「(……ああ)」
俺は内心で合点がいった。この身体に入って間もない頃、ウマ娘の身体能力を確かめようとして河川敷を爆走し、録画しようとして間違ってライブ配信にしてしまった、あの伝説の(そして赤っ恥の)放送事故動画のことだ。
「もちろん、勝負服で全速力で走ってくれとは言いません。ステージ上か、あるいは安全が確保された芝生の上で、少しだけ……そうですね、軽くダッシュをしていただく程度で構いません。かっふぇ様のあのダイナミックな走りを、ぜひ生でファンの皆様にお見せしたいのです」
S氏の提案に、俺はダウンジャケットのポケットの中で、ギュッと拳を握りしめた。願ってもない、最高のチャンスだ。
俺が企てている『実は本物でした作戦』。企業側に俺たちを信じ込ませるための最大の武器は、作り物ではない本物のウマ耳と尻尾、そして、人間の常識を完全に破壊する『ウマ娘の身体能力(スピード)』だ。その能力を披露する場を、向こうから公式のイベントとして提供してくれるというのだ。
『……四月一日さん。これは、天啓かもしれませんね』
カフェが、俺の内心の高揚を見透かしたように、静かな、しかし確かな熱を帯びた声で囁いた。
「……ええ。構いませんよ。……少し走るくらいなら、造作もありませんから」
俺が余裕の笑みを浮かべて快諾すると、S氏は、
「おお、本当ですか! ありがとうございます!」
とパッと顔を輝かせた。
(……チャンスは得たな。公式の舞台で、ウマ娘の存在を目に焼き付けてやるとしますか)
丸の内のカフェの窓から見える、冬の高く澄んだ空。
明日、京都競馬場という大舞台で、フォロワー100万人への起爆剤となる伝説のレースが、静かに、しかし確実にスタートしようとしていた。俺は出された冷たい水を一気に飲み干し、決戦の地・京都へと向かうための新幹線に乗るべく、S氏と共に席を立った。
■
東京駅から乗り込んだ東海道新幹線は、年末年始の帰省ラッシュもピークを過ぎたとはいえ、なかなかの混雑だった。しかし、S氏が用意してくれていたのは、ゆったりとしたグリーン車の座席。俺とS氏は隣同士に座り、窓の外を飛ぶように流れていく冬の景色を眺めながら、和やかな雑談を交わしていた。
「……それにしても」
俺はふと、ずっと気になっていた疑問をS氏に投げかけた。
「なぜ、私に……このお話を? 私などより、もっと有名な、本業のコスプレイヤーの方も、たくさんいらっしゃると、思いますが」
イベントに華を添えるという大役。しかも、JRA(中央競馬会)とのコラボイベントという超大型企画だ。フリーランスの、しかも現れたばかりの謎のインフルエンサーに任せるには、あまりにもリスキーな人選である。俺の問いかけに、S氏は苦笑いしながら座席の背もたれに深く寄りかかった。
「……実はですね。昨日の大晦日……かっふぇ様がいらっしゃったあの冬のコミックマーケットに、弊社の企業ブースも出展していたんです。そして、イベントの様子を視察するために、弊社の社長も現地に足を運んでおりまして」
S氏はそこで言葉を切り、まるで信じられない怪奇現象を回顧するように目を丸くした。
「社長が屋上展示場を通りかかった際、異常なまでの人だかり……あの数百人規模の『囲み撮影』を目撃したそうです。なんだなんだと人混みの隙間から覗き込んでみたら、そこには、弊社の看板キャラクターの一人である『マンハッタンカフェ』が、二次元からそのまま抜け出してきたかのような姿で鎮座していた、と」
(……社長直々に、あの囲みを見られていたのか)
俺は内心で少しだけ冷や汗をかいた。変な顔とかしてなかったよな?
「社長はもう、一目惚れというか、雷に打たれたような衝撃を受けたそうで。『あの子は誰だ!何者だ!何としてでも年始の金杯イベントに引っ張ってこい!!』と、その場で私に特命が下りましてね」
S氏は目頭を押さえ、深いため息を吐き出した。
「おかげで、私は大晦日も正月も休み返上で、かっふぇ様の連絡先を探し回り社内のコンプライアンス部署を説得しこうして特例中の特例である『ボランティア枠』での手配を整える羽目になった……。というわけです」
「……」
俺は、大晦日の深夜に突然飛んできたあの切羽詰まったDMの裏側を知り、なんとも言えない申し訳なさに包まれた。
「……それは。本当に、お疲れ様でした。……休みを返上させてしまって、申し訳ありません」
「いえいえ! 結果的にこうしてかっふぇ様にご快諾いただけましたし、何より、直接お会いして社長の目に狂いはなかったと確信しましたから。私の苦労など安いものですよ」
カハハと笑い飛ばすS氏。なんだかんだ言って、この人も根っからのエンタメ屋であり、自分の仕事に情熱を持っているのだろう。
「……有難い、お話です」
俺が感謝を込めて静かに頷いた。……その少しばかり傍から見れば感動的な、まさにその瞬間だった。
『キュルルルルゥゥゥゥ……ッ!』
静かなグリーン車の車内に、まるで飢えた猛獣の咆哮のような、腹の虫の音が響き渡った。
「…………」
「…………」
俺とS氏の間に、気まずい沈黙が流れる。ウマ娘のブラックホール胃袋は、今朝念には念を入れて食べたどんぶり飯と目玉焼きなど、とっくの昔に消化し尽くしてしまっていたのだ。
「……すい、ません」
俺はミステリアスな美少女のガワを被ったまま、両手でお腹を押さえた。しかも、頬を超えて頭の耳まで熱を持っている感じがする。こりゃ俺の顔真っ赤だな。それを証明するように、空中のカフェが『あちゃー』というように額に手を当て、足元のお友達の影が「ご飯!ご飯!」と大はしゃぎしている。
その様子を見たS氏は、数秒ポカンとした後、吹き出すようにして笑い声を上げた。
「はははっ! いや、すいません。SNSや雑誌の特集でも拝見していましたが……確か、ものすごい『大食い』でしたよね、かっふぇ様」
「……お恥ずかしい、限りです」
「とんでもない。よく食べ、よく走るのがウマ娘の魅力ですからね」
S氏は優しくフォローを入れると、ちょうど通路を通りかかった新幹線のパーサー(ワゴン販売)の女性を呼び止めた。
「すいません、お弁当をいただけますか? ええと……とりあえず、ここにあるお弁当の全種類と、温かいお茶を二つ。それから……サンドイッチも追加でお願いできますか?」
S氏の気前の良すぎる注文に、ワゴン販売のお姉さんが「えっ、全種類ですか?」と目を丸くしている。
「……ありがとうございます、Sさん。……お仕事、絶対に、成功させますから」
俺は食欲に満ち満ちた黄金の瞳でS氏を見つめ、意識して今日一番の極上の微笑みを向けた。京都への道中は、こうして和やかに、そして大量の駅弁と共に過ぎていった。