冬の透き通るような冷気が街を包み込む、一月三日の夕刻。
新幹線を降り立った俺たちを待っていたのは、公式企業が手配した黒塗りのハイヤーだった。そのまま案内されたのは、京都駅近くに聳え立つ外資系の最高級ホテル。通された部屋は、最上階付近に位置する広大なスイートルームであった。
「……流石は、大企業様だ」
ふかふかの絨毯が敷き詰められたリビングで、俺はボストンバッグを置き、思わず感嘆の溜息を漏らした。窓からは、ライトアップされ始めた京都タワーと、碁盤の目のように広がる古都の夜景が一望できる。日雇い時代、出張と言えばカプセルホテルやネカフェの薄暗い個室で丸まっていた俺からすれば、文字通り別世界、王侯貴族の城である。
『す、すごいですね、四月一日さん。ベッドが、ベッドがふかふかです』
空中に浮かぶカフェが珍しく目を輝かせてはしゃぎ、お友達はキングサイズのベッドに向かって何度もダイブを繰り返している。
「……ははっ。まぁ、少しのんびりさせてもらおうぜ。本番は明日なんだしな」
俺は高級そうな革張りのソファに深く腰を沈め、ウマ娘の身体を休ませる。とはいえ、この後にはすぐに公式のトップとの会食が控えている。あまり気を抜くわけにもいかない。
■
数十分後。部屋の電話が鳴り、S氏がロビーで待っているとの連絡が入った。俺は再びダボダボのダウンジャケットを羽織り、深くニット帽を被って、い草地のサンダルを突っ掛ける。完全防備の『かっふぇスタイル』でロビーへと降りると、S氏の案内で再びハイヤーに乗り込んだ。
向かった先は、祇園の路地裏にひっそりと佇む、看板すらない隠れ家のような高級鉄板焼き店だった。
「さぁ、どうぞ。社長がお待ちです」
重厚な一枚板の扉を開け、通されたのは、専用の専属シェフが立つ鉄板をコの字型に囲む完全個室のカウンター席。そこには、初老ながらも眼光鋭く、エネルギッシュなオーラを放つ恰幅の良い男性が座っていた。彼こそが、ウマ娘という巨大コンテンツを牽引する公式企業のトップ、代表取締役社長その人である。
「おお……! 来てくれたか! 君がかっふぇ君だね!」
俺が部屋に入るなり、社長は立ち上がり、少年のように目を輝かせて大興奮の声を上げた。
「マンハッタンカフェだ……。まさしく、本物のマンハッタンカフェがそこにあるようだ! いやはや、コミックマーケットの屋上で遠目から拝見したが、こうして間近で見るとさらに素晴らしい! その立ち姿、ミステリアスな雰囲気、完璧だよ!」
「……お招きいただき、光栄です。かっふぇ、と申します」
俺は深く、ウマ娘らしい優雅な所作で一礼をした。
「さぁさぁ、座ってくれたまえ。今日は君の長旅を労うための席だ、堅苦しい挨拶は抜きにしようじゃないか」
社長に促され、俺は鉄板を挟んで彼の正面に腰を下ろした。隣にはS氏が控えている。
「どうかな、お酒は? 飲める口かね?」
「……多少は。普段は、あまり飲みませんが」
未成年設定を貫くべきか一瞬迷ったが、ここはスポンサーである社長の歓待の席だ。少し大人びたミステリアスなインフルエンサーとしての顔を見せるため、俺はウーロン茶ではなく、あえてグラスのシャンパンを少しだけ頂くことにした。中身はおっさんなのだから、アルコール耐性には自信があるし、何よりウマ娘の肝臓ならアルコールなど秒で分解できるだろう。
「そうかそうか! いやはや、それにしてもSNSや雑誌の特集記事を見たよ。その細い身体で、物凄い『大食い』だそうじゃないか!」
社長は豪快に笑いながら、目の前で鉄板を温め始めている初老のシェフに合図を送った。
「今日は、好きなものを好きなだけお食べなさい! 極上の黒毛和牛から、伊勢海老、鮑まで、何でも揃っているからね!」
「あ、いえ……、その。私はただの、コスプレイヤーで……インフルエンサーとしての、ボランティアでの参加、ですので。……そこまでしていただくのは」
俺が少し遠慮がちに視線を伏せると、社長は真顔になり、力強く首を横に振った。
「いやいや、とんでもない! 貴女のその美しさ、存在感は、並大抵のレイヤーやタレントの比ではないですとも。まさしく、マンハッタンカフェそのものだ。我々としても、これほどの逸材を他所に放すわけにはまいりませんからね!」
社長はグラスを掲げ、ニヤリと笑った。
「これも、『ビジネス』に対する先行投資です。そう思って、今日は遠慮なく食べてくれたまえ。それに、ここのスタッフは古くからの付き合いで完全に信頼できる。写真週刊誌に売られたり、情報漏洩したりする心配も一切ありません。存分に、素の君で楽しんでほしい」
そこまで言われてしまえば、日雇い労働者として培った『タダ飯は食えるだけ食う』という貧乏根性が黙っていない。それに、カフェの肉体の胃袋は、すでに鉄板から漂う牛脂とガーリックの暴力的な香りに、完全降伏寸前だった。
「……では。その。……お言葉に甘えて。いただきます」
俺がシャンパングラスを軽く傾け、小さく口をつけると、それが宴の始まりの合図となった。
■
シェフが鮮やかな手つきで、分厚い黒毛和牛のサーロインとシャトーブリアンを鉄板に乗せる。
『ジューーーッ!!』
という、脳髄を直接刺激するような極上の音が個室に響き渡る。表面がこんがりと焼け、肉汁が弾け飛ぶたびに、芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。
「まずは、シャトーブリアンからどうぞ。お塩と、本山葵で」
目の前の有田焼の皿に、サイコロ状にカットされたルビー色の肉が供される。俺は箸を取り、一片を口へと運んだ。
「…………っ!」
噛む、という行為すら必要なかった。舌の上で肉が解け、濃厚な旨味と上品な脂の甘みが、津波のように口の中に押し寄せてくる。
(う、美味すぎる……!なんだこれ、俺が今まで食ってた肉はゴムか何かだったのか!?)
あまりの美味さに、俺の魂(中身)は歓喜の雄叫びを上げていた。
『……ふふっ。本当に、素晴らしいお味ですね。ほっぺたが落ちそうです』
空中のカフェも、俺の味覚を共有して幸せそうに目を細め、お友達の影は鉄板の前で喜びの舞を踊っている。俺は時折、「おあがりください」と彼らにも食べられるよう念じながら、次々と供される極上の肉を、ただひたすらに、しかしウマ娘の優雅さを一切崩さずに平らげていった。
「おお、良い食べっぷりだ! シェフ、サーロインも追加で! どんどん焼いてやってくれ!」
「はい、社長」
俺の恐るべき消化速度に、社長は驚くどころか拍手喝采で追加注文を連発した。分厚いサーロインステーキの後は、活きたまま鉄板に乗せられ、白ワインで蒸し焼きにされた巨大な黒鮑。バターと醤油の香ばしい匂いが絡みついたそれを、肝のソースでいただく。さらに、伊勢海老の鉄板焼き。プリプリの身に、濃厚なアメリケーヌソースがたっぷりと。かと思えば、冬の京野菜のグリル。海老芋のホクホクとした甘みや、聖護院かぶらの瑞々しさが、肉の脂を綺麗に洗い流してくれる。
「……美味しい、です。本当に」
俺は黄金の瞳をキラキラと輝かせ、次々と高級食材を胃袋という名のブラックホールへと葬り去っていく。
「いやはや、S君から話は聞いていたが、まさかこれほどとは……。かっふぇ君、君のその細いお腹の、一体どこにそれだけの量が消えていくんだい?」
社長は、すでに4枚目のステーキを平らげ、さらにガーリックライスの大盛りを二杯目におかわりしている俺を見て、完全に呆気にとられていた。隣のS氏も、
「人体として物理法則を無視していますね……」
と苦笑いしながら烏龍茶を飲んでいる。
「……ウマ娘は、燃費が、悪いので。これくらいは、食べないと、走れませんから」
俺がペロリと口元を拭いながら冗談めかして言うと、二人は、
「なるほど、設定をしっかり守っているわけだ!」
とさらにご満悦の様子だった。
結局食事はなんと二時間近くに及び、俺は鉄板焼き店の用意していた高級食材の在庫を一人で半分近く食い尽くすという暴挙を成し遂げた。〆のデザートである、季節のフルーツのコンポートと抹茶のアイスクリームを平らげ、備前焼の湯呑みで温かいほうじ茶をすする。
『……ふぅ。満足しました。素晴らしいお食事でしたね、四月一日さん』
「(ごちそうさまでした!)」
カフェとお友達も、すっかり満腹になって満ち足りた表情を浮かべている。お腹が膨れ、個室の空気も和やかに弛緩したこの瞬間。社長もS氏も、美味しい酒と食事、そして見目麗しい『かっふぇ』との会話に満足し、完全に警戒心を解いている。
■
(……ここだ)
トップと、担当者と、俺。たった三人だけの、情報漏洩の心配がない完全な密室。ここを逃せば、二度とこんなチャンスは巡ってこない。
俺はほうじ茶の湯呑みを静かに置き、膝の上に両手を揃えた。そして、今までの和やかで少し天然なインフルエンサーの空気を一変させ、漆黒の静寂を纏った『マンハッタンカフェ』のオーラを全身から放った。
「……あの。社長、Sさん」
低く、ひんやりとしたウィスパーボイスが、個室の空気をピンと張り詰めさせた。
「ん? おや? 何かな、かっふぇ君。まだ食べ足りないかい?」
社長が上機嫌な笑みを浮かべたまま尋ねる。俺はゆっくりと首を横に振り、真っ直ぐに、社長の目を見据えた。
「……実は、お二人に。どうしても、お伝えしておきたいことが、あります」
「……お伝えしておきたいこと?」
「はい」
俺は両手を上げ、ずっと被り続けていたニット帽の縁に指をかけた。そして、ためらうことなく、それをゆっくりと上へ引き抜き――テーブルの端へと置いた。
―――ポンッ、と。
帽子の中に折りたたまれていた、艶やかな黒毛に覆われた二つの『ウマ耳』が、空気を弾くようにして頭頂部に跳ね上がった。さらに俺は、ダウンジャケットのダブルジップの下側を少しだけ引き上げ、パラシュートパンツの腰の隙間から、ずっと窮屈な思いをさせて隠していた長く美しい『尻尾』を、ふわりと解放した。
「おおっ!」
それを見たS氏が、感嘆の声を上げた。
「すでにコスプレを仕込んでいらっしゃったとは。わざわざ帽子の中に隠してまで……いやはや、明日のイベントに向けて、相当気合が入られてますね! その耳も尻尾も、まるで本物のように毛並みが美しい……特注の小道具ですか?」
S氏の言葉に、社長も、
「ほう、素晴らしい出来栄えだ。本当に生えているように見える」
と感心しきりだ。彼らはまだ、これが超高品質なコスプレアイテムだと信じて疑っていない。
だが俺は、表情を一切崩さず、静かに首を横に振った。
「……社長。Sさん。……恐れ入りますが、この耳に……触っていただけますか?」
「……え?」
突拍子もない提案に、社長は戸惑ったようにS氏と顔を見合わせた。
「……触る? 私が、かい?」
「はい。どうか、直接……お確かめください」
俺が身を乗り出し、少しだけ頭を下げてウマ耳を社長の目の前へと差し出す。社長は、
「まぁ、本人がそこまで言うのなら。どれ、出来を確かめさせてもらおうか……」
と苦笑しながら、恐る恐る、右手を伸ばしてきた。そして、初老の分厚い指先が、俺の頭頂部にそびえるウマ耳の毛並みに、そっと触れた。
「…………ッ!?」
その瞬間だ。社長の身体がまるで高圧電流を浴びたかのように、ビクッと跳ねた。
―――ピクンッ。そして、その動きに連動するように俺のウマ耳が、意思とは無関係に反射で痙攣するように動く。
「な、なんだ、これは……っ!?」
社長は、触れた指先を信じられないものを見るように見つめ、ガタガタと震え始めた。彼の指先に伝わったもの。それは、精巧な造形やモーターの振動などではない。
温かい『体温』。
ドクンドクンと脈打つ、確かな『血流』。
そして、皮膚と軟骨が繋がり、神経が通っている生体組織特有の、生々しいまでの『反応』だった。
「しゃ、社長? どうされたんですか?」
異常な怯え方をする社長を見て、S氏が慌てて立ち上がる。社長は青ざめた顔で、
「S君、君も……君も触ってみなさい……!」
と震える声で促した。S氏も半信半疑で手を伸ばし、もう片方のウマ耳に触れる。
「ひっ……!?」
S氏もまた、悲鳴に近い声を上げて手を引っ込めた。二人とも、目の前の現実が脳の処理能力を超え、完全に硬直してしまっている。
その2人の決定的な動揺を逃さないよう、俺はトドメを刺すための『最後の一手』を打った。両手を耳の横に持っていき、長く艶やかな黒髪を、ゆっくりと、耳介があるべき場所から後ろへとかき上げた。
「……な、あっ……」
「嘘……だろ……?」
社長とS氏の口から驚愕の声が漏れた。人間であれば、顔の側面に必ず存在しているはずの『耳』。しかし、俺が髪をかき上げたその場所には凹凸など一切ない。ただ滑らかで、青白いほどに美しい肌が、頭蓋骨のラインに沿って平坦に続いているだけだった。
「……み、耳が……無い……?」
社長が、カタカタと震える唇で呟く。
「え、っと。それは……特殊メイク、ですか……? 何か、シリコンのようなもので、覆い隠して……」
S氏が、必死に自分の常識という名のすがりつくような仮説を口にする。しかし、そんな薄っぺらい仮説は、至近距離で見れば一瞬で瓦解する。どこをどう見ても、そこに何かを貼り付けて隠しているような境界線や不自然さは存在しない。
完全な、欠損のない、ウマ娘という種族の『本来の骨格』がそこにあった。
「……いいえ」
俺は、静寂に包まれた鉄板焼きの個室の中で。神聖な儀式を執り行うように、ゆっくりと、明確な発音で告げた。
「特殊メイクなどでは、ありません。……ご覧の通り、私は、人間の耳を、持ち合わせては、おりません」
俺の言葉が、二人の大人の脳髄に、決定的な現実として突き刺さる。
「あ、いや。それ、では。……え? 君は、一体……」
混乱の極みに達し、言葉を失う社長とS氏。彼らの瞳に映っているのは、もはや『クオリティの高いコスプレイヤー』などではない。人ならざる者。二次元の壁を越えて現実に顕現した、未知の生命体だ。
俺は、椅子から静かに立ち上がり。ウマ娘という種族の誇りと、マンハッタンカフェという存在の尊厳を全て背負って、深く、深く頭を下げた。
「……正しく。私は、『マンハッタンカフェ』と申します」
ウィスパーボイスが、個室の空気を震わせる。
「私が、今回のお仕事を受けたのは……報酬のためでも、名声のためでもありません。……この世界で、最も『ウマ娘』のことを深く理解し、愛してくださっている貴方方に。……どうしても、協力をお願いしたかったからなのです」
沈黙。
鉄板の余熱だけが微かに音を立てる空間で、三十路の日雇い労働者の魂を宿した美少女は、元の世界への帰還を賭けた、最大にして最強の『反転作戦』の口火を、ついに切ったのだった。