「……本物の、マンハッタンカフェ……」
社長は呆然と呟き、俺の頭部のウマ耳と、腰から伸びる尻尾を交互に見つめた。常識が崩壊する音とは、きっと今の彼らの脳内で響いているような音を指すのだろう。S氏に至っては、口を半開きにしたまま完全にフリーズしてしまっている。
俺はゆっくりと顔を上げ、静かなトーンで言葉を継いだ。
「……信じがたいこととは、百も承知です。ですが、事実なのです。……私は本来、トレセン学園という場所で、レースに向けてトレーニングを積む日々を送っていました。しかし、ある時……その、『悪霊』のような存在が暴走を起こし、それをなんとか対処しようとした結果……気がつけば、この世界に、たった一人で放り出されていたのです」
異世界からの漂流という、突拍子もないSFかファンタジーの設定だ。が、目の前に存在するカフェの体が発する『人間ではない証明』が、その言葉に絶対的な説得力を持たせていた。
社長は何度か瞬きをし、深呼吸を一つして、どうにか自身の精神を現実に繋ぎ止めようと努めているようだった。
「……あ、悪霊に対処しようとして、こちらの世界に……? いや、ええと、待て、待ってくださいよ。仮に、仮に百歩譲ってそれが真実だとしてだ」
社長が、震える手でほうじ茶の湯呑みを握りしめた。
「だとしたら、君は……いや、貴女は、どうやって今、生活しているんだ? SNSで配信を行い、スマートフォンを持ち、何より……ああ、そうだ。今日に至るまでの資金や行動の全て……。この現代社会で、身分も戸籍もない異世界の住人が、一人でやっていけるはずがないだろう?」
当然の疑問だった。現代社会というシステムは、身分証明書を持たない、所謂『存在しない人間』に対して、とことん冷酷にできている。スマホの契約一つ、アパートの賃貸一つをとっても、身元不明の少女が単独で突破できる壁ではない。
俺は、待ってましたとばかりに、少しだけ「奇妙なことなのですが」と前置きをしてから、傍らに置いてあった自分のボストンバッグに手を伸ばした。
「……おっしゃる通りです。私一人では、三日と生きてはいけなかったでしょう。……ですが」
俺はバッグのポケットから、古びた二つ折りの財布と、使い込まれた安物のスマートフォンを取り出した。そして、財布の中から一枚のプラスチックカードを引き抜き、テーブルの上にそっと置いた。
「……実は、私は今、この方の『身分』をお借りして、生活しているのです」
社長とS氏が、テーブルに置かれたそのカードを覗き込む。それは俺――、四月一日という日雇い労働者の、冴えない顔写真がプリントされたマイナンバーカードだった。
「……四月一日(わたぬき)……? 男性の、身分証? これがどうかしたのかね」
「……はい。種明かしです。このスマートフォンも、アパートの契約も、全てこの『四月一日』という男性のものです。彼が、私の配信や生活の全てを、裏からサポートしてくれているのです」
俺の説明に、S氏がようやく再起動して口を挟んだ。
「だ、代理人というか、協力者がいるということですか? その四月一日さんという男性は、いったいどこに……? なぜ、彼がかっふぇ様……いえ、マンハッタンカフェさんを助けているんですか?」
俺は、あえて視線をスッと逸らし、ひどく言いにくそうに、モゾモゾと口ごもった。
「……それが。その、なんなら、彼が、その……」
「どうされました?」
社長が、身を乗り出して尋ねてくる。俺は意を決したように、隣の空席――空中のカフェや足元のお友達がいる空間――をチラリと見てから、静かに告げた。
「……彼の、『幽霊』と、言いますか。……はい、まぁ。そのような存在が、ずっと私の隣に、いるのです」
「「…………はい?」」
社長とS氏の声が見事にハモった。無理もないだろう。「異世界から来たウマ娘」という特大のファンタジーを飲み込もうと必死に胃腸を動かしているところに、「さらに日本人の男の幽霊に取り憑かれています」という強烈なオカルトを流し込まれたのだ。情報過多で消化不良を起こすのは当然である。
「……だ、だからその。突拍子もない話だと、自分でも思うのですが……。その幽霊の彼が、自分の残した身分証や財産を私に使わせてくれて……色々な知恵を貸してくれるからこそ、私はこちらの世界で、なんとかやってこれた、と、言いますか……」
俺は、本当に困り果てたような、健気でミステリアスな美少女の表情を作るよう努めつつ、助けを求めるように二人を見つめた。お友達からは、ナイス演技とばかりに拍手が送られている。
『……四月一日さん。貴方、本当に詐欺師の才能がありますよ。私、感心してしまいました』
空中の本物のカフェが、俺のあまりにも堂々とした大嘘、しかも微妙に真実が混ざっているそれに、呆れを通り越して感嘆の声を漏らしていた。
「(うるせぇ、こっちも必死なんだよ)」
俺が内心でカフェに悪態をついている間、鉄板焼きの完全個室には信じられないほどの重く、冷たい沈黙が降り降りていた。
ジリ、ジリ、と。鉄板の余熱が空気を歪ませる音だけが聞こえる。社長は腕を組み、目を閉じ、眉間に深いシワを刻み込んで微動だにしない。S氏も、脂汗を額に浮かべながら、俺と社長の顔を交互に見つめている。
俺(かっふぇ)にとっては、この沈黙の時間が、まるで数時間にも、数日にも思えるほど長く感じられた。
もしここで「馬鹿馬鹿しい、やはり君は頭のおかしいコスプレイヤーだ」と切り捨てられれば、公式の協力はおろか、明日のイベントの出演すら白紙になりかねない。俺たちの『100万人作戦』も『大欅調査作戦』も、全てが水泡に帰す。
心臓が、ウマ娘の強靭な胸郭の中で、痛いほどの早鐘を打つ。
一分。
二分。
三分……。
やがて、永遠にも思えたその沈黙を破ったのは、腕を組んでいた社長だった。
「……ふぅーっ」
社長は、肺の中の空気を全て絞り出すように、長く、深いため息を吐き出した。そして、ゆっくりと目を開き、その鋭い眼光で、真っ直ぐに俺を――いや、『マンハッタンカフェ』を確かに捉えたのだ。
「……飲み込みましょう」
その一言は、重厚な鉄の扉が開くような、確かな響きを持っていた。
「しゃ、社長!?」
「S君。君も、腹を括りなさい」
慌てるS氏を片手で制し、社長は静かに、しかし断固たる意思を持って言葉を紡いだ。
「信じがたい話だ。幽霊だの、異世界だの、株主総会で口にすれば一発で退任を要求される話だろう。……だが、事実として。今私の目の前にいる彼女の耳と尻尾は、決して作り物ではない、生きた細胞を持ったしかし『人間ではないもの』だ」
社長の目は、ビジネスマンとしての打算と、一人の人間としての純粋な驚嘆が入り混じっていた。
「それに、その息を呑むほどの美しさも。……常人離れした大食いも、そして何より、我々の魂を揺さぶるその『声』すらも。……私が知る、マンハッタンカフェの概念そのものだ」
社長は、マイナンバーカードの上にそっと手を置いた。
「事実は小説より奇なり、と言うが。……これほどの奇跡を目の当たりにして、常識という定規で測ろうとすること自体が、愚の骨頂なのかもしれないな」
■
社長は、目の前に置かれた四月一日のマイナンバーカードを指先でトントンと叩きながら、苦渋と興奮が入り混じった複雑な表情で言葉を紡いだ。
「……大変申し訳ないが、今日は一度、この話を社に持ち帰らせてほしい。――ああ、もちろん、君を追い出すわけではない。こちらの用意したホテルで、今日はゆっくりと過ごしてくれて構わない。……ただ、明日。イベントが始まる前に、当社の女性社員に改めて、君の身体……その耳と尻尾を『検査』させてもらいたい」
検査。
その言葉の響きに、俺は少しだけ身を固くした。解剖や採血といった物騒なマネをされるわけではないだろうが、大企業の人間として、己の目で見た事実を、第三者の客観的な視点でも裏付けたいのだろう。
「ああ、安心してくれたまえ」
俺の僅かな警戒を察したのか、社長は温和な声で付け加えた。
「決して乱暴な真似はしないし、絶対に情報が漏れないよう、守秘義務を徹底できる信頼のおける人物を用意しよう。……それと、明日の金杯のイベントだが。これは、今のところ予定通り、そのまま出て欲しい。すでに公式のアカウントで大々的にファンへの告知も済ませてしまっているからね」
矢継ぎ早に指示を出し、状況をコントロールしようとする社長の姿は、流石は巨大企業を束ねるトップだ。混乱の最中にあっても、リスクヘッジとプロモーションの機会損失を瞬時に天秤にかけている。
「……はい。ご協力、いたします」
俺が従順に頷くと、社長はホッと胸を撫で下ろした。そして、何かを思い出したように、再び俺の黄金の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。
「……そういえば。あまりの驚きで、一番肝心なことを聞いていなかったが」
「……なんでしょうか」
「君の目的は、つまるところ……次元の穴を超えて、『元の世界に帰る』ということでよろしいのかな?」
社長の鋭い問いかけに、俺は静かに、しかし力強く頷いた。
「はい。……あ、あと」
「あと?」
S氏が、不思議そうに鸚鵡返しにする。俺は、この作戦の最も重要な『核』となる部分を、ゆっくりと、念を押すように告げた。
「……その。先ほど申し上げた、幽霊の……四月一日さんの体が、今、私の世界に……トレセン学園に、あるらしくて」
「なんだって?」
「……彼の肉体を取り戻し、私があちらに帰る。……そして、この世界を、あちらの世界を、元通りにする。それが、私の……いえ、私たちの、最終的な目的なのです」
俺がそう宣言すると、個室に再び重い沈黙が落ちた。
「……なるほど。いや、これはまた、輪をかけて現実離れしたお話だが……。言葉にするならば、精神と肉体の転移、並行世界での等価交換、というやつか」
社長はこめかみを揉みながら、深く唸り声を上げた。
「S君、君はどう思う。私は今、とんでもないSF映画の主人公にでもなった気分だが」
「……ええ、社長。私も同じ気持ちです」
S氏は困惑し、脂汗を拭いながらも、その視線を俺から外そうとはしなかった。
「でも、社長。……目の前に、生きたマンハッタンカフェが居ますから。これはもう、嘘でもなんでもない、圧倒的な現実ですよ。我々は、この事実を直視するしかありません」
「……ああ、わかっている。わかっているとも」
社長は、ほうじ茶を一口すすり、気を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐いた。
「ただ、カフェさん。……私も、私どもも、一度この事態を正確に飲み込み、脳内で整理したい。……故に、やはり一晩、時間を置かせてほしい。結論を出すのは、それからだ」
「……はい。お気遣い、感謝いたします」
「では、明日の朝。8時に、朝食を食べた後、ホテルのロビーで落ち合いましょう。……それまでに、女性社員を手配し、今後の動きを社内で固めておきます」
社長の言葉に、俺は深く、ウマ娘としての優雅な一礼を返した。
「……承知いたしました。本日は、本当にご馳走様でした。……素晴らしいお食事と、お時間に、感謝を」
そう言い残し、俺は再びニット帽を深く被り、尻尾をダウンジャケットの中に隠して、個室を後にした。
■
ホテルへと戻るハイヤーの車内。窓の外を流れる京都の夜景を眺めながら、俺の心臓は、先ほどの鉄板焼き店とは全く違う、歓喜の鼓動を打っていた。
「(……よし。なんとか、成功しそうだ)」
俺は、ダウンジャケットのポケットの中で、ギュッと力強くガッツポーズを作った。
最大の壁である『中身はおっさん』という事実を伏せたまま、ウマ耳と尻尾という物理的な証拠によって、企業側に「本物のマンハッタンカフェが迷い込んできた」と信じ込ませる。この反転作戦は社長とS氏の反応を見る限り、ほぼ完璧に機能していた。明日の女性社員の検査も、カフェの体を調べるわけで。本物の生体組織である以上、何も恐れることはない。
公式企業という、この上なく強力で、資金力も影響力も桁違いのスポンサーを獲得できれば。
フォロワー100万人という無謀な目標も、そして、府中競馬場の奥深くに眠る『大欅』の調査も。
全てが、一気に現実味を帯びてくる。
『……見事な手腕でした、四月一日さん』
車内の隣の席に浮かぶカフェが、俺の横顔を見て、心底感心したように深く頷いた。
『真実と嘘を巧みに織り交ぜ、相手の懐に飛び込み、信じ込ませる。……貴方のその度胸と機転には、本当に驚かされるばかりです』
「(パチパチパチ!!)」
お友達も、拍手喝采を送ってくれている。こいつ、結構可愛いんだよな。カフェもだけど。
「(……日雇い現場で、柄の悪い監督やクレーマーを相手に、いかに上手く立ち回って日銭を稼ぐか。そういう泥臭い生存戦略なら、誰にも負けねぇつもりだからな)」
俺は内心で自嘲気味に笑いながら、シートに深く背中を預けた。だが、まだまだ油断はできない。明日は公式イベントの本番であり、社長たちがどんな結論を下すのか、まだ確定したわけではないのだ。
「(……明日が、本当の正念場だ。100万人のフォロワーと、元の世界へ帰るための切符。ようやく進みそうなんだ。絶対に、この手で掴み取ってやる)」
京都の夜は更けていく。
三十路のおっさんと本物のウマ娘が仕掛けた前代未聞の世界を股にかけた大博打は、いよいよ実現へと向けて加速しようとしていた。