一月四日、決戦の朝。
京都の最高級ホテルの広大なベッドで目覚めた俺は、これ以上ないほどにコンディションが仕上がっているのを感じていた。加えて、ウマ娘の身体の回復力は凄まじく、昨夜の鉄板焼きで満たされた膨大なエネルギーが、細胞の隅々にまで行き渡っている。
「よし。まずは腹ごしらえだ」
完全防備の『かっふぇスタイル』に着替えた俺は、意気揚々と一階の朝食バイキング会場へと向かった。流石は一流ホテル、和洋折衷の豪華なメニューがずらりと並んでいる。目の前でシェフが焼いてくれるオムレツ、焼き立てのクロワッサン、色鮮やかな京都のおばんざいに、湯気を立てる湯豆腐。俺はトレイを手に取ると、ウマ娘のブラックホール胃袋を全開にして、文字通りの『無双』を開始した。
「(オムレツは三つ。ベーコンは山盛り。和食の小鉢は端から全部だ。パンも一通り……いや、米も食っておくか)」
『四月一日さん、お行儀よく、でも残さずにお願いしますね』
「(わかってるよ。お前たちも食え食え!)」
空中で目を輝かせるカフェと、見えないナイフとフォークを構えて踊るお友達の影を引き連れ、俺は優雅な手つきで、しかし凄まじい量の料理をテーブルに運び込んだ。周囲の宿泊客やホテルのスタッフが、華奢でミステリアスな美少女の前に築き上げられた『食糧のタワー』を見て目を丸くしていたが、知ったことではない。
俺はゆっくり、一時間をかけて、バイキング会場の食材のストックを一人で脅かすほどの量を平らげ、そして、食後のコーヒーを三杯飲み干して、優雅に口元を拭った。
■
午前八時。
約束の時間ぴったりにロビーへと降りると、そこには昨夜の鉄板焼きの時と同じスーツ姿の社長とS氏、そして――深く帽子を被り、マスクをした、小柄な女性が立っていた。
「おはようございます、かっふぇ君。よく眠れたかな?」
「……ええ。おかげさまで」
俺が小さく会釈をすると、社長は隣に立つ女性を手で示した。
「紹介しよう。彼女が、例の『検査』と、今日一日の君のサポートをお願いする、O君だ。……我々の業界では芸歴も長く、こちらの世界(二次元や声優業界)の酸いも甘いも噛み分けている。何より、守秘義務を絶対に守れる、最も信頼に足る人物だよ」
社長に促され、女性がペコリと頭を下げてマスクを外した。現れたのは、小動物のように愛らしく、しかし瞳の奥に確かなプロ意識を宿した可愛らしい女性だった。年齢は俺(中身)とそう変わらないか、少し下くらいだろうか。
「Oと申します。本日は、よろしくお願いいたします」
澄んだ、よく通る声。俺は礼儀作法に従い、静かに頭を下げた。挨拶を終えると、社長はOさんに向き直り、極めて真剣なトーンで口を開いた。
「O君。昨日、電話で軽くお話しさせてもらったが……。今君の目の前にいる彼女は、決してクオリティの高いコスプレイヤーなどではない」
「はい、伺ってはいますけど、本当に……?」
「ああ、大きな声では言えないが。異世界から何らかの理由でこちらに迷い込んできた……本物の、『マンハッタンカフェ』なんだ」
社長がその事実を改めて突きつけると、Oさんは目を白黒させて、俺と社長の顔を交互に見比べた。無理もない。昨日、突然社長から「本物のウマ娘が現れた」などというオカルト電話を受けて、半信半疑のまま呼び出されたのだろうから。
「ほ、本物、ですか……? 社長、やっぱりその……失礼とは思いますけど、流石に朝から冗談が過ぎますよ。いくらなんでも、二次元のキャラクターが現実の三次元に現れるなんて……」
「信じられないのは当然だ。だが、彼女のその帽子の中にある『耳』を、実際に触ってみてくれたまえ」
社長に促され、俺は無言のまま、被っていたニット帽をゆっくりと脱ぎ捨てた。
ポンッ、と艶やかな黒毛に覆われた二つのウマ耳が、ロビーの空気を弾いてピンと立ち上がる。
「あっ……」
Oさんは息を呑み、社長とS氏に見守られながら、恐る恐る俺の頭頂部へと手を伸ばした。そして、その小さな手が、俺のウマ耳に触れた。
ピクンッ。
「……ひゃっ!?」
指先に伝わる、本物の獣の耳特有の柔らかな温もりと、反射的に動く筋肉の脈動。Oさんはビクッと肩を震わせて手を引っ込め、信じられないものを見るように自分の指先を見つめた。
「あ、温かい……。それに、動いた……? 中に骨と筋肉があって……これ、本当に、生きている耳……?」
「そう。明らかに生物の器官であって、作り物ではないんだ。昨日、私もS君も同じように驚愕してね」
社長が腕を組みながら大きく頷く。芸歴が長く、数々のイベントや特殊な現場を経験してきたであろうOさんも、この物理法則を無視した圧倒的な現実を前に、完全にフリーズしてしまった。
「えっ……? 私の演じているキャラクターが、現実に? え? え?」
混乱の極みに達し、あわあわとパニックを起こすOさん。その言葉の端にあった『演じている』という単語を拾い、俺は静かに首を傾げた。
「……演じている、とは?」
俺が、この世界に迷い込んできた本物の『カフェ』として純粋な疑問を口にすると、社長が横から穏やかに補足を入れてくれた。
「ああ。カフェさん、ご存知かとは思いますが……この世界における『ウマ娘』というのは、ゲームやアニメとして展開されているメディアミックス作品なのです。そして、彼女(O君)は、その作品の中で貴女――マンハッタンカフェに命を吹き込む、声優の一人なのですよ」
「……なるほど」
俺は納得したようにコクリと頷いた。つまり、この目の前にいる愛らしい女性は、こちらの世界で『マンハッタンカフェの声』を担当しているプロフェッショナルということだ。
俺の隣に浮かんでいた本物のカフェと、足元のお友達の影が、興味津々といった様子でOさんの顔をジロジロと観察し始めた。
『……可愛らしい方、ですね。でも、普段の私とは、随分と声が違うような……?』
カフェが、自分の耳で聞いたOさんの地声に対して、不思議そうに呟く。お友達の影も、「うんうん」とその言葉に同調して首を縦に振っている。俺は、カフェの感じた純粋な疑問を、そのまま自分の言葉(カフェ自身の言葉)としてOさんへと投げかけた。
「……可愛らしい方、ですね」
「えっ、あ、ありがとうございます……!」
「……でも。私の声とは、随分と、違うような……?」
俺が少しだけ小首を傾げて、ハスキーなウィスパーボイスでそう指摘すると。Oさんは、先ほどのパニックから一転して、プロの顔つき……声優としての誇りに満ちた、柔らかくも自信に満ちた笑みを浮かべた。
「ふふっ。よく、言われます。普段の私の声は、少し高めですから」
Oさんはコホンと一つ咳払いをし、背筋をスッと伸ばした。そして、その小さな身体から発せられたのは。
「――私が、マンハッタンカフェ、です」
「…………っ!!」
俺は、思わず目を見開いた。たった今、俺自身の喉から発せられているハスキーでミステリアスな声。隣に浮かんでいる本物のカフェが発する、絶対零度の静寂を纏った声。
それと全く同じ……いや、寸分違わぬ完璧なトーンと息遣いが、目の前のOさんの口から紡ぎ出されたのだ。
『えっ……!?』
本物のカフェも、自分の声が他人の口から完璧に再現されたことに、黄金の瞳を丸くして驚愕している。お友達に至っては、「すげーっ!!」とばかりに、見えない両手でパチパチと盛大な拍手を送っていた。
「……素晴らしい、ですね」
そして俺自身も、プロの表現者の凄まじい技術に、本気で感心して感嘆の声を漏らした。喉の使い方も、息の抜き方も、まさに『マンハッタンカフェ』の完全なトレース。いや、彼女が命を吹き込んでいるのだから、トレースという表現は失礼だろう。彼女もまた、この世界におけるもう一人の『マンハッタンカフェ』なのだ。
俺の心からの賞賛に、Oさんは少し照れたように元の高い地声に戻り、顔を赤らめた。
「い、いえいえっ。流石に、ご本人の生の声やオーラには、絶対に敵いませんよ。……でも、本物の貴女にお会いできて、本当に嬉しいです」
声優と、そのキャラクターの次元を超えた対面。奇妙な絆が芽生えたのを確認し、社長が満足そうにパンッと手を叩いた。
「よし。顔合わせも無事に済んだところで、そろそろ出発しようか。緑のターフが広がる、京都競馬場へね」
「はいっ」
俺は再びニット帽とマスクで完全武装し、ホテル前に横付けされたハイヤーへと乗り込んだ。手はずとして、まずは競馬場に用意された関係者用のVIP控え室へ直行し、そこでOさんに、俺のウマ娘としての身体(尻尾の付け根や、人間の耳が存在しないことなど)を、同性として詳しく『検査』してもらう手筈となっている。
フォロワー100万人への起爆剤となる、大勝負の舞台。大企業の社長と、一流の声優を味方につけた俺たちの『反転作戦』は、これ以上ないほど順調に、冬の京都を駆け抜けようとしていた。
■
京都競馬場の広大な敷地、その奥深くにある関係者専用エリア。通されたVIP用の特別控え室は、一流ホテルのような豪奢な内装で、外部の喧騒からは完全に遮断されていた。
「……それでは。失礼、いたします」
俺は、Oさんの前で深く一礼し、着ていたダボダボのダウンジャケットとオーバーサイズのTシャツ、そしてパラシュートパンツをゆっくりと脱いだ。暖房の効いた室内とはいえ、肌寒い冬の空気が肌を撫でる。スポーツブラとパンツのみとなった肢体を晒し、俺はOさんに向かって静かに腕を広げた。
「……好きなだけ、お調べになってください」
文字通りの、まな板の上の鯛。中身がおっさんである俺にとって、同年代の女性に上半身を晒してマジマジと見つめられるのは、羞恥心を通り越して一種の拷問に近い。だが、公式の完全なバックアップを得るためには、ここでウマ娘という『規格外の生命体』であることを、同性の彼女に完璧に証明しなければならないのだ。
「……っ」
Oさんは、息を呑んで立ち尽くしていた。
「……なんというか。綺麗、っていうか……まるで、彫刻みたいですね」
彼女は、震える手で、俺の肩から二の腕、そして鎖骨のラインへとそっと触れた。
ウマ娘の身体。それは、極限まで鍛え抜かれたアスリートのそれでありながら、女性らしいしなやかな曲線美を完璧に保っている。無駄な贅肉など一切なく、青白いほどに透き通った肌の下には、爆発的なスピードを生み出す強靭な筋肉が眠っているのがわかる。
「……耳が、本当に、無い……」
Oさんは、俺の顔の側面に顔を近づけ、人間の耳があるべき場所を指先でなぞった。何もない滑らかな肌の感触に、彼女は信じられないというように何度も目を瞬かせた。そして、今度は俺の頭頂部でピンと立っているウマ耳に触れ、さらに腰の後ろへと回った。パラシュートパンツの腰の隙間から伸びる、長く豊かな尻尾。
「……尻尾も、本物だ……。根本が、ちゃんと背骨から繋がってて……」
――ブンッ!
「ひゃあっ!?」
俺が意識して尻尾を少しだけ強く振ると、Oさんは驚いて小さく跳び退いた。そして、改めて恐る恐るの手つきで、尻尾の毛並みを撫で下ろす。
「……髪の毛も、尻尾の毛も、信じられないくらいサラサラで……シルクみたいです。これ、トリートメントとかどうしてるんですか?」
「……お湯で、洗い流すだけですよ」
俺が事実を答えると、Oさんは、
「ええ? お手入れそれだけで、これなんですか!?」
と、女性声優としての美意識から来る純粋な悲鳴を上げていた。その後も、ウエストを両手で掴んでみたり、太ももの筋肉の弾力を確かめたりと、Oさんによる入念な『生体検査』は続き、気づけば約三十分にも及んでいた。途中、あまりにも熱心に触られるので、くすぐったさと申し訳なさで何度か身をよじってしまったが、俺は懸命に無表情を保ち続けた。
■
やがてOさんは、すべての確認を終え、深々と、畏敬の念すら込めたため息を吐き出し、頷いていた。
「……うん。わかりました」
彼女は、俺の目を真っ直ぐに見つめ、諦めと、圧倒的な納得が入り混じった笑顔を見せた。
「……人間じゃ、ない、ですね。貴女は」
「……はい。ウマ娘、ですから」
俺が静かに微笑んで答えると、Oさんも、
「ですよね」
と、お互いに肩の力を抜いて苦笑した。これで、公式企業の社長が送り込んだ『刺客』である彼女の検査はクリアだ。彼女が「本物だ」と社長に報告すれば、公式のバックアップは完全に確約されたも同然となる。
「……では、そろそろ。勝負服……あ、コスプレ、ですが。に、着替えても、よろしいでしょうか」
「あっ、はい! すみません、長い時間」
俺は持参したボストンバッグから、漆黒の『勝負服』のセットを取り出した。タイトなシャツに腕を通し、フリルのついたスカートを履き、コルセットで腰を絞る。そして、耳飾りを、本物のウマ耳の付け根にキュッと結びつけた。
その一連の流れるような着替えの所作を、Oさんは目を輝かせて見つめていた。
「すごいなぁ……」
「……何が、でしょうか?」
「いえ。その、ウマ娘って、皆さんこんなふうに、自分で段取りをして着替えたり、レースの準備をしたりするんですか? なんというか、もっと裏方さんがたくさんいて、着付けとかをしてくれるのかと思ってました」
Oさんの純粋な疑問だ。俺は手を止め、空中に浮かぶ本物のカフェへと視線を向けた。
『……ええ。もちろん、裏方の方々やトレーナーのサポートはありますが、勝負服に袖を通すのは、あくまで自分自身です』
カフェは、少しだけ懐かしそうな、それでいて誇り高い眼差しで、虚空を見つめながら語り始めた。
『――準備は、欠かせませんよ。特にレース当日は。……応援してくださるファンの皆様と。隣を走るライバル達。そして、自分を信じてくれたトレーナーさん。……彼ら、彼女らと積み上げてきた日々の、総決算ですから。だからこそ、みずからの手で、この勝負服を身に纏うのです』
俺は、カフェのその言葉を、一言一句違わずに、俺のハスキーな声で、目の前のOさんへと紡いだ。その言葉には日雇いの俺には到底出せない、アスリートとしての、そしてウマ娘としての重く、気高い魂が込められていた。
「…………っ」
俺の――、いや、カフェの言葉を聞いたOさんは、大きく目を見開き、そして、少しだけ目元を潤ませた。
「……すごい」
彼女は、両手で口元を覆い、震える声で呟いた。
「本当に、本物の、マンハッタンカフェなんですね。……私がずっと追いかけて、背中を見て、一生懸命に演じてきた……あのマンハッタンカフェが、今、目の前にいる」
声優として、キャラクターに命を吹き込んできた彼女だからこそ、その言葉の重みと、そこに込められた『魂』の輪郭を、誰よりも正確に感じ取ったのだろう。Oさんは、俺に向かって深く、深く頭を下げた。
「……改めて。本日は、よろしくお願いいたします、マンハッタンカフェさん」
「……こちらこそ。Оさん。よろしく、お願いいたしますね」
俺が静かに微笑んで一礼を返した時。部屋の隅の壁掛け時計が、午前十時を少し回ったところを指し示した。
「よし。検査も終わりましたし、着替えもバッチリですね!」
Oさんが、涙を拭ってプロの顔つきへと戻り、元気よくパンッと手を叩いた。
「開演までは、あと一時間と三十分。そろそろ、社長とSさんのところに戻って、事後報告と最終の打ち合わせをしましょう。……それから、タキオン役のUさんや、ポッケ役のFさんたちとの顔合わせもありますから!」
俺はコクリと頷き、ボストンバッグを持って立ち上がった。他の声優たちとの顔合わせ。そして、数万人のファンが待つ、公式イベントの特設ステージ。
「(……行くぜ。俺たちが元に戻るための、大きな一歩を刻みにな)」
俺は、隣に浮かぶカフェと、飛び跳ねるお友達と共に、冬の京都競馬場の熱気が渦巻く外の世界へと、控え室の扉を開け放った。