10月いっぱいを目処といったところでしょうか。
京都競馬場の最上階付近に位置する関係者専用のVIPルーム。
全面ガラス張りの広大な窓からは、美しい緑のターフと、その周りを埋め尽くす何万人もの観衆が一望できた。
「……いやはや、凄い喰いっぷりでしたね」
俺が部屋に戻るなり、ソファに腰掛けていたS氏が、タブレットから顔を上げて呆れたように笑いかけてきた。
「私も、君が場内を練り歩く様子をSNSでリアルタイムで追っていたのだが……。いや、本当に凄いな。あの短時間で、各店舗の看板メニューを総なめにしてしまうとは」
社長も、手元のスマートフォンで『かっふぇ』のトレンド入りした目撃写真、両手に巨大な鶏天とうどんを持っている写真などを見ながら、感心と呆れが入り混じったような苦笑いを浮かべていた。
(……流石に、少しはしたなかったか?)
一瞬だけ反省しかけた俺だったが、すぐにインフルエンサーとしての余裕を取り繕い、ウマ娘らしく優雅にお辞儀をした。
「……いえいえ。これでも、まだ八分目、ですよ」
「ははっ、あれで八分目とは恐れ入る」
「……ええ。夕方に、走るお約束を、していますから。……あまり満腹になりすぎても、いけませんしね」
俺が小首を傾げてさらりとそう告げると。社長とS氏は、ウマ娘の物理法則を無視した胃袋のキャパシティと燃費を思い出したようで。
「ハハハ……」
と揃って引きつったような乾いた笑いを漏らしていた。
■
「さて、マンハッタンカフェさん。『走る』という件ですが」
S氏がコホンと咳払いをして、仕事の顔に戻った。眼下のコースではちょうど午後のレースが発走し、何万という観衆の地鳴りのような歓声がガラス越しに響いてきている。その熱気を遠くに感じながら、俺たちは部屋のテーブルを囲み、夕方のトークショーにおける『走行ルート』の協議に入った。
「流石に、JRAの本馬場(レースコース)を走らせてもらうわけにはいきません。あそこは、競走馬たちのための場所ですからね。あ、というと語弊がありますね。この世界の馬の物と言い換えましょう。それで、ですね。代替案として昼のトークイベントを行った『緑の広場』の芝生エリアを走る約束は、JRA側からしっかりと取り付けてあります」
「……広場、ですね」
俺が頷くと、S氏はテーブルの上に緑の広場の見取り図を広げた。
「コースは次の通りです。ステージ前をスタート、そしてゴール地点とします。そこから東へ向かって一直線に走り出し、広場の奥にある大きな木をぐるりと回って、西へ向きます。そして再びステージ前へと戻ってくる。……直線とカーブを組み合わせた折り返しコースですね。蹄鉄のような」
「なるほど」
「ただ……距離で言えば、そうだな。全部合わせても、200メートルにも満たない短距離になってしまいますが……」
S氏と社長が、少し申し訳なさそうに俺の顔を見た。彼らは俺が『本物のマンハッタンカフェ』だと確信しているため、二千メートルや三千メートルの長距離を走る彼女にとって、二百メートル未満の距離など「走るうちに入らないのでは」と気を遣ってくれているのだろう。
だが、俺は静かに微笑み、首を横に振った。
「……構いませんよ。私の力を証明するには、それで十分に、お釣りが来ますから」
俺の言葉に呼応するように、空中のカフェも力強くコクリと頷いた。
『ええ。ウマ娘の圧倒的な脚力を見せつけるには、距離の長さは問題ではありません。……スタートダッシュ。そして、木を回る時の遠心力に耐えるコーナリング。最後に、100メートル程度の直線でのスパート。……私たちの身体能力を披露するには、それで十分でしょう』
「(ウンウンッ!)」
足元のお友達も、カフェの言葉に同調して首を縦に激しく振り、見えないクラウチングスタートの構えをとっている。
社長とS氏は、俺の自信に満ちた返答にホッとしたような表情を浮かべた。だが、俺には一つ、現実的な疑問があった。
「……ただ。コースについては了承しましたが。……どうやって、あの広場に、私が全速力で走れるだけの『コース(空間)』を作るのですか?」
昼のステージの時、緑の広場は大勢の観衆で足の踏み場もないほどに埋め尽くされていた。あの密集した人だかりの中でウマ娘が本気で走れば、間違いなく大事故になる。いくらスタッフがロープを張ろうと、群衆を完全に押し退けてコースを確保するのは至難の業に思えた。
俺の危惧に対し、S氏はニヤリと、プロのイベンターとしての自信に満ちた笑みを浮かべた。
「そこはご安心を。夕方のイベントの時間は、メインレースである『京都金杯』が終わった後になります。……競馬場という場所は、メインレースが終わると、純粋な競馬ファンやギャンブラーたちは蜘蛛の子を散らすように一斉に帰路につくのです」
「……なるほど。人が少なくなるのですね」
「ええ。なので、全レース終了後にわざわざ広場に残ってイベントに参加する人というのは……純粋なウマ娘のファンと、かっふぇ様のファンがその大半を占めることになります」
S氏の言葉に、俺は年末のコミックマーケットでの大混乱を見事に統制した『オタクたちの協調性』を思い出しながら、その続きの言葉を待った。
「彼ら(ファン)は、非常にマナーが良く、統制が取れています。事前に『かっふぇ様が走るので、道を開けてコースを作ってください』とアナウンスすれば、彼らならば、必ずこちらのアナウンスやスタッフの指示に従ってくれるはずです」
「その通り。私もそう信じていますよ」
社長も、S氏の言葉に深く同意して頷いた。
「『あのマンハッタンカフェ……そのクオリティのやたら高いコスプレイヤーさんが、目の前で本気の走りを見せてくれる』となれば。彼らも絶対に『なら、邪魔をせずに見なきゃ損だ』と、協力的な姿勢を取ってくれるはずです。……何より、かっふぇ君の圧倒的なカリスマがあれば、彼らを動かすことなど容易いでしょう」
「……ふふっ。買い被りすぎ、ですよ」
俺は、社長の言葉に小さく謙遜しながらも、確かな手応えを感じていた。コミケの屋上で、あの親切なカメラマンとお姉さんの指示に従って、何百人ものカメラマンが一糸乱れぬ『囲みの壁』を作ったあの光景。オタクたちは、自分たちの『推し』の最高の瞬間を見るためなら、どんな規律でも守り抜く強さを持っている。
「(……なら、俺がやるべきことは一つだ)」
俺は窓の外、広大な京都競馬場のターフを見下ろしながら静かに拳を握り込んだ。
夕方の16時35分。ファンが作ってくれた手作りのコースで、人間の常識をへし折る『本物のウマ娘の走り』を、公式の社長たちの目の前で、そして大勢のファンの目の前で証明する。それは、元に戻るために、大欅に向けた、そしてフォロワー100万人という伝説への、最も確実で、最も劇的な号砲(ファンファーレ)になるはずだ。
■
方針が決まったところで、俺たちは再び大控え室へと戻り、Oさん、そしてアグネスタキオン役のUさん、ジャングルポケット役のFさんたち声優陣との最終打ち合わせに入った。
夕方のトークショーの構成は、まずはイベント開始前に終わったばかりのメインレース『京都金杯』の熱戦の振り返り。そして、これからの『ウマ娘』というコンテンツの未来についての熱いトーク。俺(かっふぇ)は昼間と同じく、絶妙な間合いでフリップなどを手渡すサポート(黒子役)に徹する。
そして、イベントのオーラス。大トリとして、表向きは『特大のファンサービス』という名目で、かっふぇのダッシュが披露されてイベントが華やかに締まる、という流れだ。
「……その際、観客の皆様への誘導やコース確保の音頭は、Oさんたち声優陣にお願いしたいのです」
S氏が、緑の広場の見取り図を指し示しながら説明する。
「お三方がステージ上からファンに呼びかけ、モーゼの十戒のように道を開けてもらいます。それに合わせて、我々スタッフが素早くカラーコーンを配置し、安全な走行ルートを確保するという段取りです」
「なるほど、私たちがファンの皆さんを先導するんですね! 楽しそう!」
Fさんが快活に頷き、Uさんも、
「ええ、ファンの方々との一体感も出そうですし、とても良い演出だと思いますよ」
と賛同してくれた。するとここで、S氏がUさんとFさんに向かって、どこか芝居がかった調子で補足を入れる。
「で、実を言いますと……かっふぇさんは、足が非常に速いのです。SNSで拝見させて頂いて、お声がけさせていただいたんですよ。お姿、お声だけではなく、脚までもマンハッタンカフェに近いのです。ま、流石に『本物のウマ娘』とまではいきませんが……おそらく、皆様が驚くほど、とんでもなく盛り上がりますよ」
それは、真実を知らない二人に対する、S氏なりの見事なカバーストーリーだった。
「えーっ! そうなんですか!?」
「へぇ、それは楽しみー! かっふぇさんの全力ダッシュ、私たちもステージから特等席で見させてもらいますね!」
UさんとFさんは、スポーツマンの俊足を見るような純粋な期待に満ちた声を上げて喜んでいた。
「絶対、絶対盛り上がります! ここに居る人だけじゃない! SNSも、動画サイトも、いえ、ネットも……社会すらも巻き込んで!」
その一方で。たった一人、俺の『本物の身体』を控え室で直接確認し、真実を知っているOさんだけは。これから何万人もの観衆と隣の二人の度肝を抜くであろう『奇跡』を想像してか、ワクワクを隠しきれない様子で、目をキラキラと輝かせながら何度も力強く頷いていた。
『皆さん、とても楽しみにしていらっしゃるようです。……期待には、最高の結果で応えなければいけませんね』
「(ブンブンッ!)」
空中のカフェが静かに、しかし確かな闘志を燃やして微笑み、お友達も見えないアキレス腱を伸ばして準備運動を始めている。
俺は、期待の視線を向けてくる声優陣と、全てを託してくれた社長たちに向かって。
静かに目を伏せ、不敵なまでの自信を込めて、ハスキーなウィスパーボイスで告げた。
「……お任せ、ください。私は、ウマ娘……、マンハッタンカフェ、ですから」
■
眼下のコースで白熱のレースが繰り広げられる中。出番を待つ俺たちは、特別室の特等席に並んで座り、ホテルが用意した高級なドリップ珈琲の香りを堪能していた。
「……生で見る、珈琲を飲むマンハッタンカフェ……眼福です……」
隣のソファに座るOさんが、両手でマグカップを包み込むように持ちながら、俺の横顔を食い入るように見つめて深い溜息を漏らす。
(いや、本当に申し訳ねぇな、これ……)
可憐な女性声優から向けられる、純度百パーセントのキラキラとした尊敬の眼差し。その視線を浴びながら優雅にカップを傾けつつも、中身が三十路前のおっさんである俺の良心は、チクチクと絶え間なく刺され続けていた。
そんな気まずさを誤魔化すように、俺はふと、足元で暇そうにウロウロしている『お友達』の影に目をやった。
「(……そういえば、お友達とかは、こっちの世界じゃあ物理干渉とかできないのかね?)」
俺がカップで口元を隠し、誰にも聞こえないほどの小声で呟いた、その時だった。
俺の疑問を聞きつけたお友達の影が、「できるよ!」とばかりにスッと伸び上がり……あろうことか、テーブルの上に置かれていたOさんの紙コップへと、見えない両手を伸ばしたのだ。
―――スッ……。
「えっ!?」
Oさんの目の前で。テーブルの上の紙コップが、まるで手品のように、ふわりと宙に浮き上がった。
「えっ、ええっ!? コ、コップが勝手に……!?」
「(お、マジで持てるのか。すげぇな)」
パニックになって目を白黒させるOさんをよそに、俺は感心して浮遊するコップを眺めた。ポルターガイスト現象そのものだが、お友達の影が『ドヤァ』と胸を張っている(ように見える)シルエットがなんとも可愛らしい。
俺はコップをテーブルに戻すよう視線で促し、驚愕で固まっているOさんに向けて、静かに首を傾げた。
「……『お友達』……ですよ。ご存知、ありませんか?」
「お、お友だち……ッ!? い、いいえ!? まさか、あのお友だちまで、一緒にこっちに来ているんですか!?」
自身が演じるキャラクターの根幹に関わる『見えない存在』。その設定が、ただのフレーバーではなく現実の怪奇現象として目の前で証明され、Oさんは恐怖よりも圧倒的な興奮で声を上ずらせているようだった。
「……はい。ずっと、私の隣に」
俺がクスリと微笑みながら答えると、Oさんは見えない『何か』がいるであろう空間に向かって、ブンブンと何度も頭を下げ始めた。
「あ、あのっ! いつもカフェがお世話になってます! 私、声帯をやらせていただいてる者です!!」
興奮しているのか、言っていることは支離滅裂だ。が、お友達はいいよいいよとばかりに頷いている。
「……ふふっ。ああ、貴女の事は、非常に好意的に見ておられるようですよ」
「わぁぁっ……! 嬉しいです! よろしくお願いします、お友達さん!」
感極まって「わーっ」と歓声を上げるOさんの前で、お友達の影は「この人面白いな」と言わんばかりに、ウンウンと何度も大きく首を縦に振っている。
そして、空中に浮かぶ本物のカフェもまた、自分が大切にしている存在を心から愛してくれているOさんの姿を見て、
『……楽しそうで、何よりです』
と、とても微笑ましそうに目を細めていた。
そうしているうちに、ガラス越しの外の世界から、一際大きな地鳴りのような歓声が響いてきた。新年の運試し、メインレースである『京都金杯』の決着がついたのだ。
「……さぁ。終わりましたね」
俺は空になった珈琲のカップをテーブルに置き、静かに立ち上がった。宴の後の余韻が漂う競馬場。熱狂のピークを過ぎ、帰路につくギャンブラーたちと、最後の奇跡を見届けるために残る者とが交差する時間がやってくる。
「(……行くぞ、カフェ)」
『ええ、四月一日さん。……私たちの走りを、この世界に刻みつけましょう』
いよいよ、全てを証明するための『本番』の時間が、すぐ目の前まで迫っていた。