冬の短い陽が西の空に傾き、京都競馬場をオレンジ色に染め上げる頃。
全レースの日程を無事に終えた「緑の広場」特設ステージ前には、純粋なウマ娘ファン、そして『かっふぇ』を一目見ようと残った観衆たちで、昼間と変わらぬ、いやそれ以上の異常な熱気が渦巻いていた。
「皆様、改めまして! 本日のメインレース『京都金杯』、本当に素晴らしいレースでしたね!!」
司会者のよく通る声に、大歓声が応える。
「そして何より……! 今日の勝ち馬は、マンハッタンカフェの血を引く子孫だったんです!!」
マイクを握りしめたOさんが、興奮冷めやらぬ様子でステージの前方へと乗り出した。
「もう、私レース見ながらボロ泣きしちゃって! 時代を超えて血統が繋がっていく、これぞ競馬のロマンですよね! カフェの血脈が、こうして新年の重賞を勝つなんて……運命を感じずにはいられません!」
Oさんの熱弁に、客席の競馬ファンやトレーナー(ウマ娘ファン)たちも、
「おおおおっ!!」
と地鳴りのような歓声を上げる。タキオン役のUさんや、ポッケ役のFさんも
「ドラマチックだったねー!」
「最高だった!」
と大きく頷き、ステージ上は感動的な空気に包まれていた。そんな熱狂のステージ上で、俺(かっふぇ)は完全に「完璧な黒子」、いや「現実世界に顕現したマンハッタンカフェ本人」としての役割を全うしていた。
「(よし、次はこのフリップだな)」
『四月一日さん、右手を添えて、少し斜めに傾けて皆様に見やすく』
俺は空中のカフェの的確な指示に従い、流れるような所作でトークテーマの書かれたフリップをOさんへと手渡す。Oさんがそれを受け取ると、俺は静かに一歩引き、両手を前で揃えてスッと目を伏せた。
「きゃああっ! かっふぇさん! かわいいー!」
時折、観客席から声援が飛べば、俺は少しだけステージの前に歩み出て、フワリと手を振り返す。あるいは、カフェ特有の、少しアンニュイでミステリアスな視線を客席の奥へと投げかける。それだけで、大勢の観衆から、
「ふおおおおおっ……!」
という、信仰心すら感じさせる感嘆の吐息が漏れた。少し面白い。
トークショーの小道具やグッズを手渡し、共演者の言葉に小さく頷き、時には本物のウマ娘としての優雅な佇まいで前に出る。俺のサポートは完璧であり、誰の目から見ても「解釈一致のマンハッタンカフェ」そのものだった、はずだ。
そして、熱狂と歓喜に包まれたまま、あっという間に四十五分という時間が過ぎ去った。
「さぁ、皆様。楽しい時間は本当にあっという間ですね。本日のトークショーも、いよいよお開きの時間が近づいてまいりました」
司会者の言葉に、客席から、
「ええーっ!」
「もっとやってー!」
と名残惜しそうな声が上がる。
「ですが、ご安心ください! 本日の大トリとして、皆様に『とっておきの特別イベント』をご用意しております!」
司会者がニヤリと笑い、ステージ袖で見守る公式企業の社長とS氏のほうへチラリと視線を送った。
「なんと! 今SNSで話題沸騰中、本日素晴らしいサポートをしてくださった公式アンバサダーの『かっふぇ』さんが! 皆様への特大のファンサービスとして、ここ『緑の広場』の特設コースを……全力で『走って』くださいます!!」
その発表が響き渡った瞬間、客席の反応は、見事に真っ二つに割れた。
「え? 走る? あのコスプレイヤーの子が?」
「いくら公式レイヤーって言っても、ただの女の子だろ? かけっこでもするの? 可愛いな」
「ヒラヒラした服で走るお遊戯会か。まぁ、眼福だからいいけど」
純粋な競馬ファンや、俺の動画を知らない層からは、微笑ましい余興を見るような「失笑」に近いざわめきが起きた。美少女のたどたどしい走りを見て和もう、といったような、牧歌的な空気だ。
しかし一方で。
「マジか!! あの『河川敷の配信事故』を生で見られるのか!!」
「ヤバいヤバいヤバい!! カメラの設定変えろ! シャッタースピードMAXにしなきゃ!!」
「伝説の走りが来るぞ!! 絶対に瞬きすんな!!」
俺のSNSの最初の動画――あの、河川敷を物理法則無視の速度で爆走した映像――を見たことがあるファンたちは、顔色を変えて狂喜乱舞し始めたのだ。
「(……よしきた)」
観客の反応を見下ろしながら、俺は漆黒の勝負服の下で、小さく、しかし力強く拳を握りしめた。
『いよいよ、走れますね、四月一日さん』
「(シュッシュッ!!)」
空中のカフェが、嬉しさを隠しきれない様子でウキウキと微笑み、お友達は見えないシャドーボクシングからクラウチングスタートの構えへと移行している。そして、ウマ娘の闘争本能が、俺の(借り物の)肉体の奥底で熱く煮えたぎり始めていた。
ここで、事前に打ち合わせをしていた通り、ステージ上の声優陣がマイクを握って音頭を取り始めた。
「皆様! かっふぇさんが安全に走れるように、少しだけご協力をお願いします!」
Oさんが、可愛らしくも凛とした声で客席に呼びかける。
「今からスタッフさんたちがカラーコーンを置いていきます! モーゼの十戒みたいに、広場の真ん中を広く空けて、コースを作ってくださいねー!」
「お願いしまーす! 押さないように、一歩ずつ後ろに下がってね!」
「みんなで最高のステージを作ろうねー!」
UさんとFさんも、満面の笑みで観客を誘導する。
―――すると、どうだろうか。
大勢の人間が密集していたはずの広場が。声優陣の呼びかけと、スタッフの誘導、そして何より「推しの晴れ舞台を絶対に邪魔してはならない」というオタクたちの強靭な協調性によって、まるで魔法のようにスルスルと左右に割れていったのだ。
「すげぇ……本当に十戒みたいだ」
「最前列、しゃがんで! 後ろの人が見えないから!」
ファン同士で自発的に声を掛け合い、あっという間に緑の広場の中央に、幅数メートル、長さ約百メートル強の『簡易の直線コース』が浮かび上がった。広場の奥にある大きな木を折り返し地点とする、往復二百メートル弱の即席のターフである。スタッフが手際よくオレンジ色のカラーコーンを並べ終えると、ステージ前をスタート・ゴールラインとした完璧な舞台が完成した。
■
西日が沈みかけ、冬の冷たい風が広場の芝生を揺らす。だが、コースを取り囲む観衆の熱気は、沸点をとうに超えていた。
俺は、ステージの階段を静かに降りた。
漆黒の勝負服が風に靡き、腰の奥から伸びる艶やかな尻尾が、本能に従ってブルリと身震いをする。
スタートラインの前に立つ。
靴底が、緑の芝生をギュッと噛み締める感触が伝わってくる。
「……ふぅっ」
俺が短く、鋭い呼気を吐き出した瞬間。俺の頭頂部にそびえるウマ耳が、周囲の音を拾うためにピンと前方へ向かって倒れた。それを見た観衆たちが、ただならぬ空気を察知し、息を呑んで静まり返る。
たかが二百メートルの余興。そう思って失笑していた者たちの顔から、余裕の笑みが一瞬にして消え失せた。スタートラインに立つその重心の低さと、無駄のない筋肉の緊張が、あまりにも「本物のアスリート」、いや、一頭の『名馬』のそれだったからだ。
社長とS氏が、ステージ袖で固唾を飲んで見守っている。Oさんたち声優陣も、マイクを握りしめたまま、信じられないものを見るような目で俺を見つめていた。
俺は、深く腰を落とし。
両手を地面に添え、鋭い眼光で前方――折り返し地点である広場奥の木を睨みつけた。
(……さぁ、世界を驚かせてやる)
次元を超えるための、100万人のフォロワーを獲得するための、最初で最大のデモンストレーション。三十路前の男の魂と、美しきウマ娘の肉体、そして幽霊と悪霊が織りなす奇跡の走りが、今、解き放たれようとしていた。
■
「それでは皆様、大変長らくお待たせいたしました!」
夕陽が照らす緑の広場。観衆が息を呑んで見守る中、特設ステージの上からOさんの澄んだ声が響き渡った。
「公式アンバサダー、かっふぇさんによる全力ダッシュ! ……位置について!」
スタートラインに立つ俺は、深く腰を落とし、冷たい冬の空気を肺の奥底まで吸い込んだ。
足元には、本物のターフ(芝生)。
心臓が、まるで高性能なエンジンのようにドクンドクンと重低音を響かせ、全身の筋肉に爆発的なエネルギーを送り込んでいるのがわかる。
「(……行くぞ)」
『はい。見せてやりましょう、私たちの走りを』
空中のカフェが頷き、お友達の影がクラウチングスタートの姿勢をとる。
「よーい……スタートッ!!」
Oさんの元気な掛け声が響いた、その瞬間。俺は、全身のバネを解放し、緑の芝生を思い切り蹴り上げ――。
パァァァンッッ!!!
「……おや?」
爆発音のような破裂音と共に、俺の足元から、黒い破片がパラパラと宙を舞った。
「えっ!?」
「わっ、何事!?」
観客たちがざわめき、ステージ上の声優陣も驚いて身を乗り出す。スタートラインから一歩も進んでいない俺は、きょとんとした顔で自分の足元を見下ろした。両足に履いていた、コスプレ用の市販の黒いローファー。それが、見事に木端微塵に弾け飛んでいたのだ。
「(……あっちゃー)」
『おや……』
俺とカフェ、そしてお友達の影は、三人揃って全く同じように小首を傾げた。
……考えてみれば、当然である。ウマ娘の規格外の脚力。その蹴り出しの凄まじいトルクに、人間用の、しかも見た目重視の安価なコスプレ靴などが耐えられるはずがなかったのだ。
「……申し訳ありません」
俺は苦笑しながら手を上げ、Oさんやスタッフに向かってウィスパーボイスで告げた。
「……少しだけ、お時間をいただけますか。……靴が、壊れてしまいまして」
「あ、あっ、はい! もちろんです! 皆様、かっふぇさん、靴がバーストするほどの気合で走ってくださるようです! 少々お待ちくださいねー!」
Oさんの見事なアドリブに観客がドッと沸く中、俺は一度ステージ裏のテントへと引っ込んだ。
「(参ったな、靴が完全にオシャカだ。これじゃ走れねぇ)」
『……タイツも破れてしまっていますね』
足元を見ると、ローファーが弾け飛んだ衝撃で、黒いタイツの爪先部分も無惨に引き裂かれていた。仕方がない。俺はテントのパイプ椅子に座り、ビリビリになったタイツを脱ぎ捨てた。
「(……芝生の上だし、いっそ裸足で行くか)」
『ええ。むしろ、その方が大地を直接蹴れますから、走りやすいはずです』
数分後。
「お待たせ、いたしました」
という声と共に、俺が再びステージ前へと姿を現すと。観衆から、「おおおっ……!」というどよめきが上がった。
漆黒の勝負服。そのスカートの裾から伸びる、青白いほどに透き通った、傷一つない白磁のような素足。冬の冷たい芝生の上に、剥き出しの裸足で立つその姿は、ある種の神聖さすら帯びていた。
「は、裸足だ……!」
「ヤバい、めちゃくちゃ綺麗……」
「むしろこっちの方が絵になるぞ!」
予想外の大盛り上がりを見せる客席。
俺は素足の裏で、チクチクとした芝生の感触と、冷たい土の硬さを確かめた。……悪くない。いや、むしろ靴を履いていた時よりも、ずっと身体が軽く感じられる。大地のエネルギーが、直接足の裏から全身へと吸い上げられていくようだ。
「……それでは。気を取り直して」
俺が再び前傾姿勢をとり、鋭い眼光で前方(折り返し地点の木)を睨みつけると。その尋常ではないオーラに当てられたのか、広場は再び水を打ったように静まり返った。
「……いきますよ! よーい、スタートッ!!」
Oさんの掛け声。今度こそ、俺は一切の躊躇なく、大地を穿つように素足を突き立てた。
―――ドン
靴が弾ける音ではなく。俺の足裏が、分厚い芝生と土台の土を、まるで砲弾のようにえぐり飛ばした音が響く。
「えっ……!?」
大勢の観衆が一斉に瞬きをした。
そして次の瞬間、スタートラインにいたはずの『かっふぇ』の姿は、完全に消失していた。
「(速えええええええええっ!!!)」
俺自身の魂が絶叫していた。風が咆哮を上げ、周囲の景色が極彩色の線となって後方へと飛び去っていく。スタートダッシュの初速だけで、時速数十キロ。最初の直線100メートルを、ものの10秒程度で駆け抜ける。
「なっ……!?」
「はあぁ!?」
観客たちの悲鳴に近い驚愕の声は、すでに俺の遥か後方に置き去りにされていた。
そして、折り返し地点である巨大な樹木が目の前に迫る。普通の人間なら絶対に曲がりきれない速度だ。だが、俺の身体(ウマ娘の肉体)は、本能のままに動いた。
「(ふっ……!)」
重心を極限まで低く落とし、左足の裏で芝生を削るようにしてスライドさせる。
―――ズザァァァァッ!!
緑のターフが高く舞い上がる。凄まじい遠心力を、強靭な体幹と尻尾のバランスで完璧にねじ伏せ、俺は一切の減速をすることなく、ヘアピンカーブを高速で駆け抜けた。
『四月一日さん! 綺麗なコーナリングです!』
「(ここからだ……! 振り落とされるなよ!!)」
木を回り込み、ステージへと戻るラスト100メートルの直線。
ここで、俺は『マンハッタンカフェ』の代名詞とも言える、あの独特のフォームへと移行した。
ガクンッ、と。
極端に頭を下げ、前傾姿勢をさらに深くする。
まるで、地面を這うように。あるいは――自分の前を走る『お友達』を、地の底から追いすがるように。
「(うおおおおおおおおっ!!!)」
一気にギアが跳ね上がった。先ほどの100メートルがただの「準備運動」だったと錯覚するほどの、爆発的な加速。風の壁を文字通りに引き裂き、漆黒の弾丸と化した俺は、残りの100メートルを、わずか7秒程度で駆け抜けた。
ズザァァァァッ……!!
ステージ前のゴールラインを通過したと同時に、素足で芝生にブレーキをかけ、土埃を上げながらピタリと静止する。一切のブレもない、我ながら完璧な停止姿勢だった。
「…………」
「…………」
広場を、完全な静寂が支配した。
往復200メートル弱の距離。スタートからゴールまで、わずか20秒にも満たない時間。
観衆の脳髄は、目の前で起きた「人間を辞めている現象」を処理しきれず、完全にフリーズしてしまっていた。
ステージ袖の社長は、持っていたストップウォッチを落としそうになりながら口をパクパクとさせている。S氏は、メガネを外して目を擦っていた。
やがて。最前列にいた一人のファンが、震える声で呟いた。
「……す、すげぇ……ッ!?」
それが起爆剤となった。
「うおおおおおおおおおおおっ!!??」
「カッフェさんマジで!? 今の何!? ワープした!?」
「速すぎるだろ!! 世界新記録じゃねーの!?」
「足音ヤバかったぞ! 馬が走ってるみたいだった!!」
「いや馬っていうかウマ娘だろアレ!! 本物だ!!」
大歓声。怒号。絶叫。
緑の広場が、かつてないほどの熱狂のるつぼと化した。
カメラのシャッター音が嵐のように鳴り響き、誰もが狂ったように両手を振り上げている。
ステージ上の声優陣も、完全に我を忘れていた。
「す、凄っ……! 何いまの!? ウマ娘だよ! 本当にウマ娘のスピードだ!!」
「速すぎるーっ! かっふぇさん凄ーい!!」
「信じられない……! 本物のカフェの走りだ……っ!」
Oさん、Uさん、Fさんの三人が、マイクを通すのも忘れて身を乗り出し、ステージの上から歓喜の声を上げている。
俺は、乱れることのない呼吸を静かに整え、湧き上がる大歓声の中をゆっくりと歩いて、ステージへの階段を登った。そして、マイクを受け取ると。大勢の観衆に向かって、深く、優雅にお辞儀をした。
「……ふぅ」
一呼吸置き。俺は、マイクを口元に寄せ、ウィスパーボイスで、ほんの少しだけ不満げに呟いた。
「……靴が、壊れなければ。……もう少し、速く走れたのですが」
その一言が、広場に響き渡った瞬間。
「ええええええええっ!?」
「あれで!? あれでまだ本気じゃないの!?」
「バケモノだ……! 美しすぎるバケモノだ!!」
「靴壊れたのハンデだったのかよ!!」
「ウマ娘は実在したんだああああ!!」
さらなる困惑と、限界突破の熱狂が広場を包み込んだ。
俺は、ステージ袖で魂を抜かれたような顔をしている社長とS氏に向かって、小さくウインクをして見せた。
■
夕暮れの京都競馬場。
伝説のインフルエンサー『かっふぇ』が、真のウマ娘としての脚力を世界に見せつけたこの日。
歴史に残る最高の盛り上がりと共に、大晦日から続いた怒涛の公式イベントは、これ以上ないほど完璧な形で幕を閉じたのだった。