熱狂のイベントから数時間後。
京都の風情漂う先斗町、鴨川を見下ろす高級料亭の完全個室にて、俺たちは遅めのディナーテーブルを囲んでいた。
「……いやはや。もう、あなたは本当にウマ娘だ。今日のあの常軌を逸した走り……疑う余地など、微塵もない」
豪勢な舟盛りを前にして、社長が深く、心からの感嘆を込めたため息を吐いた。
「ええ。私もステージ袖で見ていましたが、あんな速度でコーナリングをして無傷だなんて、人間の骨格や筋肉では絶対に不可能です」
「本当に、凄かったです……! 私、鳥肌が立ちっぱなしで、マイク握る手が震えちゃいましたよ!」
S氏が深く頷き、Oさんも身を乗り出して目を輝かせる。大企業のトップ、敏腕プロモーター、そしてプロの声優。三人の大人たちからの最大級の賛辞を受けながらも。
「……ありがとう、ございます」
俺(かっふぇ)は、優雅にウィスパーボイスで礼を言いつつ、箸を動かす手だけは一切止めていなかった。
(美味ぇ……。やっぱり冬のブリは脂が乗ってて最高だな。この西京焼きもヤバい)
『四月一日さん、お醤油こぼさないように。……でも、本当に美味しいですね』
「(モグモグ!)」
久しぶりの全力疾走(しかも極度の緊張状態)を終えたウマ娘の身体は、凄まじい勢いでカロリーを欲していた。俺は出された極上の刺身、焼き魚、煮付けなどを、マンハッタンカフェの涼しげな表情を一切崩さぬまま、ブラックホールのような胃袋へと次々と放り込んでいた。
「さて、これからのことですが」
社長が、少しだけ居住まいを正して本題を切り出した。
「公式として、貴女の元の世界への帰還を全面的にバックアップさせていただきます。ただ、この現代社会で動く以上、どうしても法的な『契約関係』を結んでおく必要がある」
「……契約、ですか」
「はい。とはいえ、戸籍のない貴女と直接契約を結ぶことはできませんから……表向きの契約関係は、こちらで『四月一日氏』と結ぶという形で進めましょう」
社長は、俺の懐にあるマイナンバーカードの持ち主(つまり俺自身なのだが)を『幽霊の代理人』として扱い、彼を窓口にするという論法を提示してきた。
「そして、お二人の状態が元に戻り、貴女が無事に元の世界へ帰還した暁には……めでたく『契約解除』という形で、いかがでしょうか?」
「……ええ。それで、構いません。……素晴らしいご提案です」
俺が二つ返事で了承すると、社長とS氏はホッとしたように表情を緩めた。
『……これで、より強力なバックアップができましたね、四月一日さん』
「(ああ、これで資金面も活動場所も、何も心配いらなくなった)」
空中のカフェが心底安堵したように微笑み、お友達もウンウンと頷いている。
「……では、その書類などの手続きについては、どうしましょうか」
俺が尋ねると、S氏がサッと手帳を取り出した。
「その点につきましては、後日、私が直接出向きます。今現在の住処である、四月一日氏のアパートに伺って、手続きを進めさせていただきましょう。……もちろん、カフェ様のご都合がよろしければ、ですが」
「……問題ありません。お気遣い、感謝します」
「承知しました。では、こちらの準備が出来次第、ご連絡差し上げますね」
そう言って、S氏が業務用のスマートフォンを取り出し、俺(四月一日)の安物のスマホと連絡先を交換した。それを見ていたOさんが、うずうずとした様子で口を尖らせた。
「ああっ、連絡先……! 羨ましいです、私もカフェさんと交換したい……!」
「……ダメ、ですよ」
俺がピシャリと、しかし優しくたしなめるように首を横に振る。
「ええーっ、なんでですかぁ……」
「……私が元の世界へ帰ってしまえば、この電話番号は『四月一日さん』のものとなります。……見ず知らずの、それも三十路前の男性の連絡先が残るなど、Oさんのようなお仕事の方にとっては、決して宜しくないかと」
「あっ……ええと」
あまりにも現実的で、ぐうの音も出ない正論。中身がおっさんである俺からすれば、人気の女性声優のプライベートな連絡先など、万が一にも知るわけにはいかないのだ。
「わ、わかっています……わかっているんですけど。でも、その、せっかくの次元を超えたご縁ですし……」
しゅん、と肩を落として残念そうにするOさん。彼女のキャラクターへの愛の深さが伝わってきて、俺も少しだけ胸が痛んだ。
「……仕方ありませんね」
俺は小さく息を吐き、少しだけ口角を上げた。
「……Sさん経由でなら。……たまに、メッセージをやり取りするくらいは、構いませんよ」
「本当ですか!? わーっ、ありがとうございます!!」
Oさんがパァッと顔を輝かせ、S氏も、
「私が責任を持って仲介しましょう」
と笑って請け負ってくれた。和やかな空気の中、話が一段落したところで。ふと、社長とS氏、そしてOさんの三人が、俺の目の前に積み上げられた『お皿の山』に気がついた。
「「「…………」」」
刺身の舟盛りは骨だけになり、のどぐろの塩焼き、ブリの照り焼き、カレイの煮付け、天ぷらの盛り合わせ、そして土鍋の鯛めし……。すでに、高級料亭のコース料理を『四人前』は軽く平らげている。
「い、いやはや……。これはこれは」
「本当に、ウマ娘さんだぁ……」
「物理法則、どうなってるんですかね……」
三人は完全に目がテンになり、先ほどの感動すら上書きされるほどの、ドン引きという名の畏敬の眼差しを向けてきた。
「……ふふっ。まだ、八分目です」
俺がペロリと口元をハンカチで拭い、ミステリアスに微笑んで見せると、三人は「ヒエッ」と小さく息を飲んだ。
「……それと。社長、Sさん。契約の前に、私からもう一つだけ、お願いがあるのですが」
「お、お願い? なんでしょうか。食費の増額ならいくらでも出しますが……」
「いいえ、食事のことではありません」
俺は真剣な眼差しになり、少しだけ困ったような、もどかしい表情を作った。
「……その、できれば。周りの目を気にせず、『思い切り運動できる場所』が欲しいのです」
「運動できる場所、ですか?」
「はい。……こちらの世界に迷い込んできてから数ヶ月。その、十分な運動というか、本来の『練習』が、全くできておらず……」
多少はジョギングや筋トレなどは出来ていたが、ウマ娘本来の『走る』という行為は、河川敷の事故動画以来、今日の今日まで一度もできていなかったのだ。身体が完全に鈍ってしまう前に、そしてカフェが元の世界へ帰還した時に支障が出ないように、気兼ねなくトップスピードを出せる環境がどうしても必要だった。
俺が苦笑交じりにそう伝えると、社長は合点がいったように大きく頷いた。
「なるほど、アスリートとして当然の欲求ですね。今日の走りを見て、よくわかりました。あんな速度で公道を走れば、大事故になりかねない」
社長は、S氏と一瞬だけ視線を交わし、力強く胸を叩いた。
「お任せください。弊社が懇意にしている私有地のトラックか、あるいは貸し切りのトレーニング施設をご用意しましょう。……必ず、善処します」
「……ありがとうございます」
最強の公式スポンサーによる全面バックアップ。安全な生活基盤、強力な発信力、そして練習環境。元の世界へ帰るための足場が、ここ京都の夜で、ついに完璧に組み上がったのだった。
■
京都の夜もすっかり更けた頃。料亭での会食を終え、ホテルのスイートルームへと戻ってきた俺は、真っ先にベッドへと倒れ込んだ。
「……っあー、疲れた。流石に今日は色々と濃すぎたな」
物理的な疲労よりも、公式のトップを相手にした精神的な疲労が大きい。ネクタイを緩めるサラリーマンのような仕草で勝負服の襟元をくつろがせ、俺はボストンバッグの横に放り投げていた安物のスマートフォンを手に取った。
画面を点灯させ、SNSのアプリを開く。すると、通知のアイコンが凄まじい勢いで回り続け、表示されたフォロワー数の桁が、昼間とは全く違うものに跳ね上がっていた。
「……マジかよ。五十万人、超えてるぞ」
『五十万……! たった一日で、ものすごい伸びですね』
「(バンザーイ!)」
空中のカフェが黄金の瞳を見開いて驚き、お友達はフィギュアスケートの如く回転して喜んでいる。今日の『全力ダッシュ』の動画が、何百人もの観客の手によって一斉に拡散された結果だろう。目標である100万人への道のりは、ついに折り返し地点を突破したのだ。
その数字に達成感を覚えていると、画面上部に『ウマスタ』からの新着メッセージのポップアップが表示された。アイコンは、白衣を着たウマ娘。アグネスタキオンからだ。
『アグネスタキオン:やあカフェ。いや、四月一日君か。君と同じ名前の用務員を、ようやく捕まえたのでね。写真を送るよ』
そのメッセージと共に、一枚の画像ファイルが送られてきた。俺は息を呑み、タップして画像を拡大した。
画面に映し出されていたのは、トレセン学園と思しき校舎の裏手で、竹箒を持ったまま不思議そうにカメラを見つめている……作業着姿の、冴えない三十路の男の姿だった。
「…………」
俺は、頭を抱えて、今日一番の、ひどく重く、長いため息を吐き出した。
日雇いで日に焼け、無精髭を生やし、どこか疲れたような目をした男。毎日鏡で見ていた、間違いのない『俺(四月一日)』の肉体だった。カフェという美少女の姿に慣れかけていたせいで、客観的に自分の抜け殻を見せられると、なんとも言えない現実感と絶望感が押し寄せてくる。
俺はスマホのキーボードを打ち込み、返信を投げた。
『かっふぇ(四月一日):俺だわ。マジかよ。いやまぁ、ありがとなタキオン』
『アグネスタキオン:礼には及ばんよ。で、そちらは何か進展したかね?』
間髪入れずに返信が飛んでくる。相変わらず、向こうは早朝だというのに元気なやつだ。
『かっふぇ(四月一日):なんとかこちらの、まぁ、レース関係の企業(公式)のバックアップを取り付けられた。うまくいけば、大欅に出会えるかも』
『アグネスタキオン:それは良い! 日程が決まったら言ってくれたまえよ。12時間後に合わせて、そちらのタイミングで切り株に向かうとしよう』
タキオンからの力強い協力の言葉。だが、俺はどうしても引っかかっている疑問を、そのままフリック入力でぶつけた。
『かっふぇ(四月一日):おう。その時は連絡する。……っていうか、写真のそいつ。マジで『用務員』として働いてるのか?』
『アグネスタキオン:そうだとも。年にして三十路ぐらいの男性、というところだね。非常に真面目で、学園内でも評判がいい用務員だよ』
『かっふぇ(四月一日):そいつはどーも。……だが、俺の魂というか、理性?なのかな、がこっちにいるのに、一体誰が俺の肉体を動かしているんだ?』
魂のない肉体が、勝手に自律稼働して真面目に用務員として働いているなど、オカルトを通り越してホラーである。数秒後。タキオンからの返信は、あまりにも潔いものだった。
『アグネスタキオン:さぁね。私にもそれは不明だよ!』
「……丸投げかよ。天才科学者なんだから、少しは考察してくれよ」
俺が呆れたようにスマホをベッドに放り投げると、横から画面を覗き込んでいたカフェが、静かに顎に手を当てて考え込んでいた。足元のお友達の影も、俺と同じように首を傾げて、誰が身体を動かしているのか不思議そうにしている。
だが。
不意に、カフェの黄金の瞳に、ハッとしたような理知的な光が灯った。
『……もしかすると、四月一日さん』
空中に浮かぶ彼女が、真剣な、少しだけ緊迫感を帯びた声で俺を呼んだ。
「なんだい、カフェさん」
『……今回の事態の元凶である、『悪霊』。……あの悪霊は、今一体どこにいるのか、と考えると……。自ずと、答えは出てきませんか?』
カフェのその言葉が。
冷や水を浴びせられたように、俺の脳髄を貫いた。
■
「……ッ。ま、待て。待て待て待て」
俺はベッドの上にガバッと身を起こし、暗闇の中で目を見開いた。
「次元の穴が開いて、俺とお前の魂が入れ替わった。俺の魂はカフェの身体に入ってこっちの世界に残り、お前の魂もここに留まった。……じゃあ、弾き出された『悪霊』は?」
向こうの世界のトレセン学園で、真面目に箒を掃いているという、三十路前の冴えない男の肉体。
魂が抜けたはずのその身体が、なぜ自律稼働しているのか。なぜ、黙々と『用務員』として働いているのか。
「……俺の、あのボロボロの肉体の中に……悪霊が、スッポリ収まってるって言うのか……!?」
『その可能性が、極めて高いかと』
カフェが、黄金の瞳に同情と僅かな申し訳なさを滲ませてコクリと頷いた。俺は頭を抱えた。なんというホラーだ。俺の三十年間連れ添った愛着のある(しかしガタが来ている)肉体が、異世界で悪霊の乗り物として魔改造されているかもしれないのだ。
だが、同時にひどく滑稽な疑問も湧いてきた。
「……いや、でもよ。悪霊ってのはもっとこう、人を呪ったり暴れたりするもんじゃないのか? なんで俺の身体に入って、トレセン学園で真面目に落ち葉を掃いてるんだよ。評判がいいってどういうことだ」
『それは……おそらくですが。四月一日さんの肉体に染み付いた『労働への強烈な責任感』や『日雇いで鍛えられた身体の癖』が、悪霊の自我を上回ってしまっているのではないでしょうか……』
「俺の労働意欲、悪霊の呪いに勝ってんの!?」
―――悲しいかな、長年のブルーカラー生活で染み付いた「とりあえず目の前の現場を片付ける」という社畜の習性は、次元やオカルトを超越するらしい。悪霊もさぞかし困惑していることだろう。「呪おうと思ったのに、なぜか身体が勝手に箒を握って綺麗に掃除してしまう」のだから。
俺はため息をつきながら、再びスマホを手に取り、ウマスタのメッセージ画面を開いた。そして、この『悪霊=用務員(四月一日)説』を、そのままタキオンへと送信した。
数分後。タキオンから、ひどく興奮した様子の長文メッセージが返ってきた。
『アグネスタキオン:ほう! それは面白い話だねぇ! なるほど、君のその推論は非常に理にかなっていると言えるねえ!! でね? 『愛だけが世界を越えられる』……と、我が学園のネオユニヴァース君がよく口にする言葉がある。これを事実だと考えれば、諸々の事象に説明はつきそうだねぇ』
「……愛だけが?」
俺はスマホの画面を睨みつけながら、思わず声に出して呟いた。哲学的なのか、それとも物理学的な暗号なのか。
『アグネスタキオン:そう。次元の壁だ。あるいは並行世界間のフィルター。その類というものは、我々が想像する以上に強固なものだ。常識では破る事すら出来ないし、存在を感じる事すらない。だからこそ、それを通り抜けるためには、魂そのものに強烈な『質量』……つまり、世界に対する執着、願い、あるいは『愛』と呼ばれるような強い指向性のエネルギーが必要になるのだよ!!!』
「なるほど……フィルター、か」
『アグネスタキオン:逆にいえば、愛という質量を持たぬ存在は次元の壁を越えられない。……君たちの世界への転移を引き起こしたのは間違いなくあの『悪霊』の暴走だが、悪霊自身は所詮、負の感情の残滓、空っぽの虚無に過ぎなかった』
タキオンの仮説が、画面上に次々とタイピングされていく。
『アグネスタキオン:だからこそ、悪霊は次元のフィルターに弾き出され、壁を越えられなかった。……そして、行き場を失ったその空っぽのエネルギー体は、偶然にも『魂が抜けて空っぽになっていた』君の肉体へと、スポンと収まるしかなかったのだろうねぇ』
俺はタキオンの考察に唸った。悪霊は、カフェの身体を乗っ取って次元を越えようとしたが、自身の『愛(魂の重さ)』が足りなかったせいで、向こうの世界に取り残された。そして、タキオンの仮説だと、たまたま次元の穴の近くにいた俺の肉体と魂が入れ替わる過程で、俺の抜け殻にちゃっかり居座ってしまったというわけか。
俺は、フリック入力で一つ、最大の矛盾点を指摘した。
『かっふぇ(四月一日):理屈はわかった。……でも、そうなるとなんで俺の体(ただの日雇いのおっさん)は、次元の壁を超えてそっちに行ってるんだ? 俺の身体に、次元を超えるほどの『愛』があったとでも?』
悪霊ですら弾き出される強固な壁を、なんの変哲もない俺の肉体がすり抜けた理由。それこそが、この現象の最大のブラックボックスのはずだ。だが、画面の向こうの天才科学者からの返答は、あまりにも潔く、清々しいものだった。
『アグネスタキオン:さっぱりだね! 君には何の縁も感じられないとも!!』
俺は思わずベッドの上でズッコケそうになり、足元のお友達の影もズシャァッと滑って転ぶジェスチャーをした。
『アグネスタキオン:君の肉体がなぜこちらの世界に引っ張られたのか。そのベクトルがどこから発生したのかは、今の私のデータでは完全に未知数だ。……だが、まぁいいじゃないか! わからないからこそ、科学は面白い! ま、状況のピースは揃ってきている。君たちはそちらの世界で公式の協力を得た。私はこちらの世界で、君の肉体(悪霊入り?)を確保した。あとは、そちらの府中競馬場にある『大欅』と、こちらの学園にある『切り株』の前で落ち合おうじゃないか。きっちり12時間の時を超えてね!』
画面から溢れんばかりの、タキオンの知的好奇心と狂気。だが、その言葉には確かな希望が宿っていた。
こちらの世界と向こうの世界。半日の時差。そして、二つの座標。帰還のための条件は、確かに一つ一つクリアされてきている。社長が言ってくれたように、公式のバックアップを得た今、あの厳重な大欅へのアプローチも決して夢物語ではなくなったのだ。
『かっふぇ(四月一日):……いつになるかわかんねーけどな?』
俺は、わざと憎まれ口を叩くようなメッセージを最後に打ち込み、ウマスタのアプリを閉じた。
「……ふぅっ」
スマホの青白い光が消えると、スイートルームの暗闇が再び視界を覆う。ベッドの上に大の字になって仰向けになると、今日一日の凄まじい疲労感が、波のように全身へと押し寄せてきた。
「……いろいろ、ありすぎただろ。ここ数日」
公式企業との接触。社長へのカミングアウト。声優のOさんとの対面。
そして何より……数千人の観衆の目の前で披露した、あの圧倒的な『ウマ娘の全力疾走』。俺の魂は、この信じられないような非日常の連続に、もはやキャパシティの限界を迎えていた。
『……ひとまず、今日はもう寝ましょう、四月一日さん』
空中に浮かんでいたカフェが、俺の顔を覗き込み、労うように優しい声をかけた。
『本当に……色々と、ありましたから。貴方の魂も、私の身体も、少し休ませてあげてください』
「……ああ。そうさせてもらうわ。……おやすみ、カフェ」
『はい。おやすみなさい』
カフェがふわりと微笑み、そのまま部屋の隅にあるソファのほうへとおぼろげに移動していく。俺が重い瞼を閉じようとした、その時だった。
―――ポン、ポン。
頭頂部にそびえるウマ耳のすぐ横の髪を、誰かに優しく撫でられた。
「……ん?」
薄目を開けると、そこには真っ黒な『お友達』が、ベッドの縁から身を乗り出すようにして、俺の頭を撫でていた。
先ほどの控え室で、Oさんの紙コップを持ち上げたのと同じ現象。物理的な干渉力を持った霊体が、今日一日、慣れない身体で極限のプレッシャーと戦い抜いた俺(かっふぇ)を、労うように、子供をあやすように優しく撫でてくれているのだ。
「……ふはっ。なんだよ。お前も、慰めてくれんのか」
「(ウンウン!)」
言葉は持たないが、その温かな影の感触に、俺の張り詰めていた神経がゆっくりと解れていくのを感じた。
公式の協力を得た。フォロワーも五十万人を突破した。タキオンとの連携も取れている。異世界から迷い込んだ一人のウマ娘と、うだつの上がらない三十路の男が始めた無謀な挑戦は、今や企業をも巻き込む巨大なうねりとなっている。
「……悪霊さんよ。俺らが元に戻るまで、しっかり用務員の仕事、真面目にこなしててくれよな……」
俺は、向こうの世界で律儀に竹箒を振るっているであろう自分の肉体(中身は悪霊)に思いを馳せながら。
ふかふかの最高級ベッドの沈み込むような感触に身を委ね、泥のように深く、静かな眠りへと落ちていった。