京都での怒涛のイベントから数日後。
約束通り、公式プロモーターのS氏が、分厚い書類の束を抱えて俺の――、四月一日のボロアパートへと足を運んできた。
「いやはや、カフェ様のような美しい方が、このような……その、非常に庶民的で歴史を感じるお住まいにいらっしゃるとは、なんとも不思議な感覚ですね」
隙間風の吹く四畳半の畳の上に正座したS氏は、周囲の生活感……まぁ、日雇い労働者のリアルな貧乏臭さと、目の前に座るミステリアスな絶世の美少女との凄まじいギャップに、しきりに冷や汗を拭っていた。
「……彼(四月一日)の、部屋ですから。私はただ、間借りしているだけですよ」
「なるほど、そういう設定……いえ、ご事情でしたね」
俺は「四月一日の代理人」という体裁で、S氏が用意した業務提携の契約書にハンコを押した。これで法的な問題は全てクリア。俺たちは名実ともに、強大な企業のバックアップという最強の盾と矛を手に入れたのだ。
■
そして、その日の夕方。公式企業アカウントから、一つの重大な告知が全世界に向けて発信された。
【お知らせ】
この度、SNS等で話題のインフルエンサー・かっふぇ様(@kaffe_uma)を、弊社公認の『公式マンハッタンカフェ・コスプレイヤー』としてお迎えすることとなりました! 今後、様々な公式イベントや配信でのご活躍にご期待ください!
俺のSNSアカウントも、それに連動する形で引用リポストを行った。
『……改めて。公式アンバサダーを務めさせていただくことになりました、かっふぇ、です。……これからも、どうかよろしくお願いいたしますね』
この公式からの「お墨付き」の破壊力は、凄まじかった。昼間の時点で50万人だったフォロワー数は、企業公式から爆発的に流入してきたファンたちによって恐ろしい勢いで跳ね上がり、夜を迎える頃には、あっさりと『60万人』の壁を突破してしまったのだ。
「……すげぇ。文字通り、桁違いのバフだぜ」
ボロアパートの万年床の上でスマホの画面を見つめながら、俺は乾いた笑いを漏らした。空中に浮かぶ本物のカフェも、その数字の暴力に目を丸くしている。
「(……なぁ、カフェ)」
『なんでしょうか、四月一日さん』
「(この数字の勢い。……鉄は熱いうちに打て、だよな?)」
『……ですね』
俺とカフェは、ニヤリと不敵な笑みを交わした。せっかく手に入れた公式という強力なカード。ここで満足して立ち止まるわけにはいかない。目標の100万人、そして元の世界への帰還を果たすためには、この熱狂の渦の中心で、さらに大きな花火を打ち上げる必要がある。
俺はすぐに、S氏を経由してOさん(マンハッタンカフェ役の声優)へと連絡を取った。打診したのは、『公式の配信ブースを使った、かっふぇとOさんの合同ライブ配信』という特大の企画だ。
『ええっ!? 本当ですか!? やりますやります! 絶対やります!!』
Oさんからの返答は、食い気味の二つ返事だった。企業側(社長とS氏)もこの提案に大賛成し、
「公式ブースどころか、最高の配信機材とスタッフを全投入しましょう!」
とノリノリで応じてくれた。……だが、そこで企業側が発揮した「本気」は、俺の予想を遥かに超える斜め上のものだった。
「……Sさん。これは、一体?」
配信の打ち合わせのために企業の公式スタジオを訪れた俺は、ハンガーラックに恭しく掛けられた『それ』を見て、思わず絶句した。
「ふふふ。今回の合同配信は、かっふぇ様にとって公式としての初仕事ですからね! 弊社が総力を挙げて、特注でご用意させていただきました!」
S氏がドヤ顔で示したのは、黒を基調としながらも、純白のレースとフリルが幾重にもあしらわれた、息を呑むほどに美しいドレス。ウマ娘のファンならば誰もが知っている、マンハッタンカフェのもう一つの勝負服。
「『幽玄薔薇(ゆうげんそうび)』……つまり、カフェ様の『花嫁衣装』です!!」
「…………っ」
俺は、頭を抱えてその場にしゃがみ込みそうになった。
花嫁衣装。ウェディングドレスである。
中身が三十路前の、日雇いで泥にまみれて生きてきたおっさんである俺に。公式のスタジオで、数万人が見守る生配信で、ウェディングドレスを着て微笑めと言うのだ。
「(……地獄か!? 羞恥心で死ぬぞ!!)」
『……っ! 素晴らしいです……! 私の、あの衣装を仕立ててくださるなんて……!』
「(パチパチパチパチッ!!)」
俺の魂が羞恥のあまり悲鳴を上げている横で、空中のカフェは感動のあまり両手を組んで目を輝かせ、お友達に至っては歓喜のサンバを踊り狂っている。
「どうですか、かっふぇ様! 採寸は先日O君が行ったデータを元に完璧に仕上げてあります! これを着て配信に出れば、フォロワーなんて一瞬で跳ね上がりますよ!」
S氏の悪魔の囁き。だが、その言葉は圧倒的な真理だった。100万人を目指す上で、これ以上の特大バズを引き起こす弾(コンテンツ)はない。
「……ええ。とても、素晴らしい出来栄えです」
俺は、内心の葛藤をウマ娘のミステリアスなポーカーフェイスで完全に押し殺し、静かに頷いた。
「……では、ありがたく。袖を通させていただきますね」
「(……やるしかねぇ。次元を越えるための、100万人のためだ。おっさんの尊厳など、とっくの昔に京都のターフに置いてきたんだからな!)」
腹を括った俺は、控え室へと向かった。こうして、本物のウマ娘の肉体と、おっさんの鋼の精神力、そして公式の圧倒的な資金力が結集した『幽玄薔薇の合同配信』という、伝説の夜の幕が上がることとなった。
■
公式スタジオの広々とした専用控え室。
『四月一日さん、そこのレースはもう少し引き上げて。……ええ、コルセットの紐は私が教える手順で丁寧に絞ってくださいね』
「(くっ……なんだこの複雑な構造は。ウェディングドレスってのは、素人が一人で着るもんじゃねぇな……)」
悪戦苦闘しながらも、空中のカフェによる手取り足取り(物理的干渉はできないので口頭だが)のスパルタ指導のもと、俺はどうにか『幽玄薔薇』のドレスに身を包み終えようとしていた。
ちょうどその時、ガチャリと控え室の扉が開いた。
「カフェさん、準備のほうは……あっ」
様子を見に来たOさんが、室内に足を踏み入れた途端に硬直した。そして、純白のレースと漆黒のフリルに包まれた俺の姿を全身に浴び、両手で口を覆い、文字通り膝から崩れ落ちそうになった。
「あ、あああっ……! 可愛いっ! 美しいです!! カフェさん、本物の幽玄薔薇……っ!」
「……ふふっ。ありがとうございます、Oさん」
Oさんが限界オタクのように悶絶しているのを前に、俺は少しだけ困ったように微笑み、鏡の中の自分――、手付かずのまま下ろされている長い黒髪を指差した。
「……ただ、実は。髪の結い方が、どうにもイマイチ分からなくて……」
幽玄薔薇の衣装に合わせるためには、髪を美しいお団子状に纏め上げる必要がある。日雇い時代、寝癖のついた短髪を水道水でバシャバシャと濡らすだけだった俺のスキルでは、いくらカフェの口頭指導があっても、この艶やかな長髪をキャラ通りに完璧に結い上げるのは至難の業だったのだ。
「……Oさん。申し訳ありません。……お願い、できますか?」
俺が少し申し訳なさそうに、小首を傾げて頼むと。Oさんは、フンスッ!と鼻息を荒くして、力強く何度も頷いた。
「もちろんですよ!! 私にお任せください!!」
Oさんは意気揚々と俺の背後に回り、鏡越しに俺の髪へとそっと触れた。
「んんっ……! いや、本当に綺麗だなぁ……。シルクみたいにサラサラで、ずっと触っていたいくらい……」
プロの声優としての顔はどこへやら、完全に推しのお世話係としての恍惚感に満ち溢れながら、Oさんは手慣れた様子で俺の黒髪をすくい上げた。ヘアピンとシュシュを巧みに使い、手際よく、かつ丁寧に、頭頂部のウマ耳の邪魔にならない絶妙な位置へと髪を纏め上げていく。
そして、数分後。鏡の中には、純白と漆黒のドレスを纏い、美しく髪を結い上げた『完璧なマンハッタンカフェ』の姿が完成していた。
『……ええ。完璧ですね』
「(お見事!)」
空中のカフェが満足そうに頷き、お友達も親指を立てるようなシルエットを作って称賛している。
「……素晴らしい。ありがとうございます、Oさん」
俺が、カフェの魂を乗せたような、しっとりとしたウィスパーボイスで礼を言うと、Oさんは「ふひひ」と少しだけだらしない笑みをこぼした。
「いえいえっ! こちらこそ、完全に役得でした! 生きている間に本物のカフェの髪を結えるなんて、声優冥利に尽きますから!」
その熱量と無邪気な様子に、俺たちは、鏡の前で顔を見合わせて少しだけ笑い合った。
現実の次元で出会った、不思議な絆で結ばれた「二人のマンハッタンカフェ」。その共犯関係のような心地よい空気が、控え室を満たしていた。俺は、ふわりと広がるドレスの裾を優雅に持ち上げ、真っ直ぐにOさんを見つめた。
「……では。スタジオに、向かいましょうか。Oさん」
「はい! カフェさん!」
気合十分のOさんの明るい声に応え、俺たちは連れ立って控え室の扉を開け放ち、数万人のファンが待ち受ける公式配信のスタジオへと足を踏み出した。
■
案内された公式の配信スタジオは、流石は大企業と唸らされるほどの最新鋭の機材と、まばゆい照明が完備された本格的な空間だった。
カメラの前に用意された二つの席に、Oさんと並んで腰を下ろす。ウェディングドレスの裾を綺麗に整え、ふと、正面に設置された巨大な確認用モニターへと視線を向けた俺は、そこに表示されている数字を見て小さく目を丸くした。
まだ配信開始まで数分あるという「待機画面」の段階だというのに。同時接続(待機)人数のカウンターが、すでにものすごい勢いで跳ね上がり、『98,000人』という信じられない数値を叩き出していたのだ。
「……おやおや。これは」
俺はウマ娘のミステリアスな表情を崩さずに呟いたが、内心では(10万人!? なんだこのバケモノみたいな数字!?東京ドーム二個分のお客さんが待機してんのか!?)と、日雇いのおっさんの魂が盛大に悲鳴を上げていた。
隣を覗き込んだOさんも、その数字を見るなり「ひゃっ」と素っ頓狂な声を上げた。
「じゅ、十万人!? えええっ!? 普段の公式配信でも、開始前にこんな人数にならないですよ!?」
「(なんだと……公式でもこんなにいかないのか)」
プロの声優ですら慌てふためく異常事態。だが、カメラの裏側でディレクター席に座るS氏は、そのパニックを予想していたかのように、腕を組んで涼しい顔で微笑んでいた。
「ふふ。まあ、今はかっふぇ様が話題沸騰中ですからね」
S氏は手元のタブレットでSNSのトレンド画面を確認しながら、誇らしげに笑う。
「昨日から今日の昼にかけて、京都競馬場での『あの走り』を捉えた動画が、凄まじい勢いで拡散されていますから。それに加えて、今日はかっふぇ様とO君の初のコラボ放送……しかも、サプライズで衣装は『幽玄薔薇』です。ウマ娘のファンならば、何があっても必ず見たいはずですから」
緻密に計算されたプロモーションと、俺(ウマ娘の肉体)が引き起こした奇跡の相乗効果。それが、この10万人という特大の数字に表れているのだ。
『……ふふっ。たくさんの方が、私たちを待ってくれているのですね』
空中のカフェが、嬉しそうにモニターの数字を見つめて微笑む。足元のお友達も、これから始まる大舞台に向けて見えないペンライトを振る準備を始めている。
(……10万人の前で、ウェディングドレスでお披露目か。……よし、やってやるよ。俺のなけなしの男の尊厳と引き換えに、一気に100万人まで駆け上がってやる!)
「……ええ。彼らの期待に、しっかりと応えなければいけませんね」
俺がスッと背筋を伸ばし、幽玄薔薇の美しきマンハッタンカフェとして凛とした微笑みを浮かべた直後。
「――本番、5秒前! 4、3、2……」
スタジオにカウントダウンが響き、カメラの赤いランプが点灯した。
かくして、伝説となる合同ライブ配信が、その幕を開けたのだった。