食後の茶をすすり、ほっと一息ついていた頃。テーブルの上に放り出していたスマートフォンが、ブルリと震えた。
画面を見ると、S氏からのメッセージだった。
『突然で申し訳ありません。今から、府中に来られますか?』
「……府中? 競馬場か」
それはつまり、日本ダービーやジャパンカップが行われる日本競馬の聖地――『東京競馬場』のことだ。幸い、俺の住んでいるこのボロアパートからは電車ですぐの距離にある。
『問題ないですよ。すぐに向かいます』
そう返信すると、俺は再びいつものダウンジャケットとパラシュートパンツに着替え、深くニット帽を被ってアパートを出た。
■
S氏の案内に従い、東京競馬場の関係者専用ゲートを潜り抜ける。京都競馬場も広大だったが、やはりこの府中のスケール感はさらに群を抜いている。そのままエレベーターで上層階へと案内され、重厚な扉を開けられた先は――豪華な調度品が並ぶ、貴賓室(VIPルーム)だった。
「おお。よく来てくれたね、かっふぇ君」
部屋の中央のソファには、見慣れたスーツ姿の社長とS氏。そして……社長の対面の席に、見慣れぬ初老の男性が腰を下ろしていた。白髪を綺麗に撫でつけ、仕立ての良いスーツを着こなしたその男性からは、穏やかながらも只者ではない威厳のようなものが漂っていた。
「……お待たせいたしました。かっふぇ、です」
俺がウマ娘の優雅な所作で深く一礼すると、初老の男性はシワを寄せて人の良さそうな笑みを浮かべた。
「おお。君が噂のかっふぇ君だね。話は聞いとるよ。……ひとまず、こちらへ掛けたまえ」
促されるまま、俺は社長の隣のソファへと腰を下ろした。
「(……誰だ、この人。社長がここまでかしこまってるってことは、相当な大物か?)」
『……只者ではありませんね。競馬関係者であることは間違いなさそうですが』
俺と空中のカフェが警戒しつつ様子を窺っていると、初老の男性はテーブルの上の紅茶を一口飲み、ゆっくりと口を開いた。
「いやぁ、昨日の君の京都でのイベント。……あの走りの映像を見てね、『凄いな』というのが私の第一印象でね」
男性は、まるで孫の運動会を褒めるような、好々爺とした口調で語り始めた。
「ああ、すまない。申し遅れたね。……私は、JRA(日本中央競馬会)の理事長をしている、まぁ、しがない年寄りだよ」
「…………ッ!?」
俺は、ウマ娘のポーカーフェイスの裏側で、三十路の魂を盛大にひっくり返らせていた。
(J、JRAの理事長!? 日本競馬のトップ、一番偉い人じゃねーか!! なんでそんなどデカいボスのところに連れてこられてるんだよ!?)
「(あわわわわっ)」
足元のお友達も、あまりの大物の登場にパニックを起こして右往左往している。
「……お会いできて、光栄です」
俺は必死に動揺を押し殺し、ひんやりとしたウィスパーボイスでどうにか返答した。
「でね?」
理事長は、ふっ、と少しだけ真剣な眼差しになり、横に座る社長へと視線を向けた。
「昨日の映像の君の走り。映像解析の専門家にも見せたんだが……AIでも合成でもない。ワイヤーアクションの細工もない、正真正銘の『本物の映像』だと言われてね。……となると、君は一体何者なのかと。彼(社長)を少しばかり問い詰めてみたんだよ」
社長は、気まずそうに、しかしどこか誇らしげに咳払いをした。
「……そうしたら、彼は何と答えたと思う? 『彼女は、異世界からやってきた本物のウマ娘です』……と言うじゃあないか。いやはや、流石の私も驚いたよ。長年競馬に携わってきたが、まさかそんな漫画のようなオカルト話を聞かされるとはね」
ハハハ、と豪快に笑う理事長。俺は、ただただ困惑するばかりだった。企業の社長ならまだしも、現実の競馬を統括する国家規模の法人のトップが、そんなトンデモ話を信じるとは到底思えなかったからだ。
だが。
理事長の笑い声がピタリと止み、その瞳に、競馬を心から愛する者特有の、純粋で鋭い熱が宿った。
「……しかし。本題に入ろう」
理事長は、身を乗り出して真っ直ぐに俺(かっふぇ)を見つめた。
「君のあの走り……あれは、人間の記録じゃない。100メートルを7秒台で、しかも芝生の上で、あんなコーナリングで駆け抜ける人間など地球上には存在しない。……タイム的に見ても、脚の回転を見ても。あれは完全に『馬』だよね」
理事長の言葉に、社長とS氏も息を呑んで静まり返る。
「トリックがないのなら、事実を受け入れるしかない。……うん。君は本当に、『ウマ娘』なのかもしれない。あのマンハッタンカフェが、現実に顕現した存在なのかもしれないね」
そう言って、理事長はゆっくりと立ち上がり。貴賓室の壁に飾られていた、巨大なパネル――『東京競馬場 コース全体図』を、その太い指で指し示した。
「……そこでだ」
理事長の指先が、緑色に塗られた巨大な楕円形のコースをなぞる。
「……『2400メートル』」
―――それは。
日本競馬における最高の舞台、日本ダービーやジャパンカップが行われる、東京競馬場の『芝2400メートル』コース。
「数百メートルのお遊びじゃない。正面スタンド前からスタートし、広大なターフを一周して、大欅を超え、あの長くて過酷な直線と坂を駆け上がり……ゴール板を駆け抜ける、本格的なレースの距離だ」
理事長は、振り返り、俺に向かって挑戦的な、しかし圧倒的な期待に満ちた笑みを向けた。
「走ってみて、欲しい。……君が本当にあの『マンハッタンカフェ』というのならば。日本最高峰のこの府中の舞台を駆ける姿を、私はぜひ、この目で見てみたいのだよ」
「…………ッ!!」
部屋の空気が、ピンと張り詰めた。日本競馬のトップからの、あまりにもスケールの大きい、そして粋な『証明』の要求。
「(……おいおい。マジかよ。JRAの理事長公認で、府中の本馬場(レースコース)を走らせてくれるってのか!?)」
日雇いのおっさんの魂が震え上がる横で。俺の頭頂部のウマ耳が、ブルリと本能的な武者震いを起こした。
『……っ!!』
空中のカフェが、黄金の瞳を見開き、魅入られたように壁のコース図を見つめている。お友達は、すでに幻のゲートに入ったかのように、深く、深く前傾姿勢を取って静止していた。
2400メートル。
マンハッタンカフェという長距離のステイヤーにとって、それは己の力と『魂』を証明するのに、これ以上ないほど完璧な舞台だった。
■
VIPルームを出て、誰一人いない静まり返った東京競馬場のコンコースを歩きながら俺は、前を歩くJRA理事長の背中を見つめ、ふと疑問に思ったことを口にした。
「……理事長。一つ、お聞きしても?」
「ん? なんだね、かっふぇ君」
理事長が足を止め、穏やかな顔で振り返る。俺は、空中のカフェと少しだけ視線を交わしてから、静かに首を傾げた。
「……なぜ、府中に? ……私の実力を見るのであれば、中山(中山競馬場)のほうが、ちょうど良かったのでは、と思いまして」
マンハッタンカフェというウマ娘は、長距離のスタミナ勝負と、タフなコースを得意としている。中山競馬場の……つまり『菊花賞』や『有馬記念』の舞台のほうが、彼女の真価を証明するには相応しいはずだった。
俺のそのもっともな指摘に、理事長は「ほう」と感心したように目を細めた後、ハハハと笑った。
「いやぁ、それはこちらの物理的な事情でね。あちら(中山)は現在、コースのメンテナンス期間中で、多数の作業員や重機が入ってしまっているんだよ」
「……なるほど。メンテナンス、ですか」
「ああ。だが、こっち(府中)は完全な休養日だ。……今日のこの時間、私と君たち以外は、誰もあの神聖なターフ(芝生)には入らない手筈になっている。君が誰の目も気にせず、自由に全力を出すには、ここが一番だろう?」
日本競馬のトップの権限による、東京競馬場2400メートルコースの完全貸切。
そのあまりにもスケールの大きすぎる「物理的な事情」に、同行している社長とS氏もただただ感嘆のため息を漏らすしかなかった。
■
やがて、重厚なゲートを抜け、俺たちはついにグラウンドレベルへと降り立った。
「…………っ」
目の前に広がったのは、どこまでも続くような、広大で美しい緑の絨毯だった。
東京競馬場。
その果てしないスケール感と、何万人もの歓声の残滓が染み込んだような独特の空気感。冬の澄んだ空の下、手入れの行き届いた芝生が、まるで呼吸をしているかのように風に揺れている。
『……素晴らしい、コースです』
「(ああ……すげぇな。こんな場所を独り占めできるなんて)」
空中のカフェが感嘆の吐息を漏らし、お友達すらも圧倒されたように立ち尽くしている。
「さぁ。では、好きなように走ってくれたまえ。スタート位置も、ペースも、君の自由にしていい」
理事長が、コース全体を手で示しながら鷹揚に頷いた。
これから、この日本最高峰の舞台で、単独でのタイムトライアルを行う。だが、スタート位置へと向かおうとした俺の耳元で、カフェが少しだけ申し訳なさそうに囁いた。
『……四月一日さん』
「(どうした、カフェ)」
『……私(の身体)、こちらの世界に来てから数ヶ月、まともに『走る』という練習を行っていません。……昨日のような短距離ならともかく、2400メートルとなると、本来のタイムからは多少落ちてしまうかと……』
アスリートとしての、純粋な懸念。ウマ娘の身体とはいえ、数ヶ月間まともなトレーニングを積んでいない状態で長距離を走れば、当然ながら全盛期のタイムは出ない。彼女は、自分の本来の力を見せられないことを悔やんでいるようだった。
俺は小さく頷き、その言葉をそのまま理事長へと伝えた。
「……理事長。一つ、ご了承いただきたいのですが」
「ん?」
「私……数ヶ月、まともに走る練習をしていませんから。……タイムは、多少落ちてしまうかと」
言い訳のように聞こえるかもしれない。だが、理事長は全く意に介する様子もなく、むしろ嬉しそうに目を細めて笑った。
「構わないとも! 君の生の走りを見られるだけで、私にとってはこれ以上ないほどの財産だからね。……それに、ブランクがあってなお、人間の常識を打ち破る走りを見せてくれると期待しているよ」
「……ふふっ。ありがとうございます。……では、お手柔らかに」
俺は静かに微笑み、着ていたダボダボのダウンジャケットを脱いでS氏に手渡した。上半身は少し厚手のパーカー一枚、下半身はパラシュートパンツ。走りやすい服装ではある。そして、俺はスタート位置の芝生の手前で立ち止まると、履いていたサンダルを脱ぎ捨てた。
スポッ、スポッ。
冬の冷たい空気の中、俺の青白い素足が露わになる。それを見た理事長が、驚いたように眉をひそめた。
「……裸足、かね?」
理事長からすれば、芝生のコースを裸足で走るなど、正気の沙汰ではないと思えたのだろう。怪我の心配をしているようでもあった。俺は、芝生の感触を足の裏で確かめながら、苦笑交じりに答えた。
「……ええ。この世界には、『蹄鉄(ていてつ)の靴』がない、ものですから。……普通の靴では、私の踏み込みに耐えきれず、すぐに壊れてしまうのです」
「……蹄鉄の靴? そういうものなのか?」
理事長が不思議そうに、横に立つ社長へと問いかけた。社長は深く頷き、ウマ娘という存在の特殊な設定(現実)について説明を始めた。
「あ、はい。ウマ娘たちは、レースの際、人間の陸上用スパイクではなく、ソールの部分に『蹄鉄』が打ち込まれた特注のシューズを履くのです。彼女たちの凄まじい脚力とグリップ力を支えるには、それが必要不可欠でして」
「ほう……なるほど、蹄鉄つきの靴か」
理事長は感心したように顎を撫で、社長に尋ねた。
「ならば、JRAの装蹄師を呼んで、彼女のためにその靴を用意することはできないのかね?」
日本競馬のトップの鶴の一声。本気を出せば、どんな特注品でも作れてしまうだろう。だが、社長は申し訳なさそうに首を横に振った。
「……出来ませんね。何せ、彼女がこの世界に存在する『唯一のウマ娘』ですから。……彼女の足の骨格、筋力、踏み込みの角度に完璧に合わせた蹄鉄シューズを作るためのデータも、ノウハウも、この世界には存在しないのです。中途半端なものを作れば、かえって彼女の足を壊してしまいます」
「……なるほど。唯一無二の存在ゆえの弊害か。……仕方ないね」
理事長は残念そうにため息をつき、諦めたように頷いた。
「では、そのまま素足で走ってくれたまえ。……くれぐれも、怪我には気をつけてね」
「……お気遣い、感謝します」
俺は静かに会釈をし、ついに、東京競馬場の芝コースへと足を踏み入れた。チクチクとした冬の芝生の感触と、その下にある冷たく硬い土の感触。素足の裏から伝わってくる大地の情報が、ウマ娘の脳髄をダイレクトに刺激し、眠っていた闘争本能をゆっくりと目覚めさせていく。
「(……行くぞ、カフェ。お友達)」
『はい。……私たちの呼吸を、一つに』
「(コクコクッ!)」
空中のカフェが俺の背後にフワリと重なり、お友達が俺の足元にピタリと寄り添う。
三つの魂が、完全なシンクロを果たした瞬間。
「……ふぅっ」
俺は、短く鋭い呼気を吐き出しながら、深く、深く腰を落とした。
重心を極限まで下げ、両手を芝生に添える。
頭頂部のウマ耳がピンと前方へ倒れ、風の音と、静寂に包まれた広大なターフの空気の微かな揺らぎを捉える。
黄金の瞳が、遥か彼方、2400メートル先のゴール板へと真っ直ぐに突き刺さった。
■
理事長、社長、S氏。
三人の大人たちが息を呑んで見守る中、日本競馬の聖地における、前代未聞の『素足のウマ娘』によるタイムトライアルが、今まさに始まろうとしていた。