ダンッ!!
静寂に包まれた東京競馬場に、素足が芝生と土を力強く叩き潰す音が響き渡った。
「(……っ!)」
スタートの合図もない、完全な単独走。一歩目を踏み出した瞬間から、俺はウマ娘の身体が持つ異常なトルクに身を委ねた。冷たい冬の風が、鋭い刃物のように頬を切り裂いて後方へと流れていく。
だが、スピードに乗ろうとした矢先、空中のカフェが少しだけ怪訝そうな声を上げた。
『……四月一日さん。私たちの世界のターフとは、少し違いますね』
「(違うって、何がだ?)」
『向こうのコースはもう少し平坦なのですが……。こちらの芝は、あの大きな『馬』の圧倒的な脚力で走る分、随分と深く抉れて、荒れていますね』
カフェの言う通りだった。
一見すると美しい緑の絨毯に見えるコースだが、実際に素足で踏み込んでみると、無数の小さな凸凹や、蹄鉄によって抉り取られた窪みが至る所に隠れていた。
競走馬という体重500キロ近い獣たちが、本気で蹴り上げて作られた過酷な道。それが現実の競馬場のターフなのだ。
「(……確かに、こりゃあ走りにくいな)」
シューズがない『素足』の不利が、ここへ来て明確に牙を剥いた。芝の湿り気と荒れた路面に足を取られ、加速をかける際、わずかに足裏がズルッと滑る感覚がある。
だが、そこはウマ娘の規格外の身体能力だ。俺は研ぎ澄まされた動体視力で、瞬時に芝の『荒れていないクリアな場所』を見極めると、強靭な体幹と反射神経で細かくステップを調整し、滑る足元を強引にねじ伏せてみせた。そして、迎えたコーナーでは。
――ズザザザァッ!!
少しだけ芝を滑らせながらも、一切の減速を許さずにコーナーを高速で抜けていく。直線に入り、足元の状態を完全に掌握した俺は、そこから一気にスピードを上げた。長距離の2400メートルを見据え、スタミナを温存しながらも、1ハロン(約200メートル)あたり15秒台という、素足とは思えない驚異的な巡航ペースで風を切る。
■
その圧倒的な走りを、コース脇から見ていた理事長はと言えば。手元のストップウォッチの数字と、コースを滑るように駆ける漆黒の影を交互に見比べ、完全に言葉を失っていた。
「……これは、夢かね?」
長年、数え切れないほどの名馬たちの走りを見てきたトップが、呆然と呟く。隣に立つ社長が、誇らしげに、しかし彼自身もまたその美しさに魅了されたような声で答えた。
「いいえ。現実ですよ、理事長」
■
1コーナー、2コーナーを息の乱れ一つなくクリアし、俺は広大なバックストレッチ(向こう正面)へと突入した。
直線に入ったことでさらに加速すると、視界のずっと先、コースの奥にそびえ立つ巨大な一本の木が目に入ってきた。
東京競馬場の名物であり、数々のオカルトな伝説を残す御神木。
『……大欅(おおけやき)。あれですね』
カフェが、空中でその木を見据えながら呟く。俺は、規則正しい呼吸を繰り返しつつ、内心で頷いた。
「(ああ、そうだ。あれが俺たちの最終目的地だな。……今日はまぁ、見るだけか)」
帰還のための、そして、お互いが元に戻るためのポータルとなるであろう、その巨大な欅の木。そこへ向かって、俺はさらにストライドを伸ばし、3コーナーへと突入しようとした。
――その、瞬間だった。
「…………え?」
唐突に。
冬の陽光に照らされていたはずの視界が、真っ黒なインクをぶち撒けたように、完全に『暗転』した。
「(なんだ……!?)」
足裏から伝わっていた芝生の感触が消える。頬を切る風の音も、自分の心臓の音すらも聞こえない、絶対的な無音と暗闇の空間。先ほどまで俺の隣を飛んでいたカフェの気配がない。足元をちょこまかと走っていたお友達の影の気配も、完全に消失していた。五感がバグったのかと目を凝らした次の瞬間。
ヌチャリ、と。
「……っ!?」
暗闇の底から、氷のように冷たく、粘り気のある『何か』が這い上がり、俺の足首をガッチリと掴んだ。
一つや二つではない。十、二十……無数の手。青白く、腐臭すら漂ってきそうな生気のない『手』の群れが、俺の両足にねっとりと絡みつき、暗闇の底へと引きずり込もうとしていた。
「おいおい、なんだこりゃあ?」
俺は、暗闇の中で舌打ちをする。なぜなら、恐怖よりも先に、猛烈な『面倒臭さ』と呆れが勝っていたからに他ならない。ここ数か月、お友達やカフェと過ごしてきたんだ。このぐらいは日常みたいなもんだしな。
「(……もしかして、これがタキオンの言ってた『悪霊』ってやつの残滓か? 大欅に巣食ってるっていう……質の悪いこって)」
俺は足を振ってその不気味な手首の群れを振りほどこうとしたが、ヒル吸盤のようにピタリと張り付いて離れない。それどころか、さらに上のふくらはぎへと這い上がってこようとする。
普通の少女なら悲鳴を上げて泣き叫ぶシチュエーションだろう。だが、あいにく中身は、日雇い現場で理不尽なトラブルを嫌というほど経験してきた、三十路、男の魂である。
「足が掴まれてる、か。……ま、でも、相手が手なら」
俺は、足首を掴まれたまま、暗闇の中で深くしゃがみ込んだ。
「手でお相手してやるのが、礼儀ってもんだろ?」
俺は、自分の足首に絡みついている無数の手の一つ――一際強く引きずり込もうとしている、冷たい手首を、ウマ娘の強靭な握力で『ガシッ』と逆に掴み返した。
ビクッ!?と、掴まれた手が明らかな動揺を見せる。
「そらよっ!!」
俺は、足を踏ん張り、掴んだその手首を、暗闇の底から強引に「大根でも引き抜くように」力任せに引っ張り上げた。
『ギュアアアアアアアアアアアッ!?』
鼓膜を劈くような、この世のものとは思えない醜悪な悲鳴が暗闇に響き渡る。
「おいおい、自分が引きずり込もうとしたくせに、逆に引き上げられようとすると被害者ヅラかい? いいご身分だな」
俺が鼻で笑いながらさらに容赦無く引っ張り上げると、相手は「こりゃあ遺憾(ヤバい)!」とばかりに、俺の足首から一斉に手を離して、元の暗闇の底へと逃げ帰ろうとし始めた。
だが、現場のオッサンは、一度掴んだ胸ぐら(手首)はそう簡単には離さない。
「逃がすかよ。いいから来いよオラァッ!!」
俺は全身のバネを使い、背筋力と腕力に物を言わせて、その見えない腕を一気に暗闇の底から引き抜いた。
ブチィィィンッ!!!
何か、太い根っこのようなものが千切れる嫌な感触と共に。
パァァァンッ!!と、破裂音のような風切り音が鳴り、俺の視界に、再び眩い冬の陽光が突き刺さった。
「……っ!」
瞬きをする。緑の芝生。風の音。遠くに見えるスタンドの巨大な屋根。視界は完全に元の東京競馬場へと戻っており、俺は相変わらず15秒台のペースを維持したまま、風のようにターフを駆けていた。
横を通り過ぎる景色を確認する。
「(……すでに、大欅を超えてる……?)」
どうやら、あの暗闇の中で悪霊の手と綱引きをしていた時間は、現実世界ではほんの数秒、あるいはゼロ秒の出来事だったらしい。俺は、3コーナーのカーブを抜けながら、自分が今まさに、あの『大欅』を通り過ぎたところであることを理解したのだった。
■
大欅を抜け、第4コーナーを回った先。東京競馬場の名物である、長く過酷な直線と上り坂が眼前に広がった。
「(……ラストッ!)」
俺は、残していた脚のエンジンを完全に全開にした。
ガクンッ、と。重心をさらに一段階落とし、上半身を地面と平行になるほど大きく前に倒す。マンハッタンカフェの代名詞とも言える、這うような独特のフォーム。そこから繰り出される大股のストライドと、力強く空気を掻き切る腕の振り。素足が芝を捉え、土を抉るたびに、爆発的な推進力が生まれる。
冬の風の壁を突き破りながら、俺自身の感覚がはっきりと告げていた。この最後の1ハロン(200メートル)のタイムは、間違いなく『11秒台』を叩き出していると。そして、そのまま一切の失速を見せることなく。俺は、大観衆の歓声の代わりに静寂が包み込むゴール板を、トップスピードで駆け抜けた。
ズザァァァァッ……!
長い直線の余白を使い、ゆっくりとペースを落として芝生の上に静止する。ウマ娘の強靭な肺が、シュコー、シュコーと静かに熱い呼気を吐き出していた。乱れた呼吸を整えながら、コース脇に用意されたパイプ椅子でタイムトライアルを見守っていたJRA理事長の方へと視線を向ける。
理事長は、手元のストップウォッチを両手で握りしめたまま、大きく目を見開いて固まっていた。だが、その口角は、ひくひくと歓喜に震えるように上がりきっている。
数秒の、完全な静寂。
やがて、理事長はパイプ椅子からゆっくりと立ち上がり、パチ……パチ……と、一人で拍手を始めた。それが次第に大きく、熱を帯びたものに変わっていく。
「素晴らしい……! ああ、おお! 君は確かに馬だ! いや、ウマ娘だ!!」
理事長は、初老の紳士としての威厳をかなぐり捨て、まるで名馬の伝説のレースを目の当たりにした競馬少年のように目を輝かせて大興奮していた。
「信じられん、素足で、しかもこの荒れた府中の芝で……! ふはは、これは凄い! 私の目に狂いはなかった!」
その熱狂の横で、社長がスッと一歩前に出て、静かに口を開いた。
「……では、理事長」
「ああ! もちろんだとも!」
社長の言葉を食い気味に遮り、理事長は鷹揚に、そして誇らしげに頷いた。
「平日限定にはなるが、彼女のこのコースの使用を特別に認めよう! こんな国宝級の走りを鈍らせるわけにはいかないからね!」
そのやり取りを聞いて、俺(かっふぇ)は全てを理解した。
「(……なるほど。金杯イベントの時に、俺が頼んだ『思い切り練習できる場所』……社長の粋な計らいだったわけね)」
ただの私有地のグラウンドではなく、最高の公式スポンサーのコネクションを使って、日本最高峰の『東京競馬場の本馬場』を練習場として貸し切るというとんでもない手回し。大企業のトップの規格外の実行力に、俺は呆れを通り越して深く感謝した。
『……ふふっ。これで、気兼ねなく練習ができる、のですかね』
俺の隣にフワリと降り立ったカフェも、全てを察して納得したように、嬉しそうな笑みを浮かべている。これで、元の世界へ帰るための『大欅』へのアプローチも、堂々と、誰にも怪しまれずに行うことができる。
「(ああ、完璧だ。……ん?)」
ふと、足元に視線を落とすと。
お友達が、練習場所の確保にウンウンと嬉しそうに頷きながらも。「……ん?」とばかりに、見えない首をコテンと傾げて、俺(かっふぇ)の『右手のひら』をジッと覗き込んでいた。
言われてみれば、右手に微かな違和感がある。先ほど、大欅のそばの暗転した空間で、悪霊の無数の手を強引に掴んで引き抜いた方の手だ。
俺は、不思議に思いながら、固く握りしめたままだった自分の右手のひらをゆっくりと開き、視線を落とした。