俺は、ゆっくりと右手のひらを開いた。そこに握られていたのは、泥と芝生にまみれた、古びた『金属片』だった。
「……うん? なんだこれ」
湾曲した形をした、錆びついた鉄の欠片。長さは数センチほどだが、ずっしりとした重みがある。
『……蹄鉄の、破片ですね』
俺の手元を覗き込んだカフェが、少しだけ驚いたような声で言った。
「蹄鉄の? どうしてこんなものが……」
俺は、先ほど3コーナーの『大欅』を通り過ぎた瞬間に起きた、奇妙な出来事を思い出した。
「……もしかしたら関係あるかもしれないんだけど」
「何がですか?」
「実はな。さっき、大欅の近くを走った時、なんか不思議な感じになってさ」
視界が暗転したこと。無数の気味が悪い手が足首を掴んできたこと。そして、俺がそのうちの一本を強引に掴んで、暗闇から引きちぎるように引っ張り上げたこと。その話を聞いたカフェは、黄金の瞳を少しだけ鋭く細め、考え込むように顎に手を当てた。
『……悪霊……の、一端ですかね。あるいは、あの大欅に巣食う、別の何かか……』
「あの用務員(悪霊)とは別のやつなのか? まぁ、引っ張り上げたら、残ったのはこの蹄鉄の破片だけだったんだがな」
掌の上の金属片を観察してみるが、ただの錆びた鉄くずにしか見えない。呪いのオーラやオカルト的な力が宿っているような感覚は、今のところ全く感じられなかった。
「まぁ、何かの手がかりになるかもしれねぇし、持っとくか」
俺は、その蹄鉄の破片をパラシュートパンツの深いポケットへと無造作に放り込み、待っている理事長と社長たちの元へと歩き出した。
■
「いやはや。改めて、日本競馬の聖地へようこそ。歓迎するよ、マンハッタンカフェ殿」
俺が戻ると、JRA理事長は満面の笑みで、まるで国賓でも迎えるかのように恭しく手を差し出してきた。俺はその手をウマ娘のたおやかな手でそっと握り返し、静かに一礼した。
「とはいえ、君がここで自由に練習できるのは、週に二日程度になってしまうがね。馬たちのためのメンテナンスや芝の育成があるから、毎日というわけにはいかないんだ。そこは了承していただきたい」
申し訳なさそうに補足する理事長に対し、俺は首を横に振って微笑んだ。
「……構いません。週に二日も、この素晴らしいコースを使わせていただけるだけで……十分すぎるほど、ですよ」
「そう言ってもらえると助かる。……君の走りは、日本競馬界にとっても素晴らしい刺激になるだろう。これからも、大いに期待しているよ! それと、早く元に戻れると良いね。確か、四月一日君という人物も近くにいるのだろう?」
「……御存じでしたか。はい、その通り、です」
「社長から聞いているとも。――うむ。苦労するだろうが、頑張り給え」
こうして、公式スポンサーの力と、JRA理事長というこれ以上ないほどの後ろ盾を得て、俺たちは、ついに『府中の大欅』へと定期的に接触できる、最強の練習環境を手に入れたのだった。
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東京競馬場での常識外れのタイムトライアルを終え、夕暮れ時のボロアパートへと帰還した俺は、四畳半のちゃぶ台の上に、パラシュートパンツのポケットから取り出したあの『金属片』をコトリと置いた。
「……確かに、釘を打つための穴もあるし、表面もかなりすり減ってるな。間違いなく、使い込まれた蹄鉄の破片だ」
錆びつき、泥にまみれたその欠片を、空中に浮かぶカフェと、足元からちゃぶ台へと這い上がってきたお友達の影が、三人がかりでジッと覗き込む。
『……ええ。ですが、今のところ、何か特別な力や呪いのようなものは感じませんね』
お友達も、蹄鉄の周りをぐるぐると回りながら、特に危険な気配はないとばかりに見えない首を横に振っている。
俺は腕を組み、ふうと息を吐き出した。
『それにしても。……大欅のそばを通った際に、意識が暗転……したのですよね?』
「ああ、そうだ。3コーナーを曲がろうとした瞬間、急にお前ら二人がいなくなってさ。コースも無くなって、完全な真っ暗闇だ。……で、足元をガッチリ、無数の冷たい手に掴まれてね。いや、流石にちょっとびっくりしたぜ」
俺が当時の状況を説明すると、カフェは呆れたように、しかしどこかおかしそうに黄金の瞳を細めて苦笑した。
『……その絶望的な状況で。自分を引きずり込もうと掴んできた手を逆に掴み返して、あまつさえ暗闇から物理的に引っこ抜くという四月一日さんの行動も、大概『非常識』ですけれどね……』
「ははっ、日雇い現場じゃあ、やられたらやり返さないと舐められるからな。オバケ相手でも基本は同じだろ」
俺が肩をすくめて笑い飛ばした、その時だった。
俺たちの会話を聞きながら、ちゃぶ台の上の蹄鉄の破片に興味を惹かれたのか、お友達がスルスルと黒いシルエットを伸ばし、そーっと、恐る恐るその金属片に触れた。
――ピトッ。
「ん?」
『……?』
次の瞬間。
ぼうっ、と。錆びついた蹄鉄の破片から、まるでドライアイスの煙のような『黒い靄(もや)』が静かに立ち上り始めた。
「……おい、なんだこれ?」
俺が身構え、カフェもスッと表情を険しくする。だが、その黒い靄からは、先ほどの暗闇で感じたようなおぞましい怨念や、腐臭のようなものは一切感じられなかった。
靄は、ちゃぶ台の上でフワフワと形を変え……やがて、一つの明確な『シルエット』へと姿を定めた。
「(……ピョコッ)」
それは、カフェに憑いている『お友達』とよく似た、真っ黒な影法師。しかし、お友達よりも少しだけ輪郭がシャープで、頭の部分に小さな耳のような突起がある……いわば、『お友達(亜種)』とでも呼ぶべき、新たな謎の影だった。
そいつは、ちゃぶ台の上でキョロキョロと辺りを見回した後、目の前にいたお友達の影とピッタリ視線(?)を合わせ。
「(……ジィーッ)」
「(……ジィーッ)」
二つの影は、互いの顔を覗き込むようにして、ピタリと動きを止めた。
■
ちゃぶ台の上で向かい合う二つの影。しばらく様子を見ていたが、今しがた蹄鉄の破片から現れたばかりの『亜種』の影からは、殺気や敵意のようなものは一切感じられなかった。
俺は少しだけ警戒を解き、試しに右手をヒョイと上げてみた。すると、亜種の影は鏡合わせのように、スッと左手を上げた。俺が頭を掻けば、相手も同じように頭を掻く。元の『お友達』に似ているようで、微妙に似ていない。なんとも不思議な影法師だ。
「……お前、あの府中の大欅にいた悪霊なんか?」
俺が胡座をかいたまま問いかけると。亜種の影は、少しだけ慌てたようにブルンブルンと首を横に振った。
「(ちがうちがう!)」と言わんばかりの、やけに人間臭いリアクションだ。
「カフェ、こいつがなんか言ってる事、わからんか?」
『流石に……私のお友達の言っていることは、長年の付き合いでなんとなく判りますが……』
空中のカフェがスッと高度を下げ、ちゃぶ台の上の亜種をジッと覗き込んだ。亜種は、絶世の美少女の顔が近づいてきたことに緊張したのか、直立不動のまま微動だにしない。しばらく沈黙が流れた後、カフェは静かに首を横に振った。
『……駄目、ですね。言葉を持たないのは同じですが、思考の波長が全く違います。何を考えているのか、読み取れません。……お友達だちの方は、いかがでしょうか?』
「(フルフルフルッ)」
カフェに尋ねられた『お友達(オリジナル)』の方も、お手上げだというように両手を広げて首を激しく横に振った。同族(?)であっても、意思疎通はできないらしい。俺は顎を撫でながら、改めてちゃぶ台の隅で大人しくしている亜種を見下ろした。
「……でも、よく考えたらお前、悪霊の一味じゃん」
「(ビクッ!?)」
「さっき府中のコースで、俺の足首をガッチリ掴んで、暗闇の底に引きずり込もうとしてたよな? 立派な敵対行為だと思うんだが?」
俺がジト目でド正論を突きつけると。亜種の影は「ひえっ」という声が聞こえてきそうなほど盛大にビクッと肩を跳ねさせ、ススス……とちゃぶ台の端の方へ後ずさり、元のサイズの半分くらいにシュンと縮こまってしまった。
「(いじけるなよ……なんか、小動物みたいで可愛いな)」
俺が思わず毒気を抜かれて苦笑すると、すかさずカフェから厳しい声が飛んできた。
『油断大敵ですよ、四月一日さん。小さく見えますが、元は私たちを害そうとした存在の一部かもしれないのですから』
「(ウンウンッ!!)」
カフェの忠告に、オリジナルのお友達も腕を組んで激しく首を縦に振り、「そうだそうだ、騙されるな!」とばかりに亜種を指差して威嚇(?)している。
「わかってるって。まぁ、悪さをするようなら、また力任せに引っこ抜いて外に放り投げるだけさ」
俺は笑いながら、パラシュートパンツのポケットに蹄鉄の破片をしまい直した。
目標のフォロワー100万人まで、あと少し。大欅へのアプローチ権も獲得し、いよいよ元の世界への帰還というゴールが見え始めた矢先。
この四畳半のボロアパートに、美少女の幽霊と、陽気な影法師に加えて……よくわからない『亜種の影』という、新たな不思議な同居人が、もう一人増えてしまったのだった。