すっかり夜も更けた、四月一日のボロアパート。隙間風がピューピューと吹き込む窓辺を背にして、俺はカメラを三脚にセットしていた。
確認がてら覗いた画面に表示されたSNSのアカウント画面を確認すると、フォロワー数のカウンターは『851,204』という数字を叩き出していた。
「(……85万、か。昨日から今日にかけての伸び、本当にエグいな)」
京都での公式ライブ配信、そして『かっふぇメドレー』の切り抜き動画効果だろう。通知が鳴り止む気配は全くない。
「……この調子なら、目標の100万人。あと数日のうちに到達しそうだな。ま、油断はできないけどさ」
『ええ。そう思うと、本当に……あっという間でしたね、四月一日さん』
空中に浮かぶ本物のカフェが、感慨深げに微笑む。足元では、オリジナルのお友達と、今日新しく加わった『亜種の影』が、二匹(?)で仲良く手をつなぐようなシルエットを作ってユラユラと揺れていた。
「よし。じゃあ、今日もいっちょやりますか」
俺は、いつもの漆黒の『勝負服』の襟を正し、少しだけ咳払いをして喉の調子を整えた。そして、画面の『配信開始』ボタンをタップする。
途端に、待機していた数万人の視聴者が一気に雪崩れ込んできた。画面の向こう側にいる彼らに向けて、俺は長い睫毛を伏せ、少しだけ首を傾げて、静かに、ひんやりとしたハスキーなウィスパーボイスを紡ぎ出した。
「……どうも。かっふぇ、です」
その一言だけで、スマートフォンの画面右端を流れるコメント欄が、凄まじい勢いで滝のように流れ始めた。
『きたああああああああ!』
『待ってた!!』
『うおおおかっふぇさんこんばんは!』
『実家のような安心感』
『ボロ部屋配信たすかる』
古参のファンたちからの温かい(?)歓迎のコメントが並ぶ。しかし、昨日今日の『公式配信』や切り抜き動画から俺を知って、初めてこの個人配信を見に来た新規層のコメントは、見事に困惑で染まっていた。
『え、背景どうしたのこれ?』
『普段こんな感じなの!? 昨日のキラキラしたスタジオは!?』
『公式アンバサダーなのに四畳半ww』
『花嫁衣装は……?』
『かっふぇちゃん貧乏なの!? 俺がスパチャするから口座教えて!!』
「……ふふっ」
俺は、新規層の激しい困惑っぷりに思わず苦笑いをこぼした。
「……花嫁衣装(幽玄薔薇)は。……企業様からの、お借り物、ですからね。……私の普段の配信は、いつも、こんな感じですよ。……それにここは、とても落ち着きますから」
俺がそう言って、少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らすと、コメント欄は、
『ギャップ萌えすぎる』
『ボロ部屋に住む絶世の美少女(ウマ娘)とか属性過多』
と、さらに大盛り上がりを見せた。
「……さて。今日の配信ですが」
俺は、ちゃぶ台の上に置かれた、年季の入った手動のコーヒーミルと、保存瓶に入ったコーヒー豆をカメラの前に引き寄せた。
「……久しぶりに。ただ、珈琲を、淹れます」
『おおお! きたきた!』
『待ってました!』
『深夜の珈琲ASMR枠だ!』
『イヤホン推奨!! みんなイヤホンつけろ!!』
『全裸待機』
コメント欄に『ASMR』の文字が躍るのを見て、俺は小さく首を横に振った。
「……ASMRでは、ないのですけれどね。……まあ、皆様がリラックスできるのなら、嬉しいです」
そう囁きながら、俺は保存瓶の蓋を開けた。今日は、少し深煎りの、コクと苦味が強いマンデリンだ。スプーンですくった豆を、ミルの上部にあるホッパーへとサラサラと流し込む。豆が硬い音を立ててぶつかり合う音が、静かな四畳半に響く。
『豆の音がすでに心地いい』
『画角が完璧すぎる』
『所作が本当に丁寧で綺麗だよね……』
『見てるだけで浄化される』
「……それでは。挽きますね」
俺はミルの本体を左手でしっかりと押さえ、右手でハンドルを握り、ゆっくりと、一定のリズムで回し始めた。
――コリ……コリ……コリリ……。
硬いコーヒー豆が、金属の刃によって細かく砕かれていく、小気味良い重低音。ハンドルを回すたびに、勝負服のタイトな袖が微かに擦れる衣擦れの音。そして、ウマ娘の端正な鼻から、スゥ、フゥ……と静かに漏れる、規則正しい呼吸音。
スマートフォンのマイクが、それらの微細な環境音を完璧に拾い上げ、数万人の視聴者の鼓膜へとダイレクトに届けていく。
「……いい香り、ですね」
『……ええ。とても、深く、良い香りですね』
挽きたての豆から立ち昇る、芳醇でビターな香りが、四畳半の狭い空間を一気に満たしていく。空中のカフェがうっとりとしたように目を閉じ、足元の『お友達』と『亜種』も、見えない鼻をヒクヒクとさせて香りを堪能しているようだった。
――コリ……コリ……コリ……。
『あかん、音良すぎて眠くなってきた……』
『かっふぇさんの息遣いヤバい』
『この音だけでご飯三杯いける』
『作業用BGMとして最高すぎる』
『ずっと見てられるわこれ』
『顔が良すぎて画面から珈琲の匂いしてきた(錯乱)』
『そーいえば打ち上げの焼肉、かっふぇさんまた食べまくったの?』
『スンゲー綺麗ですけどなんか手入れしてるんすか?』
静寂の中で豆を挽き続けながら、俺は流れてくるコメントに、ポツリ、ポツリと答えていく。
「……打ち上げの、焼肉ですか? ……ふふっ。ご想像に、お任せします」
「……肌のお手入れ……? いえ。何も、していませんよ。……お風呂上がりに、化粧水を、少しつけるくらいです」
『わあ絶対5人前は食ってそう』
『5人前で済んでれば御の字じゃね?本当に大食いだしかっふぇさん』
『ウソだろあの美肌でノーメイク!?』
『人外の遺伝子羨ましすぎる』
『同じ化粧水買いたいから銘柄教えてください!』
『スンゲー勢いで走ってましたけど、なんかコツとかあるんですか?ボク陸上なので参考にしたいです!』
「……走る時の、コツ……ですか?」
府中の2400メートルについて言及するわけにはいかないので、京都でのダッシュについての質問だと解釈して答える。俺は、豆を挽く手を止めることなく、少しだけ伏し目がちに呟いた。
「……コツなど、ありません。ただ……大地の声を聞いて。風と、一つになるだけ、です」
(※実際は「ウマ娘の身体の異常なバネに身を任せて力任せに蹴り飛ばしているだけ」である)
『大地の声……!』
『名言きた!』
『流石はマンハッタンカフェ』
『凡人には理解できない境地だ』
『かっふぇさん絶対本物のウマ娘だろ』
『本当ねー。陸上やってたとしても、あの前傾姿勢であの歩幅は有り得ないって』
「ふふ。……ご想像にお任せします。さて、ちょうど、挽き終わりました」
ハンドルの手応えがフッと軽くなったのを確認し、俺はミルの中の粉を、ペーパーフィルターをセットしたドリッパーへと静かに移した。平らにならした粉の表面は、まるで美しい黒土のようだ。
細口のドリップポットを手に取り、沸かしておいたお湯を、中心からそっと注いでいく。
――トトトト……。
お湯が粉に触れた瞬間。
シュワァァ……という微かな音と共に、新鮮なコーヒーの粉が、まるで生き物のようにふっくらとドーム状に膨らみ始めた。
『うおおおドームできてる!』
『めっちゃ新鮮な豆じゃん!』
『淹れ方ガチ勢だ』
『お湯の注ぎ方がプロのそれ』
『深夜に見る珈琲ドリップ、テロすぎる』
「……ここから、少しだけ。蒸らします」
数十秒の沈黙。
コーヒーの粉が呼吸をするようにガスを放出し、部屋中に最も濃密な香りが充満する。そして再び、細いお湯の線を、のの字を描くようにゆっくりと、ゆっくりと注いでいく。
ポタッ、ポタッ、ツー……。
サーバーの底に、琥珀色の液体が静かに滴り落ちていく。
その滴る音と、静寂に包まれた部屋の空気感。そして、真剣な眼差しでお湯を注ぎ続ける絶世の美少女の横顔。視聴者数はすでに8万人を超えているというのに、コメント欄の流れる速度は少しだけ落ち着き、誰もがその『静謐な時間』に魅入られているようだった。
「……入りました」
最後の一滴が落ちる前にドリッパーを外し、俺はサーバーを軽く揺らして珈琲の濃度を均一にする。そして、漆黒の勝負服によく似合う、シンプルなマグカップに、熱い珈琲をトクトクと注いだ。
『美味しそう……』
『画面越しに匂いが伝わってくる』
『最高のASMRだった』
『かっふぇさん、お疲れ様』
「……いただきます」
俺は、マグカップを両手で包み込むように持ち、少しだけ口を近づけて、ふうっと息を吹きかけた。そして、長い睫毛を伏せ、琥珀色の液体を一口、ゆっくりと含む。
「……んっ」
マンデリン特有の、ガツンとくる深い苦味。その奥に隠れた、微かな甘みとコク。極上の液体が、疲れた身体の隅々にまで染み渡っていく。
「(……美味い。やっぱり、自分で挽いた豆は格別だな)」
『……ええ。とても、美味しいです』
俺と、空中のカフェが、同時に感嘆の吐息を漏らす。そして、俺はカメラに向かって、今日一番の、柔らかく、幸せそうな笑みを浮かべた。
「……美味しい、です。……とても」
その、ウィスパーボイスでの破壊力抜群の笑顔と囁きに。
『あああああああああああ』
『笑顔たすかる』
『鼓膜溶けた』
『俺の心も今ドリップされた』
『100万円スパチャしたいのに投げる場所がない!!』
『最高かよ……一生ついていくわ』
再び、コメント欄が狂喜乱舞の大爆発を起こした。
「……ふふっ。皆様、本日は夜遅くまで、お付き合いいただき……ありがとうございました」
俺はマグカップを置き、カメラに向かって上品に頭を下げた。
「……フォロワーの数も。いよいよ、あの大きな目標まで……あと少しのところまで、来ました」
俺の視線の先には、100万人という大台と、府中の『大欅』への扉が見えている。
「……これもすべて、皆様の応援の、おかげです。……もう少しだけ。私の走る軌跡に、付き合ってくださいね。……それでは。おやすみなさい」
『おやすみなさい!』
『100万人まで絶対見届けるぞ!』
『かっふぇさん大好き!』
『ゆっくり休んでねー!』
温かいコメントの濁流を見送りながら、俺は静かに配信の終了ボタンを押した。
「……ふぅ。終わった終わった」
カメラの電源が切れた瞬間、俺は少しだけ肩の力を抜いて、大きく背伸びをした。スマホの画面を確認すると、この一時間のゲリラ配信だけで、フォロワー数はさらに数万人上乗せされ、すでに『88万人』を突破していた。
「(……このペースなら、明後日には100万人いくかもな)」
俺が残りの珈琲を飲み干しながら呟くと、空中のカフェが、少しだけ緊張したような、それでいて希望に満ちた黄金の瞳で俺を見つめ返した。
『……はい。いよいよ、ですね。四月一日さん』
足元では、お友達と亜種の影が、珈琲の香りに包まれながら楽しそうにじゃれ合っている。四畳半のボロアパートの夜は、近づきつつある『決戦』の気配を静かに孕みながら、ゆっくりと更けていったのだった。
■
配信機材を片付け終えた四畳半で、ちゃぶ台の周りでじゃれ合う二つの影を改めてじっくりと観察してみる。
……よく見れば、カフェのオリジナルのお友達が純度の高い「真っ黒」なのに対し、蹄鉄の破片から出てきた亜種の方には、うっすらと「青み」がかかっていた。
「なるほど。お前、よく見たら少し青いな。……じゃあ、『青影(あおかげ)』とでも呼ぶか」
俺が適当に名付けると、青い影は「(パァッ!)」と表情を輝かせるような仕草をして、嬉しそうにピョンピョンと跳ねて頷いた。
「で、お友達よ」
俺は、すっかり青影の保護者ヅラをしているオリジナルのお友達に向かって問いかけた。
「結局、こいつは何なんだ? 悪霊の一部ってことでいいのか?」
お友達は、腕を組んでウンウンと頷きながら、空中のカフェに向かって何事か身振り手振りで熱心に伝え始めた。それを受け取ったカフェは、少しだけ眉を寄せ、ひどく困惑したような表情を浮かべた。
『……解釈としては、その。……愛、ですかね』
「……なんだそりゃ」
悪霊から生まれた影の正体が「愛」。オカルトにも程がある。俺が顔をしかめると、カフェは腕を組んでさらに言葉を継いだ。
『愛憎、と言うでしょう。この青影も、元々はあの府中の暗闇に満ちていた、強烈な憎しみや執着の一部だったようですが……』
「ですが?」
『四月一日さんに力任せに引き抜かれたことによって、その感情のベクトルが反転した、とか。ほら、昨日のチャットでも、タキオンさんが仰っていました。ネオユニヴァースさん曰く、『愛だけが、次元の壁を超える』と。とは、いえ……。このようなオカルト現象は、私も初めてですね』
カフェが呆れたようにため息をつくと、ちゃぶ台の上のお友達が「(その通り!)」とばかりに深く頷き、隣の青影も一緒になってウンウンと首を縦に振った。
「引っこ抜かれた物理的なショックで、憎しみが愛にバグったってことか? チョロすぎないか悪霊さんよ」
俺が半ば呆れ気味に見下ろしていると。不意に、青影がちゃぶ台からスルスルと伸び上がり、胡座をかいていた俺の胴体へ、ギュッと力強く抱き着いてきた。
「……おいおい、なんだよ」
冷たい影のはずなのに、そこには確かな質量と、どこか大型犬がじゃれついてくるような妙な懐き具合があった。鬱陶しいような、でも決して悪い気はしないような、不思議な感触だ。
俺が困惑しながら青影の頭(のような部分)を軽くポンポンと叩くと、それを見たカフェが、フッと肩の力を抜いて苦笑した。
『……ふふっ。どうやら。ひどく好かれているようですね、四月一日さん』
ウマ娘の魂と、俺自身の肉体に入った用務員(悪霊)、そして憎しみが反転した青い影。次元を越えるためのピースが少しずつ形を変えて集まり出す中、ボロアパートの狭い部屋には、奇妙で賑やかな同居人たちとの平穏な時間が静かに流れていた。