俺の胴体にギュッと抱き着いたまま、スリスリと甘えるように擦り寄ってくる青影。オリジナルのお友達がカフェの魂に付き従っているように、この青影は完全に俺――『四月一日』という人間に懐いてしまっていた。
「……あのな。外見は絶世の美少女だが、俺の中身は万年金欠の、三十路のおっさんだぞ?」
俺がジト目でそう指摘すると。
青影は「(それがいい! それが最高!)」と言わんばかりに、ブンブンと激しく首を縦に振って、さらに強く抱き着いてきた。どうやら俺の中身を完全に理解した上で、この枯れたオッサン魂を慕っているらしい。なんというニッチな需要だ。
『……ふふっ。もしかしたら。あの暗闇から力任せに引き抜かれたことに対する、恩、なのでは?』
空中のカフェが、口元に手を当てて楽しそうに微笑んだ。その言葉に、青影は「(その通り!)」とばかりに、パァッと両手を上げて何度も頷く。
「……恩ねぇ?」
俺は苦笑しながら、青影の冷たくも柔らかい頭を撫でてやった。悪霊の一部だったとはいえ、こうして懐かれると悪い気はしない。
そして、そのまま片手でスマートフォンを取り出し、ウマスタのアプリを開いた。この『大欅での暗転現象』と『蹄鉄の破片』、そして『青影の誕生』という一連のトンデモ現象について、向こうの世界にいるアグネスタキオンへとメッセージを送信するためだ。
かいつまんだ内容を送信してから数分後。天才科学者からの返信は、オカルト現象に対する純粋な知的好奇心に満ちていた。
『アグネスタキオン:不思議なこともあるものだねぇ? しかし、そちらが既に『大欅』から直接的な干渉を受けたというのは、非常に興味深いねぇ。次元の壁が、少しずつ薄くなっている証拠かもしれない』
「……なるほど。帰還の準備が整いつつあるってことかな」
俺は頷き、フリック入力で一つの疑問を投げかけた。
『かっふぇ(四月一日):そっちでは何か変わったことは? 悪霊用務員が暴れ出したりしてないか?』
『アグネスタキオン:特にないネ。四月一日用務員は、今日も普段通りに枯れ葉を集めていたよ』
相変わらずの真面目な悪霊っぷりに、俺はホッと息を撫で下ろした。だが、その直後。タキオンから、ピロン、と立て続けにメッセージが届いた。
『アグネスタキオン:あ、いや。少し変わったかもしれない』
『かっふぇ(四月一日):何かあったのか?』
画面の向こうのタキオンが、少しだけ言葉を選ぶような間の後。送信されてきたその一文に、俺は思わず息を呑んだ。
『アグネスタキオン:サイレンススズカが、カフェの事を思い出してね?』
『アグネスタキオン:何の因果かは不明だがね』
「…………っ」
俺の手の中で、スマホが微かに震えた。
俺とカフェが入れ替わってこちらの世界に飛ばされた時、向こうの世界(トレセン学園)では、マンハッタンカフェというウマ娘の存在そのものが『最初からいなかったこと』として世界から書き換えられ、誰の記憶からも消え去っていたはずだった。タキオンとカレンチャン、ネオユニヴァースといった数名の生徒は覚えていたという話だが、他の生徒たちは誰もカフェのことを覚えていなかったはずなのだ。
それなのに。
あの『大欅』を通り抜け、俺が暗闇から蹄鉄の破片を引き抜いた今日のこのタイミングで、大欅と深い縁を持つウマ娘である、あのサイレンススズカがカフェを思い出す。偶然では片づけられない現象だ。
「……カフェ」
俺が真剣な声で呼びかけると、俺の肩越しにスマホの画面を覗き込んでいたカフェの黄金の瞳が、驚きと、深い感慨に大きく揺れていた。
『……スズカさんが。私のことを……』
忘れ去られていた世界に、確かに自分の生きた証が、絆が戻り始めている。それは、元の世界へ帰るための『道』が、向こう側からも繋がり始めている何よりの証拠だった。
「……今まで忘れていた奴が、お前のことを思い出した。向こうの世界からも、確実に道が繋がりかけてる。……なら、ここは一気に畳み掛けるべきだろうな」
『……ええ。私も、そう思います』
タキオンからの報告を受け、俺とカフェの意志は完全に固まった。
―――鉄は熱いうちに打て。
俺たちはすぐさまS氏に連絡を取り、現状の整理と今後の計画を詰めるため、JRA理事長、そして企業の社長を交えた極秘のミーティングの場を設けてもらった。
■
都内にある、企業の厳重なセキュリティに守られたハイグレードな会議室。ふかふかの革張りソファに腰を下ろし、俺は向かいに座る三人の大人たち――日本競馬のトップ、大企業の社長、そして敏腕プロモーター――に向かって、静かに、そして真っ直ぐに視線を向けた。
「……お忙しい中、お時間をいただき、ありがとうございます」
俺は、完璧な『マンハッタンカフェ』のハスキーなウィスパーボイスで切り出した。
彼ら三人は、目の前にいる俺を「異世界から迷い込んだ本物のマンハッタンカフェ」として認識し、全面的に協力してくれている。だからこそ、俺も最後まで彼女の尊厳を守り、美しくミステリアスなウマ娘として振る舞い続ける義務があった。
「……結論から、申し上げますね。……私の帰還のための条件が、ある程度、明確になりました」
俺がそう告げると、三人の表情がスッと引き締まった。
「……一つは、府中のコースにある『大欅』。あそこが、私の世界と繋がるための扉になります。……そしてもう一つが。私自身の魂の質量……つまり、この世界で私を観測し、熱狂してくれる『100万人のフォロワー』という、エネルギーです」
俺の説明を聞き終え、JRA理事長が深く頷きながら顎を撫でた。
「なるほど。……ということは、君が元の世界へ帰れる可能性は、もう手の届くところまで来ているということですな」
「それは良いことです。我々としても、全力で後押しをした甲斐がありました」
社長も、心から喜んでくれているように相好を崩す。俺は少しだけ首を横に振り、慎重に言葉を継いだ。
「……まだ、可能性が高くなった、というだけです。……フォロワーが100万人に達した状態で、あの府中の大欅を通り過ぎる。その瞬間に、もしかすると……という確率の話ですから」
「ならば、ここからさらに強力なプロモーションをかけていきましょう」
S氏が、手元のタブレットを叩きながら熱を込めて言った。
「目標まであと十数万人。今の勢いなら確実ですが、絶対に失敗しないよう、さらにブーストをかけます。……正直なところ、プロモーターとしてはカフェ様がいなくなるのは非常に名残惜しいですが。ともかくとして、カフェ様が元のお姿で、元の世界へ戻られることが最優先の先決ですからね」
そのS氏の温かい言葉に、理事長と社長も深く同意するように頷いた。
大人たちの、損得勘定を超えた純粋な善意。それを受けて、俺の隣で宙に浮いていた本物のカフェが、ひどく申し訳なさそうに、そして決意を秘めた瞳で俺に念を送ってきた。
『……四月一日さん。彼らには、言葉では言い尽くせないほどのご恩があります。……私がこの世界を去る前に、何か彼らのために協力できることがあれば、なんでもしたいと……そう、お伝えいただけますか』
「(……ああ、わかった)」
俺は、カフェのその真摯な思いを汲み取り、社長たちに向かって深く頭を下げた。
「……皆様。本当に、ありがとうございます。ですが……私としても、帰ってしまえば……おそらく、御礼申し上げられなくなること、大変申し訳なく思っております。……ですので、私が元の世界へ帰還する前に、企業の公式アンバサダーとして、何かご協力できることがあれば……なんでも、させてください」
俺が『カフェ自身の願い』としてそう提案すると、社長は少し驚いたように目を見開いた後、プロの経営者としての鋭い顔つきに切り替わり、腕を組んだ。
「……確かに。公式アンバサダーとして大々的に銘打った手前、カフェさんがある日突然、何の前触れもなくこの世界から消え去ってしまった後の『混乱』は、想像に易いですね」
「ええ。SNSやファンコミュニティはパニックになるでしょうし、最悪の場合、企業側に『彼女に何か不祥事があった隠蔽なのでは』というあらぬ疑いが向きかねません。……となると、彼女が帰還した後の『フェードアウト』のシナリオも、今から考えておかなくてはなりませんね」
S氏も、ホワイトボードに視線を向けながら現実的なリスクヘッジを展開し始めた。
「……少しずつ情報量を減らし、自然な形で表舞台から遠ざかっていくのが一番良いでしょうね。ファンが納得できる理由を用意して」
「ふはは。一競馬ファンとしては寂しい限りだが……パニックになって暴動が起きない程度に、上手く混乱を収めてやってくれよ」
理事長が、少しだけ寂しそうに笑いながら場を和ませる。そこからの話し合いは、驚くほどスピーディに進んだ。
決まった方針はこうだ。
カフェがこの世界にいる間に、公式スタジオで『新たな衣装』での動画や写真を大量に撮り溜めておく。そして、俺(カフェ)が帰還した後も、S氏がその素材を定期的にSNSで小出しに発信し続け、あたかもまだ彼女がこの世界で活動しているかのように見せかける。そして、徐々に更新頻度を落としていき……最終的には『かっふぇ様の体調が芳しくなく、療養に専念するため、無期限の活動休止(引退)とする』という公式声明を出す。
これならば、ファンも企業も誰も傷つかず、伝説のコスプレイヤー『かっふぇ』は、美しい思い出のまま現実世界からフェードアウトすることができる。
「……という算段で、準備を進めましょう。ただ……」
社長が、少しだけ心配そうな眼差しを俺に向けた。
「撮り溜めをするとなると、帰還の準備と並行して、相当な数の撮影スケジュールをこなしていただくことになります。少し……いえ、かなりお忙しくなりますが、本当に、よろしいのですか?」
ウマ娘の身体への負担と、何より精神的な疲労を気遣ってくれる優しい問いかけ。
俺は、静かに顔を上げ、空中に浮かぶ、本物のマンハッタンカフェと、真っ直ぐに視線を交わした。
『……ええ。私のために、どうか』
「(……任せとけ。俺とお前で、最高のものを残してやろうぜ)」
互いの意志が、完全に一つに重なる。俺は、幽霊である彼女の決意を背負い、三人の大人たちに向かって、凛とした、どこか誇らしげな微笑みを浮かべた。
「……構いません。……最後まで、公式アンバサダーとしての責務を、全うさせてください。……よろしく、お願いいたします」
その言葉に、会議室の空気が引き締まり、社長たちが力強く頷き返した。100万人へのカウントダウンと、大欅への帰還。そして、この世界への美しい別れのための準備。
俺たちの、最後の怒涛の快進撃が、今ここに幕を開けたのだった。