都内の厳重な会議室での密談を終え、俺たちは再び、隙間風の吹く四畳半のボロアパートへと帰還した。
大企業とJRAを巻き込んだ壮大な計画の余韻を冷ますように、俺は使い慣れたミルで豆を挽き、丁寧に珈琲を淹れた。狭い部屋に、深く香ばしいマンデリンの香りが満ちていく。
ちゃぶ台の上に置かれたマグカップからは白い湯気が立ち昇り、その横ではお友達と、少し青みがかった青影が、二人並んで湯気の匂いをクンクンと嗅ぎながら、見えない珈琲を楽しんでいるようだった。
「……ふぅ」
俺は一口珈琲を啜り、ミステリアスなウマ娘の顔を少しだけ綻ばせた。そして、宙に浮かんで目を閉じている本物のカフェに向かって、ポツリとこぼす。
「……ついに、帰れる……かもしれないのか。よかったなぁ、カフェさんや」
『……はい』
カフェは静かに目を開け、嬉しさと安堵が入り混じったような、穏やかな微笑みを浮かべた。それからしばらくの間、四畳半にはただ珈琲の香りと、遠くを走る電車の微かな音だけが響く、静かで心地よい時間が流れていった。
――だが。
マグカップの中身が半分ほどになった頃。カフェが、ふと少しだけ伏し目がちになり、寂しそうな色を帯びた声で沈黙を破った。
『ただ……。四月一日さんと、こうしてお会いできなくなるのは。……少々、寂しいですね』
次元の壁を越え、元の世界と元の身体に戻るということは、この奇妙で濃密な同居生活が終わり、もう二度と交わることのない別々の人生を歩むということだ。
その言葉に、俺は少しだけ目を丸くした後、ハハッと小さく笑い声を上げた。
「……俺もだ。こんな夢みたいな経験、もう二度と出来ないだろうしな。……なんなら、この身体のままでずっと過ごしたいもんだよ。公式からは手厚くサポートされるし、SNSじゃ何十万人からもチヤホヤされるしな」
冗談めかして笑う俺の言葉に、カフェも『ふふっ』と小さく笑う。
底辺の日雇い労働者だった俺にとって、この美しく、圧倒的な才能に満ちた身体で過ごした日々は、間違いなく人生で一番輝いていた「魔法の時間」だった。
「……でも」
俺は、マグカップをちゃぶ台に置き、笑いを収めてスッと表情を引き締めた。
「それは、許されることじゃあないからな」
ウマ娘のハスキーな声が、夜の部屋に静かに響く。
「人間、決断の時ってのはいつか来る。俺にとって、お前(カフェ)になれたのはとんでもない幸運だが……この魔法を、いつまでも享受することは出来ない。だって、これは全部、お前の血のにじむような努力と才能―――、マンハッタンカフェっていう『功績』を、俺が勝手に間借りしてるだけだからな」
どれだけファンに愛されようと、どれだけ企業から大金をもらおうと。
それは俺の実力ではない。
俺の魂に向けられたものではない。
その事実から目を背けてこの身体に居座り続けるのは、ただのワガママだ。
「……お前にこの身体を返すのは、俺自身の『決断』だな。うん」
俺は、自分自身に言い聞かせるように頷き、最後に照れ隠しのように苦笑した。
その言葉を黙って聞いていたカフェは、黄金の瞳に深い敬意と温かな光を宿し、空中から深々と頭を下げた。
『……ありがとうございます。四月一日さん』
その美しく真摯な礼に、俺は少しだけ気恥ずかしくなり、頭頂部のウマ耳をパタパタと揺らして誤魔化した。しんみりとした空気を変えようと、俺はもう一口珈琲を飲み、ふと思いついた疑問を口にした。
「……そーいやさ、カフェさんや」
『なんでしょう?』
「この『青影』は、どうなんだろうな?」
俺が、ちゃぶ台の端でオリジナルのお友達とじゃれ合っている青い影を指差すと、カフェは不思議そうに小首を傾げた。
『どう、とは?』
「いやさ。お前ら二人は、あっち(ウマ娘の世界)からこっちに飛ばされてきたわけだろ? だから、大欅を通って『帰る』ことができる。……でも、こいつは?」
俺の言葉に、カフェの動きがピタリと止まった。
「こいつ、元はあっちの悪霊の残滓かもしれないけど……あの府中のコースで、蹄鉄の破片から『こっちの世界で生まれた(実体化した)』じゃん? てことは……お前たちが向こうに帰る時、こいつは次元の壁を越えられないんじゃないかと」
『…………あ』
「(……アッ!?)」
俺の極めて論理的な指摘に、空中のカフェと、オリジナルのお友達の影が、同時に硬直した。
二人は、ギギギ……と錆びた機械のように首を動かし、ちゃぶ台の上の青影をジッと見つめた。
当の青影は、三人の視線が一斉に自分に集まった意味が全くわかっておらず、「(なんだなんだ?)」とばかりに、見えない首をコテンと傾げて、無邪気に不思議そうなポーズをとっていた。
■
それから一週間後。日々の地道なゲリラ配信や、公式アカウントからの定期的な供給を続ける中で、俺のSNSフォロワー数はついに『90万人』の大台を突破した。
あの大バズりの数日間に比べれば伸びは少し落ち着いたが、それでも確実に数字は積み上がっている。100万人という途方もないゴールへのカウントダウンは、もうはっきりと始まっていた。
そんなある日の昼下がりのこと、式プロモーターであるS氏から、一通のメッセージが届いた。
『お疲れ様です。……衣装の準備ができました。社屋のスタジオまで、ご足労願います』
「……よし、行くとすっか! いつもの指導頼むぜ、カフェさん、お友達よ!」
俺はスマホをポケットに突っ込み、気合を入れるように両頬をパンッと叩いた。いつものダボダボのダウンジャケットにパラシュートパンツ、深く被ったニット帽。そして足元は、冬の寒空を完全に舐め腐った『い草地のサンダル』という、見慣れたかっふぇスタイルでボロアパートを飛び出した。
■
都内の一等地にある、大企業の自社ビル。その最上階にある広大な専用撮影スタジオへ通された俺は、そこにズラリと並べられた大量のハンガーラックを見て、思わず立ち尽くした。
「……Sさん。これは、一体?」
俺が目を丸くして尋ねると、S氏は目の下にうっすらとクマを作りながらも、狂気じみた達成感に満ちた笑顔を浮かべた。
「ふふふ……。かっふぇ様がこの世界を去った後も、ファンの皆様へ継続的に供給し続けるための『ストック素材』ですよ。弊社が抱える最高の衣装チームをフル稼働させました!」
ラックに掛けられていたのは、目を見張るような衣装の数々だった。
細部まで完璧に仕立て上げられたメインの漆黒の勝負服。艶やかな和服。先日の配信でも着た幽玄薔薇(ウェディングドレス)。夏用の水着に、洗練された私服。トレセン学園の制服から、汎用勝負服、さらにはリラックスした部屋着まで。
マンハッタンカフェというキャラクターが持つ、ありとあらゆる属性の衣装が、完璧なクオリティでそこには揃っていた。
「……これだけのものを、たったの一週間で、ですか?」
「もちろんです。各所の職人たちに無理を言って、徹夜で仕上げていただきました」
S氏は、並んだ衣装を愛おしそうに撫でながら、ふと真剣な眼差しで俺を見つめた。
「……何せ、かっふぇ様をこのスタジオで撮れるのは、これが最後の撮影になるかもしれませんからね? ……こちらも、絶対に悔いのないようにと!」
プロモーターとしての執念と、一人のファンとしての純粋な熱意。その言葉の裏にある「別れ」の気配に、俺は少しだけしんみりとした空気を胸の奥で感じた。
「……そう、ですね。……本当に、ありがとうございます」
俺は静かに伏し目がちになり、S氏に向かって深く一礼した。空中のカフェも、自分に向けられたその特大の愛情に対し、胸に手を当てて静かに頭を下げている。
感傷に浸る時間は終わりだ。俺たちは、最高の作品を残さなければならない。
「さぁ、かっふぇ様! スケジュールはタイトです。どんどん着替えていきましょう!」
「(……よっしゃ、来い! おっさんの体力と尊厳の限界を見せてやるぜ!)」
そこからは、まさに怒涛の撮影ラッシュだった。俺はメイクアップアーティストと衣装スタッフに囲まれ、本物の『着せ替え人形』のように次々と衣装をチェンジさせられていく。
制服に着替えれば、カメラに向かって物憂げな視線を送り。
水着に着替えれば、少し恥じらうように体を隠し。
和服に着替えれば、帯を締めて凛とした所作で振り返る。
『四月一日さん、右手の角度が少し硬いです。指先まで力を抜いて、顎を少しだけ引いてください』
「(了解だ、こうだな)」
空中からは、本物のマンハッタンカフェによる「完璧なマンハッタンカフェになるための演技指導」がミリ単位で飛んでくる。
「(バッ!シュバッ!)」
「(……なるほど、そのポーズいただき)」
カメラの死角では、オリジナルのお友達の影が、まるでファッションモデルのように次々と見事なポージングをやってみせ、視覚的な手本を示してくれている。
「(フレー!フレー!!)」
「(おうよ、ありがとな!)」
そして、ちゃぶ台からついてきた『青影』は、撮影用ライトの横でポンポンを持ったチアガールのように飛び跳ねて、必死に俺を応援してくれていた。
本物のウマ娘の魂と、三十路のおっさんの根性。そして、二匹の不思議な影たちによる謎のチームワーク。
大企業のスタジオにフラッシュが瞬くたびに、この世界に二度と現れることのない『奇跡の一枚』が、次々と記録されていった。
■
そして、怒涛の撮影ラッシュから一夜明けた、翌日の夕方。企業の公式アカウントから、昨日撮り溜めたばかりのストック素材の第一弾として、鮮やかな『援護射撃』が放たれた。
投稿されたのは、私服姿――落ち着いた色合いのロングスカートに、黒のタートルネックを合わせた、シックで大人びた装いの短い動画だった。
添えられたキャプションは、『モデル・かっふぇ氏の日常』。
街角のセットを背景に、ふと振り返ってこちらを見つめ、微かに首を傾げてから、小さく微笑む。ただそれだけの、ほんの数秒間の動画だ。
しかし、中身のオッサン魂を微塵も感じさせない、本物のカフェによるミリ単位の演技指導と、お友達の完璧なポージング見本によって生み出されたその所作は……見る者のため息を誘うほど、極限まで自然で美しい『マンハッタンカフェ』そのものだった。
この破壊力が、絶大でないはずがなかった。
『私服助かる!!!』
『あああああ美しすぎる! 息が止まった!』
『かっふぇさんの私服姿、完全に解釈一致すぎる』
『モデルかっふぇ氏、最高です……』
『永遠にループして見てられる』
動画は瞬く間に拡散され、SNSのタイムラインを席巻した。連日続いていた『かっふぇ旋風』に、この完璧な私服動画が決定打となり……俺の個人アカウントのフォロワー数は、投稿からわずか数時間であっという間に『5万人』もの異常なバネを見せて爆増したのだ。
「(……95万……おいおい、マジかよ)」
四畳半のアパートでスマホの画面を更新するたびに、数字が跳ね上がっていく。これはもう、完全に射程圏内だ。100万人という、次元の扉をこじ開けるための途方もないゴールテープが、もうすぐ目の前まで迫っている。
俺は、スマホを握りしめたままバッと顔を上げ、空中に浮かぶカフェを真っ直ぐに見つめた。
「……あともう一押し、だな」
『ええ。……いよいよです』
カフェも、静かな、しかし確かな熱を帯びた黄金の瞳で俺を見つめ返す。
「(……カフェさん)」
『……はい、四月一日さん』
俺たちは、言葉に出さずとも互いの意志を完全に理解し合い、深いところで強く意気投合した。
やるべきことは、一つしかない。この熱狂の波に乗り、最後の瞬間を、ファンたちと共に見届ける最高の舞台を作ること。
「……よし。100万人、耐久配信やりましょう!」
俺が力強く拳を握り込んで宣言すると。
「(オォーッ!!)」
ちゃぶ台の上で話を聞いていたお友達が、待ちわびていたように両手を高々と突き上げ、歓喜の雄叫びを上げるようなシルエットを作った。つられて横にいた青影も「(やるぞー!)」とばかりにピョンピョンと飛び跳ね、狭い四畳半は一気に決戦前の熱気に包まれた。
「じゃあ、使うものは全部使おう。ОさんやSさんに連絡して、告知の拡散を手伝ってもらおう。……今日このまま、一気に走り抜けるぞ!」
『はい! 四月一日さん、鉄は―――』
「おう、カフェ。―――熱いうちに打て、だ!」
異世界から来たウマ娘と、日雇い労働者のおっさん。奇妙な二人の、次元を越えるための最後のカウントダウンが、今まさに始まろうとしていた。