四畳半のボロアパートに、少しだけひんやりとした夜の空気が流れ込んでいた。
俺は、企業から提供された数多の豪華な衣装ではなく、自前で用意し、幾度となく袖を通してきた『いつもの漆黒の勝負服』に身を包んでいた。
タイトな生地の感触を確かめながら、俺はふと、手元のスマートフォンを見つめてポツリとこぼした。
「……もしかしたら。この部屋でこうして服を着るのも、これが最後か」
思えば、遠いところまで来たものだ。
最初は、ウマ娘の尋常じゃないエンゲル係数を支え、明日の飯代と家賃という『日銭を稼ぐため』だけに始めた素人配信だった。
それが今や、公式企業を巻き込み、次元の扉を開くための『100万人』という途方もない熱狂を呼び寄せるための、文字通りの大舞台として使われようとしている。
そう考えると、底辺を這いずり回っていた日雇い労働者のおっさんとしては、なんとも言えない深い感慨が胸に込み上げてきた。
俺のそのしんみりとした感情が伝わったのか。
空中に浮かぶカフェも、いつものような凛とした表情を少しだけ崩し、どこか寂しそうに黄金の瞳を伏せている。
足元では、お友達もシュンと小さくなり、別れを惜しむように俯いていた。
そんな中、事の重大さを全く分かっていない『青影』だけが、これから始まるお祭りにワクワクしているのか、「(早く早く!)」とばかりに一人で楽しそうにピョンピョンと揺れていた。
「……さて、と。湿っぽいのはここまでだ。いくぞ、お前ら」
俺は両頬を軽く叩いて気合を入れ直し、ちゃぶ台の上にセットしたカメラの前に座った。配信開始ボタンを押す前に、ふと『待機画面』の数字に目をやる。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
「……マジか。まだ始まってもいないのに」
同時接続待機者数――『98,000人』。
公式合同配信に匹敵する、約10万人近い人間が、すでにこの四畳半からの配信を今か今かと待ち構えていたのだ。夕方に公式から投下された『私服姿の動画』の凄まじい援護射撃も相まって、今、俺たちは間違いなく、この世界中のSNSにおける『注目のど真ん中』に鎮座していた。
俺は、画面の向こうで渦巻く巨大な熱量を感じながら、隣に浮かぶ相棒へと声をかけた。
「……カフェさんや。本当に、有難いもんだな」
『……はい。この世界の皆様にも……本当にお世話になりました』
カフェは、画面の向こうにいる10万人のファンたちへと思いを馳せるように、深く、優しく微笑んだ。
「そうだなぁ。……ま、100万人突破して、大欅の前に行ったってさ、絶対に帰れるって、確定したわけじゃないんだけどな。空振りだったら、また、普通に配信して……、視聴者さんたちを手玉に取ってやろうぜ、カフェ」
『……ふふっ。はい。そうですね。四月一日さん』
俺が照れ隠しのように肩をすくめて言うと、カフェも少しだけ悪戯っぽく笑って頷いた。
そのやり取りを聞いていたお友達が、ちゃぶ台の上をスルスルと滑り、俺(かっふぇ)の腕に、そっと温もりを分かち合うように寄り添ってきた。
(……サンキュな)
俺は、寄り添う影の頭を優しく撫で、大きく深呼吸をした。
さあ、泣いても笑っても、これが最後の大勝負だ。
ウマ娘のミステリアスな微笑みを顔に貼り付け、俺は静かに、配信開始のボタンをタップした。