画面の『配信開始』ボタンをタップすると、ほんの数秒のラグの後に、カメラの赤いインジケーターが点灯した。
「……どうも。かっふぇ、です」
静まり返った四畳半のボロアパートに、ハスキーでひんやりとしたウィスパーボイスが響く。
いつもの挨拶。
いつものトーン。
だが、そのたった一言が電波に乗った瞬間、スマートフォンの画面右半分を占めるコメント欄は、完全に制御を失ったかのような爆発的な速度でスクロールを始めた。
『きたあああああああああああ!』
『かっふぇさんこんばんは!!』
『待ってましたああああ!!』
『うおおおおおおおおおおっ!』
『100万人耐久キターーー!』
『実家のような四畳半! 落ち着く!!』
『待機10万人は草。凄すぎる』
『全裸待機完了!』
弾幕のように流れるコメントの横で、現在のフォロワー数を示すカウンターがリアルタイムで表示されている。
現在の数字は『961,304』。
目標である100万人までの残り人数は、この時点ですでに4万人弱にまで迫っていた。配信を始めたばかりの頃、たった数人の視聴者相手に細々と珈琲を淹れていたことを思えば、もはや次元が違う。こうなると、あとはもう『いかにして100万人に到達するか』ではなく、『いつ100万人のカウントダウンの瞬間を迎えるか』というレベルの消化試合――いや、ウイニングランだった。
『それにしても100万人速ぇー!』
『バズり始めてからマジであっという間だったな』
『かっふぇさんなら絶対行くと思ってたわ』
『昨日の公式との合同配信&花嫁衣装が完全に起爆剤すぎる』
『あと今日の私服動画な! あれで完全にトドメ刺されたわ』
『いやいや、そもそもかっふぇさんがカワイイのが一番の理由だろ!』
『わかる。顔が良すぎる』
『加えて運動も出来るしな。京都の芝を走る姿は本当にマンハッタンカフェだったし』
『ギャップ萌えの権化』
『中身も絶対に良い子だってわかるしな』
凄まじい勢いで流れていくコメントたちは、どれもこれも熱を帯びた好意的なものばかりだった。画面の向こう側にいる10万人近い人間が、ただ一人のウマ娘(中身はおっさんだが)の姿に魅了され、この歴史的瞬間に立ち会おうと熱狂している。
俺は、その圧倒的な熱量に少しだけ圧倒されながらも、ウマ娘のミステリアスな表情を崩さぬよう、静かに長い睫毛を伏せた。
「……ふふっ。皆様、温かいお言葉……ありがとうございます。……本当に、あっという間でしたね」
俺が小さく微笑みながら囁くと、コメント欄は、
『笑顔たすかる』
『あああああ鼓膜が幸せ』
とさらに加速した。
「……ですが。耐久配信とはいえ、やることは……普段と、変わりませんよ。皆様と一緒に、穏やかな夜を過ごせれば、それで」
俺はちゃぶ台の前に正座したまま、少しだけ首を傾げてカメラを見つめた。
「……今日は。ポージングから、始めましょうか」
そう言って、俺がゆっくりと立ち上がろうとした、その時だった。滝のように流れる通常コメントの濁流を割るようにして、ひときわ目立つ『赤』と『黄色』に装飾された特別なコメント――公式バッジのついたスーパーチャット(投げ銭)が、画面の上部にドンッと固定表示された。
【公式】ウマ娘プロモーション様から ¥50,000
『いよいよ100万人ですね! 私たちも一緒に盛り上がっていきましょう! スタッフ一同、全力で応援しております!!』
O(マンハッタンカフェ役)様から ¥50,000
『かっふぇさーん! 頑張れーっ!! 私も画面の最前列でペンライト振って待機してますよーっ!! 目指せ100万人!!』
「(……ブッ!?)」
俺は、ウマ娘のポーカーフェイスの裏側で、危うく盛大に吹き出しそうになった。
(Sさん!? Oさん!? なに公式アカウントと個人アカウントで特大の赤スパチャ投げてきてんだよ!? ていうか企業公式が個人の配信に投げ銭ってアリなのか!?)
この全く予想していなかった特大のサプライズに、視聴者たちのコメント欄も完全にバグを引き起こした。
『!?!?!?』
『公式!?!?!?』
『ファッ!?公式が赤スパ投げた!?』
『Oさんきたぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』
『え、声優さんご本人が見てんの!?』
『公式と中の人が同時に降臨してて草』
『企業からも直々に応援来てる!流石公式アンバサダー!!』
『愛されすぎだろかっふぇさんwww』
『すげえ配信だこれ伝説になるぞ』
『俺も負けてられねぇ!』
公式からの強力なエールを皮切りに、コメント欄には一般の視聴者たちからの投げ銭の嵐が吹き荒れ始めた。画面が虹色に光り輝き、フォロワー数のカウンターがスロットマシンのようにグルグルと回り出す。
「(……社長もSさんもOさんも、本当に粋なことしてくれやがる)」
俺は、胸の奥が熱くなるのを感じながら、空中に浮かぶカフェと視線を交わした。カフェも驚いたように目を丸くしていたが、すぐに嬉しそうに、花が綻ぶような極上の微笑みを浮かべた。
「……ふふっ。公式の皆様、そしてOさん。……見守ってくださって、ありがとうございます。……ご期待に添えるよう、頑張りますね」
俺はカメラに向かって深く、優雅に一礼した。そして、気を取り直して、ちゃぶ台の横の少しだけ空いたスペース――畳の上へと移動し、スッと背筋を伸ばして立った。
『では、四月一日さん。まずは基本の立ち姿からいきましょうか』
空中のカフェが、プロの顔つき(?)になってスッと高度を下げ、俺の目の前で指示を出し始める。
『左足を少しだけ後ろに引き、重心は右足に。……両手は体の前で、指先を揃えて軽く重ねてください。そして、顎を少しだけ引き、視線は……カメラのレンズの奥、少し下を見るようなイメージで』
「(了解だ。こうだな)」
俺がカフェの指示通りに動こうとした瞬間。視界の端で、オリジナルのお友達が『シュバッ!』と、完璧な手本となるポージングをやってみせた。そして、ちゃぶ台の上に残った青影は「(おおーっ!)」とばかりに見えないペンライトを振り回して応援している。
俺は、お友達の手本をトレースし、カフェのミリ単位の修正を受けながら、漆黒の勝負服に身を包んだ完璧な『マンハッタンカフェ』の立ち姿を完成させた。
「……どう、ですか?」
伏し目がちのミステリアスな視線と、微かに首を傾げる仕草。その姿が画面に映し出された瞬間、コメント欄は歓声で埋め尽くされた。
『美しすぎる……』
『絵画かよ』
『スクショタイムだ!! お前ら連写しろ!!』
『指先まで完璧にカフェだ』
『脚長っ! スタイル良すぎだろ!』
『四畳半の背景と、この圧倒的な美のギャップが脳をバグらせる』
『神々しい……』
『かっふぇ様とお呼びしたい』
「……ありがとうございます」
流れる絶賛のコメントを拾いながら、俺は次のポーズへと移行する。
『次は、少しだけ動きをつけましょう。……右手で、そっと自分の唇に触れるように』
「(オッケーだ)」
俺は、右手のひらをふわりと返し、人差し指をそっと自分の唇に当てた。そして、カメラに向かって、内緒話でもするような、少しだけ悪戯っぽい視線を向ける。
「……これは、内緒、ですよ?」
追撃するように、ウィスパーボイスでの囁きを届ける。これが、また凄まじい破壊力を生んだようで。
『ぎゃああああああああああ』
『ウインクからの内緒ポーズはやばい!!』
『尊死した。遺産はかっふぇさんに譲る』
『可愛すぎるだろおおおお!!』
『いま完全に目が合った! 俺と目が合ったぞ!』
『Oさん生きてるか!?(笑)』
コメントの中で視聴者が心配していた通り、画面の上部にはOさんからの黄色いスーパーチャットが再び飛んできていた。
O様:『かわあああああいいいいい!! 無理! 好き!!』
(おいおいおい、中の人が限界化してどうすんだよ)
俺は内心で苦笑しながらも、次々とポーズを変えていく。
「(シュバッ!)」
お友達が、今度は両手を腰に当て、少しだけ胸を張るような自信ありげなポーズをとる。俺はそれを真似て、少しだけ勝気な表情を作ってみせた。
『おおっ、珍しく力強い!』
『レース前のカフェって感じだ!』
『勝負服のタイトなラインが素晴らしい』
『この体幹のブレなさ、絶対普段から鍛えてるよな』
『筋肉のつき方がしなやかなアスリートのそれなんだよ』
「……『普段から鍛えているか』ですか? ……ええ、まあ。大地の声を聞くために、少しだけ」
流れてきたコメントを拾い、俺は静かに答える。実際は借り物だけどな。にしても、カフェの体は本当に素晴らしい。どれだけの鍛錬を積んできたのか、よく判る。
『大地の声(2回目)』
『かっふぇ語録すき』
『走り方が完全に馬だったのも納得のポージング』
『それにしてもだ! 100万人まであと2万人切ったぞ!! 流石かっふぇ!』
視聴者のコメントで気づかされ、俺はカメラ横のカウンターに視線を戻した。
現在のフォロワー数は『983,412』。
公式とOさんの登場、そして怒涛のポージング&スクショタイムの熱狂により、残り4万人あった壁が、瞬く間に残り1万数千人にまで削り取られていたのだ。
「……本当に、あっという間ですね」
俺は、ポーズを解いて再びちゃぶ台の前へと座り直した。画面の向こうで熱狂するファンたち。企業からの手厚いバックアップ。そして、四畳半の部屋で一緒に笑い合う不思議な幽霊と影たち。
『四月一日さん。……あと少し、ですね』
「(ああ。……あと少しで、お前を帰してやれる)」
俺は、空中のカフェと視線を交わし、深く頷き合った。100万人耐久配信は、熱狂のボルテージを最高潮に保ったまま、いよいよ最後のカウントダウンの領域へと突入していった。