数十分後。六畳の安アパートには、男の困惑する声と四苦八苦する様が繰り広げられていた。
「いや、このベルトどこに繋がってんだよ!? そもそもインナーの構造が難解すぎるだろ!」
『落ち着いてください。そのリボンは背中側です。ああ、お友だち……彼…の、右側のフリルを引っ張ってあげて』
空中から的確で、かつ容赦のない着替えの指南を飛ばすカフェと、物理的に布地を引っ張ってノリノリでアシストしてくるお友達の影。
女物はおろか、こんな複雑な構造の衣装など触ったこともない元日雇い男にとって、それは未知の重機をマニュアルなしで操縦するような苦行だった。特に手こずったのは以下の点である。
複雑な編み上げのコルセット:息を吸って締め上げる力加減がわからない。
用途不明な装飾ベルト:何本もあり、どこに通すのが正解か迷宮入りする。
尻尾周りの処理:本物の尻尾をスカートの隙間から自然に出すための微調整。
そして、長い格闘の末。
息も絶え絶えになりながら洗面所の姿見の前に立った俺は、そこに映る自身の姿に思わず言葉を失った。
「おお……、こいつはマジかよ」
そこには、なんとまぁ実に、マンハッタンカフェが立っていた。
ネット通販で買われた『吊るしの服(既製品)』ゆえに、肩回りや腰のラインなどサイズが完璧に合っていない部分は確かにある。しかし、長く艶やかな黒髪、神秘的な黄金の目、そしてピコピコと動く本物の耳と尻尾。
それらが勝負服と組み合わさることで、多少のサイズの粗など完全にねじ伏せるほどの圧倒的なオーラを放っていた。まるでウマ娘の絵が、そのまま現実世界に抜け出してきたかのようだ。
『……ええ。とてもよく似合っていますよ』
空中に浮かぶカフェ本人は、鏡の中の俺を眺め、深く満足げに頷いた。その横では、お友達の影が「大成功!」「完璧!」とでも言わんばかりに、俺の周りをピョンピョンと飛び跳ねてはしゃいでいる。
『ただ、今回は少々手こずりすぎましたね。これからはもっと速く着れるようになりましょう』
涼しい顔で告げられたスパルタな宣告に、俺はどっと押し寄せる疲労を感じながら、鏡の中の美しい自分と一緒に肩を落とした。
「……善処しますわ、カフェさん」
苦笑いとともにそう絞り出すのが、今の俺にできる精一杯の抵抗だった。
■
「よし、こんなもんか」
姿見の前でポーズをとり、スマホのタイマー機能などを駆使して写真を4枚撮影した。
正面からの全身、少し上目遣いになるような俯瞰の構図、美しい髪と尻尾のラインが際立つ横顔、そしてミステリアスな黄金の瞳を強調した顔のアップ。
それらを『着てみました』という短い一文とともに、SNSへとアップロードする。
すると、投稿から数分もしないうちに、スマホが壊れたかと思うほどの凄まじい勢いで通知音が鳴り始めた。いわゆる『万バズ』である。
画面をリロードするたびに、数千単位で「いいね」とリポストが爆増していく。コメント欄は、これまで以上の熱狂的な書き込みで完全に埋め尽くされていた。
『キタコレ!!!! 全裸待機してた甲斐があった!!』
『おいおい、ガチで本物のカフェだよこれ……』
『すんげーこれ。衣装の着こなしもそうだけど、本人のオーラというか再現度がエグすぎる』
『かっふぇさん凄いクオリティですね! もしよければ今度、タキオンのコスプレで併せしませんか!?』
『カメラマンやってます。ぜひ一度、本格的なスタジオで撮影させてほしいなこれ』
『一度でいいから生で見てみたい。イベントとか出ないんですか!?』
『あの複雑な勝負服をここまで自然に着こなすとは……神コスプレイヤー爆誕の瞬間を見た』
『顔のアップの破壊力やばい。この瞳で見つめられたら全部の財産譲っちゃいそう』
『耳と尻尾の毛並みが良すぎる。どうやって作ってるの?』
『表情の作り方が完全に”理解(わか)ってる”人のそれ。解釈一致の極み』
『この華奢な身体のどこに米30kgを片手で持ち上げるパワーが……?』
『頼む、イベントに出てくれ! 絶対に囲み撮影の巨大サークルができるから!!』
『圧倒的美。ただただ拝むことしかできない』
スクロールしてもしても終わらない、絶賛と驚愕のコメントの嵐。
「……まぁ、悪い気はしねぇなー」
鼻高々といった感じでスマホを眺める俺。その横では、空中のカフェも嬉しそうにコクリと頷き、お友達の影に至っては「私が見立てた通り!」とばかりに胸を反らせて誇らしげに宙を舞っている。
しかし、有頂天になりかけた俺の耳に、カフェの涼やかな、それでいて少し躊躇いを含んだ声が届いた。
『……四月一日さん』
「ん? どうしたカフェさん」
見上げると、カフェは黄金の瞳を少し泳がせ、わずかに頬を染めながらモジモジとしていた。
『その……もし、配信でも、オフでも……、本当に皆様の前に出られるのであれば。その、あまり男性らしい、がさつさは控えていただきたいと……、思い、まして』
「あ」
言われてみれば、今の俺の中身は「日雇い現場で重機を乗り回す三十路前の男」である。
普段の座り方はあぐらか片膝立て、言葉遣いは粗く、あくびをする時は口も隠さない。今は「写真」と「短い動画」だからボロが出ていないだけで、もし、長時間の配信を行う場合や、曲がり間違ってリアルなイベントなどに出て人前に立てば、数秒で「中身がおっさん」であることが露見してしまう。
それは、カフェという少女の清楚でミステリアスなイメージを、粉々に破壊する大惨事を意味していた。
「……ああ、確かに。俺の素の挙動が出たら、色んな意味で終わるな」
俺は深い、ひときわ深い溜息を吐いた。
「わかったよ。人前に出るための『立ち振る舞い』の訓練、ちょっと本格的にやるか。客観的に見ながら指導してもらえるかい?」
『もちろん、お安い御用です』
かくして、筋トレや走り込みではなく、まさかの『ウマ娘・マンハッタンカフェとしての所作指導』という、最も精神を削られる特訓の日々が始まることとなった。
■
『脚は開かないでください。ああっ、駄目です。そんな猫背……』
『いけません、欠伸をするときはちゃんと手で口を隠して……』
六畳の安アパートに、カフェの切実な指導の声が響き渡る。
椅子に座れば無意識に膝が開き、スマホを見るときは背中が丸まり、ふとした瞬間に遠慮のない大きなくしゃみや欠伸をしてしまう。その度に、空中から飛んでくるカフェの細かな、しかし女性としては当然のダメ出し。
「あー、はいはい。こうか? 膝をくっつけて、背筋を伸ばして……っと」
流石に他人の、しかもこんな可憐な少女の体を借りている身である。持ち主のイメージをこれ以上崩すわけにはいかないと、俺は素直に教えに従い、慣れない内股や上品な所作を頭と体に叩き込んでいった。
傍らでは、お友達の影が「がんばれー!」とポンポンを振るような動きで応援してくれている。
そんな、奇妙な礼儀作法レッスンが小一時間ほど続いた時のことだった。
ふと、本当に唐突に、俺の脳内に一つの巨大な疑問が浮かび上がった。それは、この異常事態に巻き込まれてから今日まで、日々のサバイバル(主に食事とインフルエンサー活動)に追われて完全に失念していたことだった。
「……そういえば、カフェさん」
『はい、なんでしょう? あ、もう少し顎を引いてくださいね』
「いや、フォームのことは一旦置いておいて。……俺の体って、今どうなってんの?」
ピタリ、と。
空中のカフェと、応援の動きをしていたお友達の影が同時に静止した。
『……と、いいますと?』
カフェが、わずかに首を傾げる。
「いや、ほら。今、カフェの体に俺の魂が入って、現実世界でこうして動いてるじゃん? 悪霊退治の失敗で次元の狭間に巻き込まれたとか言ってたけど……じゃあ、本来この世界にあったはずの『俺の肉体』はどこ行ったんだ?」
俺の三十路、日雇い労働で鍛えた、そして少しガタがきているあの男の身体だ。
俺が目覚めたとき、ベッドにはこの黒髪ロングのウマ娘の身体しかなかった。まさか、俺と入れ替わりであっちの世界のトレセン学園にでも飛ばされているのだろうか。だとしたら、今頃あちらの世界は大パニックになっているはずだが。
俺の至極真っ当な疑問を聞いて。
カフェとお友達は顔を見合わせ、まぁ影に顔はないが、そして同時に、ハッと息を呑むような仕草を見せた。
『…………そう、いえば』
カフェは黄金の瞳をぱちくりと瞬かせた。お友達の影も、「あーっ!」と頭を抱えるようなポーズをとっている。
『全く、気がつきませんでした……。四月一日さんの元の身体は、今どこにあるのでしょうか……?』
「いや、気付いてなかったんかい!」
てっきり、見えざる者が見える彼女たちのオカルト的な知識で、そのあたりの事情は把握しているものだとばかり思っていた。
全く見当もつかないといった様子で、ウンウンと可愛らしく頭をひねり始める半透明の二人。
どうやら俺たちは、インフルエンサーとして万バズを叩き出しているこの瞬間も、自分たちの足元にある一番大きな謎を放置したまま突き進んでいたらしい。
■
『可能性としては……私のいた世界に飛んでいるか。あるいは、最悪の場合、あの悪霊が奪い取っている可能性も……』
カフェは青ざめたような表情――元々肌は真っ白なのだが、さらに血の気が引いたように見えた――、になり、深く、深く頭を下げた。
『ああ……完全に失念しておりました。本当に、申し訳ありません』
足元のお友達の影も、自分のミスを悔いるようにシュンと小さく縮こまり、平謝りするような動きを見せている。
「ああ、まぁ……。いきなりこんなことになって、余裕お互いに無かったからしゃーねーよ」
俺はぽりぽりと頭を掻きながら、全く責める気のない声でフォローを入れた。実際、今日の今日まで三十路前の男である俺自身すら完全に忘れていたのだから、お互い様である。
「ま、ということは、俺の元の身体は『行方不明』ってことだけは確実だな」
『……ええ、仰る通りです』
お友達も、申し訳なさそうにコクコクと頷く。
「そっちもボチボチ探す方法を考えるとしてもだ。なんにしても、まずはこっちの生活基盤をしっかり持たないとなぁ……」
『ええ、その通りです。……その、改めてその点は、どのようになっているのでしょう?』
「ああ、身分証とか?」
『はい。この姿では、公的な手続きが難しいとAIも言っていましたから』
心配そうに見上げてくるカフェに対し、俺は記憶の中にある自分の公的書類の期限を引っ張り出し、指折り数えて確認した。
運転免許証:幸い、この間更新に行ったばかりだ。当分は身分証として使える。
マイナンバー保険証:これも、あと五年は有効期限が残っている。
アパートの賃貸契約:唯一の懸念点だが、まだ期限まで余裕があるし、当面の家賃を払うだけの貯金はある。
「そうねぇ……。少なくとも年単位ではまぁ、更新とか面倒な手続きは無い、かな? 懸念点はアパートの更新ぐらいだが、まぁまだ貯金はある。最初にも言ったが、一年分はもつはずだ」
俺がそう結論づけると、カフェは目に見えて安堵の息を吐き出した。
『……それなら、安心、ですね』
「ああ、ひとまずはな。猶予は十分にある」
だが、と俺は腕を組んで天井を仰いだ。
「ただ、継続的な金となると、なんとか今のこの『バズ』から金を生み出す仕組みを作らないといけない……。となると、インフルエンサーとして何かこう、案件を受けたり、収益化したり……」
そこまで言って、俺は大きく溜息をついた。
「……とはいっても、俺あんま詳しく無いんだよねー。日雇い現場の入り方なら詳しいんだけど。しかも企業案件とかは身分証とかがなぁ……」
『ふふ……。私も、この世界のそういうシステムには明るくないですから』
カフェも少し困ったように眉を下げ、しかしどこかおかしそうに口元を綻ばせた。
『手探りになりますが……頑張りましょう』
「違いない。ま、なるようにしかならねぇしな」
三十路の元日雇い男と、異世界から来たウマ娘の霊、そして謎の影。
前途多難すぎるインフルエンサー活動と、行方不明の肉体探し。俺たちは顔を見合わせ、お互いに苦笑するしかなかった。