「……少し、着替えますね。すぐ戻りますから、そのままお待ちを」
俺はカメラに向けて小さく手を振ると、画角から外れて四畳半の隅へと移動した。マイクをミュートにはしていないため、衣擦れの音がそのまま配信に乗り、コメント欄では、
『次は何の衣装だ!?』
『水着!?制服!?』
と期待に胸を膨ませる視聴者たちの声がものすごい速度で流れていく。
昨日、公式のスタジオで山のように撮り溜めた豪華絢爛な衣装の数々。だが、この歴史的な『100万人』というゴールテープを切る瞬間に、俺が選んだのは、企業が用意したどれでもなく――俺自身の、一番最初の原点だった。
「(……やっぱり、これだよな)」
タイトな勝負服を脱ぎ、頭からすっぽりと『オーバーサイズのシャツ』を被る。下半身にはダボダボの『パラシュートパンツ』。そして、頭頂部のウマ耳を隠すように(隠しきれてはいないが)深く被る、年季の入った『ニット帽』。
日雇い労働者である四月一日が、普段着として着潰していた、安物のストリートファッション。
この姿で、見よう見まねでSNSに最初の写真を投稿した時の、あの泥臭い姿だ。
俺はアイデンティティとして……、ニット帽をしかりと被り、シャツの首元を軽く整えると、再びカメラの前――ちゃぶ台の定位置へと腰を下ろした。
「……お待たせしました」
俺がひんやりとしたウィスパーボイスで囁き、画面の中に『いつもの私服姿』が映し出された瞬間。コメント欄は、一瞬の静寂の後、これまでにないほどの凄まじい大歓声で埋め尽くされた。
「……SNSの最初期を、イメージしてみました。……どうでしょう?」
俺が少しだけ首を傾げて問いかけると、画面の右半分が滝のような勢いでスクロールし始めた。
『おおおおお! あの大食いの時の!!』
『うわあああ懐かしい!!』
『最初は確かにその姿で、何枚かの写真からだったもんなぁ……』
『かっふぇの原点!』
『初期装備キターーー!』
『古参の俺、号泣』
『私服ってマジ!? ダボダボで可愛いなぁ!』
『勝負服もいいけど、このストリート系のギャップえぐい』
『いやコスプレしなくてもすげぇじゃん!?』
『顔が良すぎるから何着ても似合うというバグ』
『隠しきれてない耳がピョコピョコしてて最高』
『彼シャツ感がたまらん……!』
古参ファンからの熱いノスタルジーと、新規層からの新鮮な驚きが入り混じり、コメント欄はカオスな盛り上がりを見せている。
「……せっかくの、100万人ですからね。……初心忘るべからず、です」
俺は、ウマ娘のミステリアスな表情の中に、中身のおっさんらしい『少しだけのドヤ顔』を混ぜ込んでみせた。
『ドヤ顔かわいいww』
『ストリートカフェって感じで本当にカワイイ』
『カッコイイよね。ダボダボの服着てるのに隠しきれないスタイルの良さ』
『こんな子いたら絶対二度見しちまうよ』
『街中で見かけたらそのままついていっちゃいそう(事案)』
『去年はこれで、中山とか府中のグルメを制覇してたのが懐かしいなぁ』
『あったあったwかっふぇさん大食いだし凄かったよなぁ』
『競馬場のメシ全部食い尽くす勢いだったもんな』
コメント欄に流れる『競馬場グルメ制覇』の単語に、俺は思わずクスリと笑みをこぼした。あれは、SNSを始めたばかりの頃。手っ取り早くフォロワーを稼ぎつつ、ウマ娘のブラックホールのような胃袋を満たすために、競馬場のフードコートを片っ端から食べ歩いた時のことだ。
「……ありましたね。……とても、美味しかったですよ」
俺は当時のもつ煮込みやフライドチキンの味を思い出しながら、長い睫毛を伏せて静かに語った。
「……ただ。どのお店もとても美味しかったのですが……。全部回っても、腹八分目、といったところでしたが」
俺が事実をそのまま淡々と告げると、コメント欄は総ツッコミの嵐と化した。
『全店制覇した上でいう台詞じゃねーのよwww』
『やっぱり胃袋ウマ娘だわ』
『腹八分目(数万キロカロリー)』
『燃費どうなってんだよw』
『食費で破産するぞこの美少女』
『でけぇハンバーガーも食ってたしな!』
『あのタワーみたいなやつなw』
「ああ……。配信の、プロモーションもありましたね。……ハンバーガーの」
俺は、ちゃぶ台に肘をつき、懐かしむように目を細めた。あれは、フォロワーがある程度増えてきた頃に受けた、新作ハンバーガーのPR案件。好きなだけ食べていい、という話だったのだが、食べるペースがなかなかに異常だったのだ。
「……あの時は、キッチンスタッフの方々の慌てようが、とても面白かったです」
(……ふふッ、あれは傑作だったなよなぁ)
表向きは上品に微笑みながら、内心では思い出し笑いをしてしまう。
『確かにwww』
『最初の2個ぐらいまで余裕の顔だったよな』
『そっから追加で頼み始めたあたりから、裏のスタッフ焦り始めててクッソ面白かった』
『だなぁーw』
『「えっ、まだ食うの!?」って顔してたもんな』
『しかもかっふぇさん、めっちゃ上品に無表情でハンバーガー吸い込んでたし』
『あれでファンになったわ』
『大食い×美少女×ASMRとかいう最強のコンテンツ』
あの頃は、ただ明日を生きるために必死だった。まさかその食欲と日々の記録が、こんなにも多くの人々を惹きつけ、次元の壁を越えるためのエネルギーに変わるなんて、夢にも思っていなかった。
俺の隣では、空中に浮かぶ本物のカフェが、感慨深げにそのやり取りを見守っている。足元では、お友達が、当時のハンバーガーを食べる真似をして、見えないハンバーガーをポイポイと口に放り込むジェスチャーをして遊んでいた。青影は不思議そうに首を傾げていた。
(……楽しい時間だったな。お前らと過ごした、この数ヶ月間)
『……ええ。本当に。夢のように、騒がしくて……温かい日々でした』
カフェが、慈しむような黄金の瞳で俺を見つめ返し、静かに頷く。
―――その時だった。画面の上部に、ひときわ目立つ黄色いスーパーチャットが、弾かれたように飛び込んできた。
O様:『かっふぇさん!! あと100人ですよ!!!』
「……お?」
中の人であるOさんからの、興奮しきったコメント。俺はハッとして、画面の隅に表示させているリアルタイムのフォロワーカウンターへと視線を移した。
『999,920』
「……ついに、超えそうです」
俺の声が、ほんの少しだけ震えた。
あと80人。
この数ヶ月間、泥にまみれ、笑い合い、時に悪霊の手を引きちぎりながら駆け抜けてきた道程の、本当のゴール。カウンターの数字は、瞬きをするたびに10、20と、ものすごい勢いで跳ね上がっていく。
『うおおおおおおおおっ!』
『きたきたきた!』
『歴史的瞬間だ!!』
『みんな登録しろおおお!』
『あと50!』
『あと30!』
『いけえええええええええええ!』
コメント欄が、滝のような速度を超え、もはや光の帯のように流れていく。
10万人の視聴者が、固唾を呑んでその数字を見つめている。
企業の社長も、S氏も、Oさんも、そして……向こうの世界にいるタキオンたちも、きっとこの瞬間を見守っているはずだ。
俺は、小さく、深く、息を吸い込んだ。
100万人を迎える、その瞬間に俺がやるべきことは、雑談でもなく、派手なポージングでも、特別なセリフでもない。
マンハッタンカフェというウマ娘の、最も美しい時間。
「……では。……珈琲を、淹れましょうか」
俺は、ちゃぶ台の横に置いていた、年季の入った手動のコーヒーミルを、静かに引き寄せた。木製の本体に手を添え、保存瓶から、艶やかな深煎りのコーヒー豆をスプーンですくい上げる。
カラカラ、と。
ホッパーに豆が滑り落ちる音が、静まり返った部屋に響く。
カウンターは、『999,975』。
「……ふぅ」
俺はミルのハンドルを握り、ゆっくりと、祈りを込めるように回し始めた。
――コリ……コリ……コリリ……。
硬い豆が砕かれ、芳醇な香りが四畳半に解き放たれていく。
『音が……』
『最高だ……』
『あと10!』
『あと5!』
『3!』
『2!』
『1!』
――コリ、コリ、コリ。ミルの小気味良い音と、俺たちの静かな呼吸音だけが、マイクを通して世界中へと配信されていく。
そして。
スマートフォンの画面の中で、その数字が、ついに反転した。
『1,000,000』
――到達。夢にまで見た、百万という桁。
その瞬間、コメント欄は完全に真っ白な光の奔流と化した。