『1,000,000』
スマートフォンの画面の隅に表示されていたその数字が、ついに大台を突破した。次の瞬間、俺の視界は、文字通り『極彩色』に染まり上がった。
『うおおおおおおおおおおおっっ!!!』
『100万人キタアアアアアアアアア!!!』
『おめでとううううううううう!!!』
『歴史的瞬間!!!』
『かっふぇさん100万人おめでとう!!!!!』
『伝説達成!!!』
『泣きそう。初期から見てたからマジで泣きそう』
『うおおおおおお!(語彙力消失)』
『最強!かっふぇ最強!!』
『神!崇めたてまつれよ!!!』
コメント欄が、あまりの速度で処理落ちしかけるほどの濁流となる。さらに、画面の上部から滝のように降り注ぐのは、あらゆる色のスーパーチャット(投げ銭)の嵐だった。
赤、黄色、緑、青。数千円から数万円という単位の金額が、花火のように次々と打ち上がり、四畳半のボロアパートを映す画面を虹色に埋め尽くしていく。
「(……すげぇ。本当に、すげぇ景色だ)」
日雇い労働者として、その日暮らしの数千円を稼ぐのに泥まみれになっていた俺が今、画面の向こうにいる100万人という途方もない数の人間から、これほどの熱狂と祝福を一身に浴びている。胸の奥が熱くなり、どうしようもないほどの達成感がウマ娘の身体を駆け巡った。
だが俺は、この極彩色の熱狂のど真ん中にありながらも、決して『マンハッタンカフェ』の静謐な空気を崩さなかった。
――コリ……コリ……コリ……。
コメント欄が狂喜乱舞で爆発している中、俺はただ一人、静かに、一定のリズムでコーヒーミルを回し続けていた。長い睫毛を伏せ、手元だけに集中するその姿。周囲の熱狂と、ただひたすらに珈琲豆を挽き続けるミステリアスな美少女という、あまりにもシュールで美しいコントラストだ。
『この状況でブレずに豆挽いてるの草』
『かっふぇさん鋼のメンタルすぎるww』
『そういうところが好きだ!!』
『俺たちの100万人が豆挽く音のBGMになってるw』
『流石はかっふぇ様、俺たちのスパチャなど豆の足しにすぎない』
『ASMRが心地よすぎる』
やがて、豆を挽き終えた俺は、ゆっくりと顔を上げた。そして、カメラのレンズ越しに、100万人の視聴者を見つめ、ふわりと、この世の物とは思えないほど儚く美しい微笑みを浮かべた。
「……皆様。……ありがとうございます」
ウィスパーボイスでの囁き。たったそれだけで、コメント欄は再び『ああああああ』『笑顔たすかる』と大爆発を起こす。
俺は、挽きたての豆をドリッパーに移し、細口のポットからゆっくりとお湯を注ぎ始めた。シュワァァ……と、新鮮な豆が膨らむ音と共に、芳醇なマンデリンの香りが四畳半を満たしていく。琥珀色の液体がサーバーに滴り落ちるのを静かに見つめながら、俺はマグカップを手元に引き寄せた。
「……記念すべき、100万人の……一杯です」
トクトクと、熱い珈琲を注ぐ。そして俺は、そのマグカップにそっと両手を添え、カメラに向かって少しだけ首を傾げた。
「……皆様も、どうかお飲み物を。……一緒に、いかがですか?」
俺がそう促した瞬間、画面の向こう側のファンたちは、一斉にパニックに陥った。
『えっ!?』
『ちょっとまってーーー!!』
『今買ってくる!!コンビニダッシュする!!』
『待って!冷蔵庫から麦茶持ってくるから!』
『ヤバい飲み物がない!水道水でもいい!?』
『俺も珈琲淹れる!!お湯沸かす!!』
『ストロングゼロ開けていいですか!?』
『エナドリで乾杯するぜ!!』
視聴者たちが慌てふためく中、画面の上部に、見慣れた黄色と赤のコメントが固定された。
O様(¥10,000):『みんなー! 飲み物の準備だよーっ! 私は大急ぎで特茶持ってきたよ!!』
【公式】(¥10,000):『祝杯ですね! 私はプレモルを開けさせていただきます。皆様もご準備をお願いします!!』
公式アンバサダーの担当スタッフ、S氏と、本職の声優までが率先して視聴者を煽り始める。
『公式とOさんがノリノリすぎるww』
『公式さんプレモルはズルいぞ! 俺は発泡酒だ!』
『Oさん特茶は健康意識高くて草』
『おっしゃあああ! コカコーラ持ってきた!!』
『プロテインで乾杯するわ』
『俺はドクターペッパーだ!』
『急いでカルピス作ってきた!』
「……ふふっ」
コメント欄で各自が持ってきた飲み物を報告し合う様子がおかしくて、俺は思わず声に出して笑ってしまった。そして、皆が飲み物を用意するまでの、数分間の待ち時間の間、俺はちゃぶ台に肘をつき、マグカップの湯気を顔に受けながら、流れていくコメントをのんびりと眺めていた。
隣では空中のカフェが嬉しそうに微笑み、ちゃぶ台の端では、お友達と青影が、エアジョッキを両手で掲げるようにして乾杯の準備運動をしている。
(さて、そろそろ皆の準備もできた頃か……)
そう思って、俺がマグカップを持ち上げようとした、その時だった。
ものすごい速度で流れていくコメントの濁流の中に。
『それ』は、まるで時間が止まったかのように、俺の目にハッキリと飛び込んできた。
『承知したよカフェ。おめでとう。100万人とはやるねぇ』
「…………え?」
俺は、無意識のうちにウマ娘の顔を強張らせた。そのコメントの主のアカウント名。そこには、見間違えるはずもない名前が記されていた。
――【アグネスタキオン】。
(……は? いやいや。ウマ娘のなりきりアカウント、か? いや、でもこのタイミングで、この口調……)
俺が内心で盛大に困惑していると。さらに、その少し下に、もう一つのコメントがスッと浮かび上がった。
『わぁ、カフェさんだ! こんばんわー! 100万人おめでとー!』
アカウント名――【カレンチャン】。
(…………っ!!!)
『…………えっ!?』
俺と、俺の肩越しに画面を覗き込んでいた空中のカフェ。二人は同時に息を呑み、信じられないものを見るように画面を見開いた。
(タキオン!? それに、カレンチャンまで!? おいおい、嘘だろ……もしかして、あっち(元の世界)から、この配信を『見れてる』のか!?)
大欅への接触と、100万人という次元を越えるためのエネルギーの蓄積。タキオンが言っていた『次元の壁が薄くなっている』という仮説は、どうやら俺たちの想像を遥かに超えた物理的(あるいは電子的)な干渉を引き起こしているらしかった。元の世界のタキオンの端末と、この世界の俺のスマートフォンが、謎の超次元ネットワークで繋がってしまっているのだ。
『……タキオン、さん……カレン、さん……』
空中のカフェが、口元を両手で覆い、感極まったように震える声を漏らした。なにせ、今までメッセージで繋がっていたとはいえ、それはあくまでスマホ上のアプリでのこと。ついに彼女たちと、配信というリアルタイムで繋がれたのだ。
今、次元の壁を越えて、この画面の向こう側から、自分の姿を見てくれている。その事実が、彼女の魂をどれほど救ったことだろうか。
俺は、驚きで固まりそうになる表情筋を必死にウマ娘のポーカーフェイスで制圧し、胸の奥から込み上げてくる熱いものをグッと飲み込んだ。
(……ああ。……全員、見てるなら。やることは一つだ)
俺は、ちゃぶ台の上のマグカップを、静かに持ち上げた。
「……ふふっ。どうやら」
俺が口を開くと、コメント欄の速度がスッと落ち、全員が俺の言葉に耳を傾けた。
「……遠いところからも。大切なお客様が、いらしてくれているようですね」
『遠いところ?』
『海外ニキか?』
『Hello from US!!』
『台湾からも見てるよー!』
『地球の裏側からも祝福してるぜ!』
視聴者たちは「海外からの視聴者」のことだと解釈し、各国の挨拶が飛び交い始める。それでいい。本当の『遠いところ(異次元)』の意味に気づいているのは、俺と、幽霊のカフェと、そして向こうの世界で見ている彼女たちだけだ。
「……それでは。皆様。準備は、よろしいですか?」
俺が呼びかけると、画面は一斉に、
『OK!』
『準備完了!』
『いつでもいける!』
というコメントで埋め尽くされた。
(……いくぞ、お前ら)
『はい……っ!』
「(コクコクッ!)」
「(ピョンピョン!)」
俺は、マグカップをカメラのレンズに向かって、ゆっくりと、高く掲げた。それに合わせるように、空中のカフェが俺の手にそっと自分の手を重ね、お友達と青影も、ちゃぶ台の上で見えないグラスを高々と掲げる。
四畳半の空間に、四つの魂が重なり合う。
「……100万人。本当に、ありがとうございました」
俺の口から紡がれるのは、日雇いのおっさんの心からの感謝と、ウマ娘マンハッタンカフェの魂からの感謝。
「……この奇跡のような出会いと。皆様の温かい心に」
――次元を越えて繋がった、すべての縁に。
俺は、この世界で一番美しい微笑みを浮かべ、静かに囁いた。
「……乾杯」
『乾杯!!!』
『かんぱーい!!!』
『おめでとうおおおお!』
『Cheers!!』
『かんぱーーーーい!!!!』
『かっふぇさん最高!!!』
【アグネスタキオン】:『乾杯だねぇ』
【カレンチャン】:『かんぱーい!』
100万人の視聴者と、異世界からのエール。
画面いっぱいに『乾杯』の文字が弾ける中、俺はマグカップに口をつけ、少しだけ冷めたマンデリンを喉の奥へと流し込んだ。
■
深い苦味と、その後に広がる甘いコク。
それは、ここまで泥臭く駆け抜けてきた日々の味であり、勝利の味であり、そして……いよいよ近づいてきた『別れ』への、確かな約束の味だった。