熱狂と極彩色のスーパーチャットに包まれた、伝説の100万人耐久配信。
カメラの電源を落とし、四畳半のボロアパートに再び静寂が戻った直後だった。
俺の手の中で、スマートフォンが、ブルリと大きく震え、尋常ではない熱を持ち始めた。
「ん……? なんだ?」
画面に視線を落とすと、今まで使っていたウマスタのSNSアプリのインターフェースが、まるで別のソフトウェアに乗っ取られたかのように激しく明滅し、見たこともない黄金色のエフェクトと共に一つの通知をポップアップさせた。
『レジェンドトレーナー到達!『100万人』のファン獲得を達成しました。新たな機能がアンロックされました』
「(……レジェンド、トレーナー?)」
呆然とする俺の目の前で、アプリの画面が全く新しいレイアウトへと再構築されていく。
そこには、今まで存在しなかった『スケジュール管理』『出走管理』『トレーニングメニュー』といった、本格的な専門的項目がズラリと並んでいた。そして、メッセージ機能の端には、燦然と輝く『ビデオ通話』という新たなアイコンが追加されている。
『……これは。……まるで、トレセン学園で配られる、本当のトレーナー用端末(アプリ)のようですね』
俺の肩越しに画面を覗き込んだカフェが、黄金の瞳を見開いて驚きの声を上げた。つまり、ただのSNSアプリが、100万人という途方もない観測者のエネルギー(ファン数)を吸収したことで、ついにウマ娘の世界の『概念』そのものをこの現実世界に顕現させたのだ。
「……ビデオ通話。文字だけじゃなく、映像が繋がるってことか?」
『どう、でしょうか。試しにタップしてみては』
カフェに促されるまま、俺はゴクリと唾を飲み込み、震える指でその真新しいアイコンをタップし、メッセージ欄にずっと居座っていた『アグネスタキオン』の名前を選択した。
―――プルルルルル……。
電子音が数回鳴る。
通話が拒絶されることも、エラーになることもない。そして、プツッ、という接続音と共に、俺のスマホの画面いっぱいに――薄暗い理科室のような背景と、白衣を着た見慣れたウマ娘の姿が、鮮明な映像として映し出された。
『やあやあ! カフェ! 久しぶりだねぇ! ……ああ、いや、今は四月一日君だったかな!』
画面の向こうから、底抜けに明るく、そして知的好奇心に満ち溢れたアグネスタキオンの声が、四畳半の部屋に響き渡った。文字だけではない。身振り手振りも、その瞳の怪しい輝きも、すべてがリアルタイムで繋がっている。
さらに、タキオンの横からヒョッコリと、可愛らしい栗毛のウマ娘が顔を出した。
『わぁ、カフェさんだ! こんばんわー!』
カレンチャンだ。彼女は画面に映る俺(マンハッタンカフェの姿)をまじまじと見つめ、困惑と好奇心が入り混じったような声を上げた。
『さっきの放送、タキオンさんと一緒に見てましたよ! 100万人おめでとうございます! ……あの、本当に、中におじさまがいらっしゃるんですか!? どう見ても、いつもの美しいカフェさんにしか見えないんですけど!?』
「……初めまして、だな。俺は四月一日。そっちで枯れ葉を掃いてる用務員の体の持ち主だよ。……カフェは今、俺の隣で浮いてる」
俺が、マンハッタンカフェのひんやりとした美しいウィスパーボイスで、中身のおっさん全開のぶっきらぼうな口調で答えると、画面の向こうの二人は見事に硬直した。
『……ふふっ、あはははは! これは酷い! 視覚と聴覚の不一致から来る違和感しかないねぇ! 改めて私はアグネスタキオンだ。よろしく頼むよ、四月一日君!』
『カレンはカレンチャンって言います! ……すっごい違和感ですね。頭がバグりそうです。でも、お二人が無事でよかったです!』
タキオンが腹を抱えて笑い、カレンチャンが頬を引きつらせながらもホッとしたように微笑む。そのやり取りを見守っていた空中のカフェは、
『……お久しぶりです、タキオンさん、カレンさん』
と、画面に向かって静かに、そして深く頭を下げた。映像には映っていないが、タキオンたちにはその気配が伝わっているようだった。
■
文字だけのやり取りから、声と映像を伴う明確な双方向の通信へ。
これは、もう、ただの機能追加ではないだろう。次元を隔てていた分厚い壁が、完全に薄皮一枚にまで削り取られたことを意味する、明確な進展だった。
『……さて。ここまで明確に通信ができるとなれば、いよいよ次元の壁と言えるものは相当薄くなっていることだろう。……それで、四月一日君。ポータルとなる大欅、次はいつ接触できそうだい?』
タキオンが笑いを収め、真剣な研究者の顔つきに切り替わって本題を切り出した。俺は、JRA理事長から許可を得た特別スケジュールのカレンダーを脳内で確認し、即答した。
「えーと、早ければ明後日だな。平日だが、貸切の手筈になっている」
『明後日……、と。それで、そちらの時間はいつだい?』
「朝の8時頃になる。完全に日が昇った時間帯だが、人は誰もいないはずだ」
俺の答えを聞き、タキオンは手元の端末で何かを素早く計算し、フムと顎を撫でた。
『ほうほう。こちらの次元との時差を逆算すると……ということは、こちらでの前日の……20時か。承知したよ。その時間に合わせて、四月一日君の体を連れて、我々も学園の裏山にある大欅の切り株の前に居る事にしよう』
『カレンも手伝いますからねー! お兄ちゃん(トレーナー)にも協力してもらって、絶対にお二人を帰してみせます!』
力強いカレンチャンの言葉に、俺は深く安堵の息を吐き出した。向こう側の受け入れ態勢は完璧だ。これ以上ないほど心強い。だが、その最終段階を前にして、俺にはどうしても拭い去れない『一つの懸念事項』があった。
「……ただ、心配事があるんだが」
『なんだい?』
「正直、次元の壁を越えたとして。俺の魂とカフェの魂……その入れ替わりみたいなものが、しっかりと元の鞘に収まる保証はあるのか? 下手したら、俺の魂がカフェの体に入ったまま向こうの世界に固定されちまうとか、逆に俺の体にカフェが入って現実に固定されちまうとか、そういう最悪のバグは起きないのか?」
これは重大な問題だった。もし入れ替わりが解除されなければ、俺は一生ウマ娘の体でトレセン学園を彷徨うことになり、最悪の場合、カフェは一生日雇い労働者のおっさんの体で現実世界を生きることになってしまう。
俺の深刻な問いに対し、タキオンは腕を組み、画面越しに少しだけ難しい顔をした。
『うーん、難しい質問だねぇ。正直なところ、観測データがない以上、実際に何が起こるかは不明だとも』
「……そっか。一発勝負ってわけだ」
『だが、一つだけ。極めて有力な仮説は立てられる』
タキオンは白衣のポケットからフラスコを取り出し、中に入った蛍光色の液体を揺らしながら目を細めた。
『ネオユニヴァースにも相談して、彼女の独特な宇宙的観点から意見をもらった結果だ。……四月一日君。君の元で実体化したという、『青影』の話を思い出してくれたまえ。あれは元々、大欅の底に渦巻いていた怨念や憎しみの一部だったのだろう?』
「ああ。そうらしい。無理やり引き抜いたら、愛とやらに反転して懐いてきたけどな?」
『それこそが答えだよ。次元の壁というものは、ある種のフィルターとして機能している。今回の場合、壁を越えさせる鍵は『愛』……つまり、強い縁や執着、肯定的な繋がりだ。ネオユニヴァースの言葉を借りるなら、憎(ゾウ)は超えられない。となれば、愛(アイ)である肉体と魂の結びつきは、次元の揺らぎの中で最も強く引かれ合い、元の場所へと収束する』
タキオンの言葉に、ちゃぶ台の上にいた青影が「自分の話だ!」と気づいたように、画面に向かってピョンピョンと飛び跳ねた。
『無論、カフェと彼女の『お友達』は、深い愛と絆の存在だから壁を超えられる。そして、四月一日君の魂も、本来の四月一日君の肉体(器)に対して絶対的な愛(帰属意識)を持っている。……つまり、境界線が溶け合った瞬間、四月一日君は自分の体に、カフェも自分の体に、磁石のように収まるべくして収まるはずだよ。加えて、各々の肉体と魂は、各々の世界に愛を持っていると考えられるからねぇ』
タキオンの論理的な説明に、俺とカフェは顔を見合わせ、深く納得したように頷いた。だが、そこでもう一つの問題が浮上する。
「……でも、それなら。今、俺の体に入っているあの『悪霊』的な存在はどうなる? 悪霊だと仮定した場合、あいつは純度100%の怨念と憎しみの塊だろ。向こうの世界からこっちの世界へは来られないかもしれないが、俺の体から弾き出された後、向こうの世界で暴走するんじゃないか?」
俺が最も危惧していたことを口にすると。
画面の向こうのアグネスタキオンと、俺の隣に浮かんでいるマンハッタンカフェが全く同じタイミングで、フッと不敵な笑みを浮かべた。
『「以前は遅れをとりましたが(とっただろうが)――二度目は、私(カフェ)と『お友だち』が、なんとかします(するだろうね!)」』
現実空間のカフェのウィスパーボイスと、スピーカーから流れるタキオンの自信に満ちた声が、見事にハモった。
「…………」
数秒の沈黙の後、俺は、ウマ娘の体で肩をすくめ、呆れたように苦笑いを漏らした。
「……仲いいな、お前ら」
離れ離れになって次元を隔てていても、互いの思考と実力を完全に理解し合っている最高の相棒たち。
悪霊の一匹や二匹、この静かで恐ろしいステイヤー(マンハッタンカフェ)と、マッドサイエンティスト(アグネスタキオン)のタッグにかかれば、もはや実験動物も同然なのだろう。
「わかった。……それなら、何も心配はいらねぇな」
俺は、ちゃぶ台の上のスマートフォンに向かって、そして隣のカフェに向かって、力強く頷いた。
明後日の朝8時。
全ての準備は整った。100万人の祈りと熱狂を背負い、俺たちはついに、あの『大欅』の根元で、次元を越える最後のレースへと挑む。