決戦を翌日に控えた、その日の午後。
俺は、今回の「マンハッタンカフェ現界騒動」ともいえる事件において多大なる尽力をしてくれた四人の大人たち――JRA理事長、企業の社長、プロモーターのS氏、そして中の人である声優のOさんと、都内の個室でテーブルを囲んでいた。
いよいよ明日、俺とカフェは、大欅を通してのウマ娘世界への帰還と身体の入れ替わりを試みる。それが成功すれば、この現実世界から『かっふぇ』という存在は完全に消失することになる。
つまり、彼らと俺達にとって、最後の挨拶の場だった。
■
「……そうか。いよいよ、明日かね」
JRA理事長が、少しだけ寂しそうに、しかし満足げな笑みを浮かべて頷いた。
「短い間だったが……本当に、良いものを見せてもらったよ。私の競馬人生において、これほどの奇跡に出会えるとはね」
「ええ。本当に良かったです。……まあ、おそらく二度とお会いすることは無いのでしょうけれど」
社長も、どこか名残惜しそうに紅茶のカップを置いた。
「できれば、またいつかお会いしたいものですな。……ああ、もし叶うなら、次はぜひ『フォーエバーヤング』のウマ娘にもお会いしてみたいものですが」
当代きっての競馬ファンでもある社長のジョーク交じりの願望に、俺の隣に浮かんでいたカフェが、ふふっ、と小さく笑った。
『……お約束は、できませんが。……もし、このアプリが、明日以降も生きていれば』
(……なるほどな)
カフェの言葉を受け取り、俺はポケットからスマートフォンを取り出した。そして、昨日100万人を突破したことで『レジェンドトレーナー用』へと変貌を遂げたウマスタのアプリ画面を、社長たちに向けてそっと見せた。
「……実は。このアプリを通じて、向こうの世界のタキオンさんたちと、直接連絡が取れるようになったんです」
俺の言葉に、社長とS氏が目を丸くする。
「……ですので。もし明日、私たちが無事に帰還して……落ち着いた後も、このアプリが次元を越えて動いていれば。……また、お話しできるかもしれませんよ」
俺がウマ娘の微笑みと共にそう約束を取り付けると、社長は、
「おおお……!」
と感極まったように天を仰ぎ、両手を合わせて深く感謝のポーズをとった。その様子を見て苦笑していたS氏が、ふと真剣な眼差しになり、俺を――いや、ウマ娘の皮を被った『俺(四月一日)』の内面を、真っ直ぐに見つめてきた。
「……明日。大欅での最後のアプローチ、我々も見届けさせていただきます。……それと、四月一日さんも、当然その場におられるんですよね?」
「……っ、……はい」
俺が頷くと、S氏は敏腕プロモーターらしい、しかしとても温かい笑みを浮かべた。
「であれば。……もし、四月一日さんがよろしければですが。すべてが終わった後、我が社に入社していただけませんか?」
「……え?」
日雇い労働者のおっさんの魂が、素っ頓狂な声を上げそうになる。
「なにせ、異世界から来た本物のウマ娘と数ヶ月も生活を共にし、彼女の一番の理解者として完璧なプロデュース(配信)を回していたわけですからね。……その経験と胆力は、我が社のエンタメ部門にとって喉から手が出るほど欲しい逸材ですよ」
それは、元の底辺生活に戻るはずだった俺への、これ以上ないほどの救いであり、最高の餞別だった。まさかの大企業からのスカウトに俺が言葉を失っていると、今度は隣に座っていたOさんが、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら立ち上がった。
「かっふぇさぁぁん……っ!!」
「わっ!?」
Oさんが、俺の身体にガバッと勢いよく抱きついてきた。中身が三十路のおっさんである俺は、見目麗しい女性声優からの突然のハグに「(おいおいおいヤバいって!!)」と猛烈に躊躇し、両手を宙で泳がせた。
―――だが。
「(……コクッ)」
視界の端で、空中のカフェが、優しく微笑みながら頷くのが見えた。
『最後くらい、彼女の想いに応えてあげてください』
という、本物のマンハッタンカフェからの許可だ。それを見た俺は、ウマ娘のたおやかな腕をゆっくりと下ろし、泣きじゃくるOさんの背中を、ポン、ポン、と優しく撫でた。
「……最高の、日々でした。短い間でしたけど……生きている、本物のカフェちゃんと一緒にいられて……私、本当に幸せでしたっ!」
「……泣かないで、ください。……Oさんが魂を吹き込んでくれたからこそ、私は、ここに存在できたのですから。……本当に、ありがとうございました」
俺がカフェの想いを完璧に代弁して囁くと、Oさんはさらに声を上げて泣き崩れ、俺の胸元を涙で濡らしていた。しんみりとした、しかしとても温かい別れの空気。それを心地よく見守っていた理事長が、ふと豪快に笑い声を上げた。
「はっはっは! まあ、なんだ! もし明日、万が一にも帰れなかった時は、安心してくれたまえ!」
理事長は、ドップリと構えた頼もしい態度で親指を立てた。
「君たちがこの世界に留まることになっても、JRAと彼ら(企業)で、君たちの生活と練習環境はしっかりとバックアップするからね! 安心して、明日のラストランに挑んでおいで!」
日本競馬のトップと、大企業の社長という、現実世界における最強の後ろ盾。これほど心強いセーフティネットはないだろう。
「……ふふっ。皆様、本当に……ありがとうございます」
俺と、空中のカフェ、そして足元のお友達と青影は、四人の大人たちに向かって、深く、深く感謝の頭を下げた。
「さて! 湿っぽい話はここまでにして、ひとまずは100万人達成の打ち上げと行きましょう!」
S氏がパンッと手を叩いて場を仕切り直す。
「かっふぇ様、何が食べたいですか? もちろん、お代は全額社長持ちです!」
「えっ!? あ、ああ、もちろん出そう! 何がいいかね!?」
突然のキラーパスに慌てる社長を見て、俺とカフェは顔を見合わせ……同時に、同じ答えを導き出した。
「……それでは。お言葉に甘えて」
俺は、ウマ娘の可憐な唇の端をペロリと舐め、最高の笑顔で宣言した。
「……特上の焼肉を、限界まで」
こうして。
決戦前夜の東京の夜は、ウマ娘のブラックホールのような胃袋を満たすための、大人たちの悲鳴と笑い声に包まれた『狂乱の焼肉パーティー』として、賑やかに更けていったのだった。
■
極上の和牛が網の上で爆ぜる、鼓膜をくすぐるような至福の音。琥珀色の間接照明に照らされた、都内でも有数の超高級焼肉店のVIP個室。その中央に鎮座する無煙ロースターを囲むように、スマートフォンが三脚にセットされていた。
「……どうも。かっふぇ、です」
ひんやりとしたウィスパーボイスと共に、配信がスタートする。画面に映し出されたのは、いつものダボダボな私服姿だ。
それは、どこかリラックスした表情を浮かべるマンハッタンカフェの姿そのものだった。
配信開始からわずか数秒。100万人という途方もない登録者数を抱えるアカウントの通知は、深夜のSNSに凄まじい大津波を引き起こした。
『うおおおおおおおお始まった!』
『かっふぇさんこんばんは!!』
『ゲリラ配信きたああああ!』
『100万人達成後の初配信! 待ってたぞ!』
『こんな時間に焼肉テロとかふざけんな(白米用意しながら)』
『始まったよかっふぇの大食い配信。見てて気持ちいいよなぁ』
『今日はどこで食べてんの? めっちゃ高級そうな個室だけど』
『ていうか……えっ?』
『ちょっと待って、後ろに誰かいない?』
滝のように流れていたコメントが、ふと、画面の端に映り込んだ「同席者」たちの姿に気づき、ざわめき始めた。
「……ふふっ。今日は、100万人の打ち上げ、です。……せっかくですので、皆様にもこの楽しい席のお裾分けを、と思いまして」
俺がカメラに向かって少しだけ首を傾げると、隣に座っていたOさんが、満面の笑みで画面に身を乗り出してきた。
「みんなー! こんばんわーっ! マンハッタンカフェ役の、Oでーす! 今日はかっふぇさんの100万人記念ということで、特別にお邪魔しちゃってまーす!」
『ファッ!?!?!?』
『Oさん!?!?!?中の人いるじゃねーか!!』
『え、マジで!?プライベートの打ち上げ!?』
『声優とご本尊(?)が一緒に飯食ってんの!?』
『次元のバグが起きてるぞおいww』
Oさんの登場だけでパニックに陥るコメント欄。だが、驚愕はそれだけでは終わらない。カメラの画角が少しだけ広がり、テーブルの反対側に座るスーツ姿の男たちが映し出される。
「どうも皆様、いつもかっふぇを応援していただきありがとうございます。公式プロモーション担当のSです」
「いやはや、皆様こんばんは。……企業の代表を務めております。本日は私がスポンサーとして、かっふぇさんに好きなだけお肉を振る舞う所存です!」
『は??????』
『社長!?!? あの大企業の社長直々!?』
『Sさんもいる!』
『え、待って。公式のトップとプロモーターと中の人が揃ってるって、これもうただの公式番組じゃん!!』
『かっふぇさん何者だよマジでww』
『VIPすぎる』
そして、最後に、網の上で分厚いシャトーブリアンをトングでひっくり返しながら、初老の紳士が豪快に笑い声を上げた。
「はっはっは! いやぁ、こんな風に若者たちの集まりに混ぜてもらえるとは、私もまだまだ若いね! こんばんは、競馬ファンの皆様! JRA理事長です!」
画面の向こう側の100万人が、完全に息の根を止められた瞬間だった。
『…………………………………………は?』
『!?!?!?!?!?!?!?』
『JRAの理事長!?!?!?』
『本物じゃねーか!!!!!!!!』
『日本競馬のトップがなんでここにいんだよ!!!!』
『脳みそ処理落ちした』
『俺たちのかっふぇさん、国家規模の権力者と焼肉食ってて草』
『メンツがエグすぎるwww』
『どんな豪華なメンツと飯食ってんの!?』
『大企業の社長とJRA理事長を両脇に従えて焼肉を食うウマ娘(事実)』
完全に機能不全に陥ったコメント欄を眺めながら、俺は「いただきます」と小さく手を合わせ、目の前にうずたかく積まれた『特上カルビ』の山へと箸を伸ばした。
ジュウウウウウウウッ!
甘い脂の香りが個室に充満する。俺は、絶世の美少女の顔のまま、限界まで焼き上げられた肉を3枚ほどまとめて掴み、タレにダイブさせ、そのまま大盛りの白米と一緒に口の中へとかき込んだ。
「……んっ。……美味しい、です」
『相変わらずの喰いっぷりwww』
『このメンツを前にして一切物怖じせず肉を食う女』
『いやーすげぇわマジで』
『いっぱいたべるかっふぇが好き』
『Oさんが横でずっとニコニコしながら肉焼いてあげてるの尊い』
『理事長がめっちゃ嬉しそうに肉の皿パスしてて草』
『社長、財布の中身大丈夫か?w』
「かっふぇさん! 次はハラミいきますか!? タン塩もありますよ!」
「……ええ。いただきます、Oさん。……あ、そこのサンチュも」
Oさんが甲斐甲斐しく焼いてくれた肉を、俺は次から次へとブラックホールのようなウマ娘の胃袋へと吸い込ませていく。日雇い労働者の悲しい性か、奢りと聞けば限界まで食わねば損だという思考が働き、さらにウマ娘の尋常ではない基礎代謝がそれを完全にバックアップしているため、箸の動きは一切の淀みを見せない。
「いやぁ、見事な食べっぷりだ! まるでレース後の名馬を見ているようだね! どんどん食べなさい!」
「ふふっ、理事長、あまり煽らないでください。……とはいえ、今日は無礼講です。お店の在庫が尽きるまで頼んで構いませんからね!」
「……お言葉に甘えまして。すいません、この『5人前特盛りプレート』、あと3つ追加で」
俺が店員を呼んでサラリと告げると、コメント欄が再び加速した。
『おい嘘だろwww』
『すでに5人盛りを3皿食ってるんだよね? 追加で5人前を三つ? 化け物かな?』
『胃袋どうなってんの!?』
『次元のポケットでも繋がってんのか』
『大食い系の配信者でももっと苦しそうに食うぞ』
『顔色一つ変えずに優雅に食ってるのが本当に怖い』
『社長の顔が一瞬引きつったのを見逃さなかったぞ俺は』
『Sさんがすかさず伝票隠してて草』
「……化け物とは、失礼な」
俺は、流れていくコメントを拾い上げ、口元のタレをペーパーで優雅に拭いながら、カメラに向かって冷ややかな、それでいて悪戯っぽい視線を向けた。
「……まだまだ、お腹の容量の半分もいってませんよ。……これからが、本番です」
そのクールな宣言に、個室の中は爆笑に包まれ、コメント欄も狂喜乱舞の弾幕で埋め尽くされた。
『すげぇこと言ったああああああああ!!』
『流石はかっふぇ様!!』
『俺たちの胃袋の限界を超えてゆけ!』
『牛一頭食い尽くす気だぞこの娘!』
『かっふぇさんカッコよすぎる』
『いっぱい食べる君が好き(100万人の総意)』
「あはははは! かっふぇさん、やっぱすごいなぁ! 私なんてお腹いっぱいになっちゃいましたよ!」
Oさんが笑い転げながら、自分のウーロン茶のグラスを傾ける。
S氏も苦笑いしながら、タブレットで次々と追加の肉を注文している。
理事長は、まるで孫の成長を喜ぶ好々爺のように目を細めて。
社長は「経費……いや、安い投資だ!」と己に言い聞かせるようにウンウンと頷いていた。
■
(……美味い。こんなに美味い肉を、こんなに笑いながら食える日が来るなんてな)
俺は、ハラミを噛み締めながら、ふと視線を宙へと向けた。
カメラには映っていないが。
俺のすぐ隣の空中で、本物のマンハッタンカフェが、まるで自分も一緒に味わっているかのように、目を閉じて幸せそうに微笑んでいた。足元では、お友達と青影が、テーブルの下でキャッキャとじゃれ合いながらエア大食い競争を繰り広げている。
四畳半のボロアパートで、いきなりカフェの体になって、どうしようかと途方に暮れたあの日々から。
100万人の熱狂と、日本のトップクラスの大人たちに囲まれ、笑い合いながら極上の肉を喰らう、この奇跡の夜へ。
『かっふぇさん、本当に楽しそう』
『こういうわちゃわちゃした配信、一生見てたいわ』
『全員がかっふぇさんのこと大好きなのが伝わってくる』
『最高のチームだな』
『ずっとこのメンバーで番組やってくれないかな』
画面を埋め尽くす、温かい言葉の数々。
『明日からも配信楽しみにしてるよ!』
という無邪気なコメントに、俺の胸の奥がほんの少しだけチクリと痛む。明日、大欅を越えれば、世界の壁を越えてしまえば、もう二度と、このアカウントから配信が行われることはない。この楽しい時間も、この仲間たちとの笑い声も、すべては幻のように現実世界から消え去ってしまう。
だが、だからこそ―――。
この最後の夜は、
最高に楽しく、
最高にバカバカしく、
一瞬の曇りもない、
笑顔で、締めくくらなければならない。
「……Sさん。あの、一番高いシャトーブリアン。もう一枚、いいですか?」
俺が、ウマ娘の顔で少しだけ上目遣いになりながらおねだりすると。
「もちろんです! 店長! シャトーブリアン、あるだけ全部持ってきてください!」
「S君!? 私のクレジットカードの限度額を知っての狼藉か!?」
「社長! 100万人ですよ! ここでケチっては企業のメンツに関わります!」
「はっはっは! 足りなければ私が奢ろう! さぁ、食え食え!」
「かっふぇさーん! あーんしてあげますから、お口開けてくださーい!」
大人たちの愉快な大立ち回りと、Oさんの限界突破したファンサービスに、俺は思わず声を出して笑ってしまった。
「……ふふっ、あははっ! ……ええ、いただきます。全部、残さず」
『社長とSさんのコントww』
『理事長の太っ腹すぎる発言』
『Oさんそこ代われ!!』
『かっふぇさんが声出して笑った! レアすぎる!!』
『最高の笑顔だ』
『永遠に終われんなこの配信』
『みんな、限界まで肉食おうぜ!!』
網の上で脂が跳ね、グラスが触れ合う音が響く。100万人の視聴者からの祝福のコメントが、光の雨のように降り注ぎ続ける。
俺と、カフェと、二つの影。
そして、この世界で出会った、最高に優しくてお節介な大人たち。
次元の壁を越える最後の試練を明日に控え。
「かっふぇ」としての最後の夜は、とめどない笑い声と、狂気的な量の焼肉の煙に包まれながら、いつまでも、いつまでも賑やかに続いていったのだった。