薄ぐもりだったガラス窓の向こうが、ゆっくりと白み始めていた。
四畳半のボロアパートに、冬の朝特有の、肺の奥まで凍りつくような冷たい空気が忍び込んでくる。遠くで、始発から数本目の電車の規則正しいジョイント音がガタン、ゴトンと鳴り響き、やがて朝の静寂の中へ溶けていった。
いつもなら、安物の毛布にくるまってギリギリまで二度寝を貪る時間だ。しかし今朝は、目覚まし時計が鳴るよりもずっと早く、自然と目が覚めていた。
(……朝、か)
薄っぺらい万年床から身を起こし、俺は小さく息を吐いた。
白い呼気が、冷え切った部屋の空気に溶けて消える。
隣を見れば、宙にはマンハッタンカフェが静かに目を閉じてまどろんでおり、足元の畳の上では、オリジナルのお友達の影と青影が、二匹団子のように丸まって静かな寝息(のようなもの)を立てていた。
今日。
あと数時間後には、俺たちはあの『大欅』の前に立つ。次元の壁を越え、この奇妙な共同生活を終わらせるための、最後の日。
(……腹が減っては、戦はできねぇからな)
俺は音を立てないようにそっと立ち上がり、パーカーを羽織って、狭い土間にある流し台の前に立った。
水道の蛇口を捻ると、手が切れそうなほど冷たい水が流れ出す。その水で顔を洗い、ウマ娘の美しい顔をシャキッと引き締めると、俺は使い慣れた片手鍋に水を張り、コンロの火をつけた。チチチチ……ボッ、と。青い炎が上がり、狭いキッチンに微かな温もりが生まれ始める。
やることは、いつもと変わらない。
日雇い労働でボロボロになっていた頃は、朝飯なんて水で流し込むカロリーメイトか、コンビニの安いパンで済ませていた。だが、このウマ娘の身体に入り、彼女たちと同居するようになってからは、不思議と『ちゃんと朝飯を作ろう』という気力が湧くようになっていた。
冷蔵庫を開け、卵を四つ取り出す。スーパーの特売で買った、徳用のウインナーの袋を開ける。まな板の上で、ネギをトントンと小気味良いリズムで刻んでいく。
隣のコンロで熱した古いフライパンに油を引くと、ジュワァァァッ!という心地よい音と共に、油の焼ける香ばしい匂いが弾けた。そこへ卵を落とし、隙間にウインナーを転がす。パチパチと油が跳ねる音は、まるで小さな焚き火のようだ。鍋のお湯が沸騰したのを見計らって、顆粒の和風だしを入れ、乾燥わかめと刻んだネギを放り込み、最後に味噌を溶き入れる。
炊飯器からは、炊きたての白米の甘い香りが漂ってきた。
「……よし、出来たぞ」
俺は火を止め、四つの丸いお椀に白米をふんわりと盛り付けた。お椀に熱々の味噌汁を注ぎ、四つの平皿に、縁がカリッと焼けた半熟の目玉焼きと、皮が弾けそうにパンパンに張ったウインナーを二本ずつ乗せていく。
お盆に乗せて四畳半の部屋へと運び、年季の入ったちゃぶ台の上に、一人分、二人分、三人分、四人分……と、丁寧に並べていく。カチャリ、と食器がぶつかる微かな音で、部屋の同居人たちが目を覚ました。
『……ん、……おはようございます。四月一日さん』
「(おはよう!おはよう!)」
カフェが空中でふわりと身を翻し、黄金の瞳をゆっくりと開く。足元では、お友達と青影が「朝ご飯だ!」とばかりにパタパタと跳ね回り、自分の定位置であるちゃぶ台の縁へとスルスルと移動した。
俺は、自分の席である座布団に腰を下ろし、三人の同居人たちを見渡した。
「……おはよう。……さぁ、おあがりください」
俺が両手を合わせてそう促すと。カフェは優雅な所作で『いただきます』と両手を合わせ、二匹の影たちも、見えない手を合わせてペコリと頭を下げた。俺は箸を割り、ホカホカと湯気を立てる白米を一口頬張った。
「(……美味い)」
炊きたての米の甘み。目玉焼きの黄身に箸を突き立てると、トロリと濃厚な黄金色が流れ出し、醤油と絡み合って白米をコーティングしていく。それを一気にかき込み、すかさずウインナーを噛み千切る。パリッ、という心地よい食感と共に、溢れ出す肉汁と塩気が口いっぱいに広がった。そこへ、ネギとわかめのシンプルな味噌汁を流し込むと、冷え切っていた胃袋の底から、じんわりとした確かな熱が全身へと巡っていく。
ふと前を見れば、物理的な食事を必要としないはずのカフェが、俺が食べている様子を見つめながら、まるで自分も一緒に味わっているかのように、幸せそうに目を細めていた。
影たちも、自分たちの前にあるお皿に向かって、見えない箸を動かして一生懸命に『食べている』。
誰も言葉を発しない。響くのは、俺が咀嚼する音と、食器が小さく鳴る音、そして時折聞こえる車の走行音だけだ。
今日が、4人でいる、この世界での最後の日だというのに。
これから、次元を越えるという途方もないオカルト現象に挑むというのに。
この四畳半の朝は、あまりにも静かで、あまりにも『普通』だった。
悲壮感もない。気負いもない。ただ、美味しい朝ご飯を食べて、今日一日を生きるための準備をしている。だが、その『いつもの光景』が、今の俺には、何百万円もの高級なディナーよりも、昨日の豪華な焼肉よりも、ずっとずっと贅沢で、尊いものに感じられた。
(……この部屋でカフェが飯を食うのも、これが最後なんだな)
日雇いの底辺だった俺が、一人で孤独に飯を食っていたこの狭い部屋。
そこに、異世界から美しいウマ娘の幽霊がやってきて。
不思議な影が住み着いて。
いつの間にか、朝ご飯は『四人分』作るのが当たり前になっていた。
食事を終え、俺は『ごちそうさまでした』と手を合わせた。カフェたちも同じように手を合わせる。俺はお皿を片付けると、流し台でサッと洗い物を済ませ、そのまま流れるように『次のルーティーン』の準備に取り掛かった。
お湯を沸かし、手動のコーヒーミルをちゃぶ台へと持ってくる。保存瓶から深煎りの豆を取り出し、ホッパーに流し込む。そして、ハンドルを握り、ゆっくりと回し始めた。
――コリ……コリ……コリリ……。
豆が砕ける小気味良い音が、静かな四畳半に響き渡る。この数ヶ月間、雨の日も風の日も、そして昨日の100万人達成の瞬間でさえも、俺たちはこうして珈琲豆を挽いてきた。ハンドルの重み、指先に伝わる振動、そして部屋を満たしていく芳醇な香り。
その一つ一つの感覚を、俺は自分の魂に深く刻み込むように、いつもより少しだけ時間をかけて、丁寧に、丁寧に豆を挽き続けた。
ドリッパーに粉をセットし、細くお湯を注ぐ。シュワァァ……と、珈琲の粉が呼吸をするようにドーム状に膨らみ、最も濃密な香りを放つ。最後の一滴が落ちるのを待ち、俺は、ちゃぶ台の上に置かれた『四つのマグカップ』に、琥珀色の液体を均等に注いでいった。
一つは、俺が昔から使っている、何の変哲もない百円均一のマグカップ。
一つは、カフェのイメージに合わせた、少しだけ上品な黒い陶器のカップ。
一つは、お友達のために用意した、小さな耐熱グラス。
一つは、青影が来た時に買い足した、少しだけ青みがかったマグカップ。
四つのカップから、真っ白な湯気が、冬の朝の冷たい空気の中へ、真っ直ぐに立ち昇っていく。
「……おあがりください」
俺がカップをそれぞれの前へと押し出すと、カフェが、空中でそっと両手でカップを包み込むような仕草をした。
『……いただきます。四月一日さん』
その声は、いつになく優しく、そして微かに震えていた。
俺は自分のマグカップを持ち上げ、ふう、と息を吹きかけてから、ゆっくりと口に含んだ。ガツンとくる深い苦味と、その奥に隠れた確かな甘み。いつも通りの、完璧な一杯だ。
カフェも、お友達も、青影も。それぞれのカップの前に陣取り、昇る湯気の香りを楽しみながら、静かに、ゆっくりと『最後の珈琲タイム』を味わっている。
別れの朝の、特別な儀式なんて何もない。ただ、朝飯を食って、珈琲を飲む。そんな、どこにでもある当たり前の日常の風景。
だが、マグカップから立ち昇る湯気越しに見る彼らの姿は、冬の朝の光に照らされて、ひどく美しかった。言葉はいらない。この数ヶ月間、共に過ごし、共に笑い、共に戦ってきた四つの魂は、この静かな珈琲の香りの中で、すでに完全に一つに結びついていた。
やがて、俺がマグカップの最後の一口を飲み干し、コトリ、とちゃぶ台にカップを置いた。
その微かな音を合図にするように。
空中のカフェが、静かに目を開き、真っ直ぐに俺を見つめた。二匹の影たちも、遊ぶのをやめ、キリッとした姿勢で俺を見上げる。
俺は、小さく息を吸い込み、ウマ娘の美しい顔に、ふっと力強い笑みを浮かべた。
「……美味かった。ごちそうさん」
俺はゆっくりと立ち上がり、傍らに置いていた、あのダボダボのオーバーサイズのシャツと、パラシュートパンツを手に取った。昨日、100万人のファンを熱狂させた、俺たちの原点の姿だ。それを身に纏い、深くニット帽を被る。ポケットの中に、あの『蹄鉄の破片』が確かに入っていることを指先で確認し、俺はボロアパートの薄っぺらいドアノブに手をかけた。
「……行くか」
俺の短い問いかけに、カフェが、ふわりと俺の隣に寄り添い、確かな意志を込めて頷く。
『……はい』
足元では、二つの影が、元気よく飛び跳ねて後に続く。
静かで、温かくて、最高に贅沢な朝の時間を背にして。
俺たちは、次元の扉が開く場所――府中の大欅へ向けて、最後の扉を開け放った。