冬の透き通るような青空の下、朝の陽光に照らされた東京競馬場は、どこまでも静かで、そして神聖な空気に包まれていた。
何万人もの大観衆を飲み込む巨大なスタンドには誰もいない。吹き抜ける風の音と、時折遠くから聞こえる野鳥のさえずりだけが、広大な敷地に響いている。
■
関係者用のゲートを抜け、コース脇の芝生の手前までやってきた俺を出迎えたのは、昨夜の焼肉の熱狂を共に分かち合った、見慣れた大人たちだった。
「やあ、おはよう。いよいよだね」
「おはようございます。かっふぇ様」
パリッとしたスーツを着こなした社長が、どこか現実感の薄い、夢の続きを見ているような顔で頭を下げた。その隣では、S氏がタブレットを抱えながら、深く、敬意を込めた一礼をする。
「おはよう、かっふぇ君。ついにか」
JRA理事長が、コースの奥にある『大欅』へと視線を向けながら、感慨深げに呟いた。
「ええ。……いよいよ、です。皆様、朝早くから本当にありがとうございます」
俺がウマ娘のたおやかな所作で一礼すると、少しだけ目が赤いOさんが、大きなバスタオルを両手でギュッと握りしめながら前に出た。
「かっふぇさん……。私、今日は絶対に泣かないって決めてきたんです。だから、バスタオルもただの防寒用ですからね……っ」
「……ふふっ。鼻声になっていますよ、Oさん」
俺が苦笑して優しく指摘すると、Oさんは、
「うぅ……っ」
と小さく唸って俯いてしまった。
「いやはや。昨日の焼肉の席でも話しましたが、私はいまだに、これが現実の出来事なのかどうか、半分疑っている自分がいるんですよ」
社長が、肩をすくめて苦笑交じりに語り始めた。
「異世界からウマ娘がやってきて、ボロアパートで配信をして、100万人のフォロワーを集めて、大欅から元の世界へ帰っていく……。どんな優秀な脚本家でも、こんな荒唐無稽でバカバカしいは書けませんからね」
「ですが社長、数字は間違いなく現実です。……先ほど確認しましたが、フォロワー数は現在105万人。昨日の配信のアーカイブも異常な再生数を叩き出しています。……かっふぇ様、貴女は間違いなく、この現実世界のSNSにおける伝説(レジェンド)になりました」
S氏が、プロモーターとしての誇りを滲ませた熱い声で言い切る。
「……伝説、ですか。……私はただ、この世界で少しだけ、目立ってしまっただけですよ」
俺が謙遜して目を伏せると、JRA理事長がハッハッハと豪快に笑った。
「目立ったどころの騒ぎじゃないさ! 君のその走りは、日本競馬界の常識を心地よく破壊してくれた。……今日は、ターフの整備は一切行わせていない。芝の長さも、土の硬さも、ありのままの『府中』だ。存分に、君の足跡をこのコースに刻んでいってくれたまえ」
「……お心遣い、感謝します、理事長」
俺は、足元に履いていた『い草のサンダル』を脱ぎ捨て、冬の冷たい芝生の上に、素足を下ろした。チクリとした芝の感触が、足の裏から脳髄へと伝わり、ウマ娘の闘争本能をゆっくりと目覚めさせていく。
(……さて、行くか)
『……はい』
空中のカフェが静かに頷き、お友達と青影も、俺の足元にピタリと寄り添う。
俺は、四人の大人たちに向かって、もう一度、深く頭を下げた。
「……皆様。本当にお世話になりました。……いただいたご恩と、この世界での思い出は。……決して、忘れません」
「……ええ。かっふぇ様のご武運を、心より祈っております」
「どうか、お気をつけて。……元の世界に戻られたら、存分に走ってくださいね」
「かっふぇさぁぁん……っ! 大好きですぅぅ……っ!」
泣き崩れるOさんの背中をS氏が優しく撫でる。俺は、ウマ娘のミステリアスで、しかしこの上なく温かい微笑みを浮かべた。
「……では。……またいずれ、お会いしましょう」
その言葉を最後に、俺は大人たちに背を向け、広大な東京競馬場のターフ(芝コース)へと、完全に足を踏み入れた。
ザッ、ザッ。
素足で芝を踏みしめながら、スタート地点へと向かって歩き出した、そのタイミングだった。
――プルルルルルッ!
ダボダボのオーバーサイズシャツの胸ポケットに入れていたスマートフォンが、甲高い電子音を鳴らした。画面を見れば、昨日アンロックされたばかりの『ビデオ通話』の通知。相手は、アグネスタキオンだ。
俺は立ち止まり、通話ボタンをタップして画面を顔の前に掲げた。
『やあやあ、四月一日君! そしてカフェ! 聞こえているかい?』
画面に映し出されたのは、トレセン学園の中庭と思わしき場所と、そして、見慣れた白衣姿のアグネスタキオンだった。
「……ああ。問題ないさ。声も映像もクリアだ。予定通り、今コースに出たところだ」
『素晴らしい! ……約束通り、こちらは四月一日君の体を大欅の切り株の元に連れてきたよ。そちらはどうだい? 準備はいいかい?』
「こっちもバッチリだ。あとは、あのデカい木に向かって走るだけだ」
俺の答えを聞き、タキオンは満足げに深く頷いた。
『承知したよ。……ふむ。次元の壁が限界まで薄くなっているとはいえ、何が起きても可笑しくはないからね。……では、この通話は繋いだままで走ってくれたまえ』
「……繋いだまま? このスマホを持ったまま走れってのか?」
『ああ。この通信自体が、お互いの世界を繋ぐ細い『糸』になっている。少しでも次元の壁を繋げておいた方がいいだろう? よしなに頼むよ』
(無茶苦茶言うぜ。まぁ、胸ポケットにねじ込んでおけば落ちないか)
俺が胸ポケットのボタンを開けようとしていると、ふと、ある好奇心が頭をもたげた。
「……あ、そーいやタキオン。ちょっと、俺の顔(体)見せてくんね?」
『ん? ああ、構わないとも。ほら』
タキオンが、スマートフォンのカメラの向きをグルリと反転させた。そこに映っていたのは。
「はなせっ! はなせっ!! アアアアアアアアアアアアーッ!!」
『だめですよ、お兄ちゃんっ! 大事な、大事な時なんですからね! じっとしててください!』
「(……ブッ)」
俺は、危うく吹き出しそうになるのを必死に堪えた。画面の向こうでは、俺の本来の身体である『無精髭の生えた、日雇い労働者の冴えないおっさん』が、悪霊と思われる何か、に操られて暴れ狂っていた。しかし、そのおっさんの両肩を背後からガッチリとホールドし、満面の笑みで微動だにさせないように押さえ込んでいるのは、可憐で小柄なウマ娘――カレンチャンだった。
成人男性が本気で暴れているのに、ウマ娘の腕力の前では赤子のように無力化されている。それはなんともシュールで、情けなくて、そして見慣れた自分の『本来の姿』だ。
「……ははん。紛れもなく、本当に俺だよ。安物のスウェット着て、小娘に羽交い締めにされて……全く、馬鹿げてやがるぜ」
俺がウマ娘のハスキーな声で、心の底からの苦笑いを漏らす。
『……ふふっ。ですが、あれが、四月一日さんの本当の『器』なのですね。……早く、返してあげなくては』
空中のカフェが、暴れる俺の身体を見て、愛おしむような、そして決意に満ちた声を上げた。
「……ああ。そうだな。今すぐ、返してもらいに行く」
俺は、スマートフォンを『オーバーサイズシャツ』の深い胸ポケットに滑り込ませた。カメラのレンズだけが外を向くように調整し、ボタンをしっかりと留める。これで、向こうの世界のタキオンたちにも、俺の視点(進行方向)の映像がリアルタイムで共有されるはずだ。
「……タキオン、カレンチャン。そっちも、頼んだぞ」
『ああ! 任せたまえ!』
『お兄ちゃん、カフェさん! 待ってますからねーっ!』
胸元から聞こえる頼もしい声に背中を押され。
俺は、東京競馬場の芝コースの中央に立ち、大きく、深く、冷たい空気を肺の底まで吸い込んだ。
「……すぅぅぅぅぅ……っ」
泣いても笑っても、事態はこれで大きく動く。
元の世界に帰れるのか、それとも次元の狭間に消えるのか。それとも、何も起きないのか。結果は誰にもわからない。だが、この足で前に進まなければ、何も始まらない。
重心を落とし、両手を芝生に添える。
マンハッタンカフェの、地を這うような独特のクラウチングスタートの姿勢。
ウマ娘の強靭な筋肉が、限界まで張り詰め、爆発の時を待つ。
「……行くぞ、カフェ、お友達、青影」
『はい……! 私たちの、全てを懸けて!』
「(コクコクッ!!)」
「(ピョンピョンッ!!)」
四つの魂が、完全にシンクロした瞬間。
――俺は、ふと、視線だけを動かして、コース脇のフェンスの外をちらりと見た。
そこには、バスタオルに顔を押し当てて号泣しているOさん。
タブレットを握りしめ、祈るように見つめるS氏。
腕を組み、真剣な眼差しでこちらを真っ直ぐに見据える社長と、JRA理事長。
「……ありがとな」
俺は、彼らへ向けて、心の中で最高の別れの言葉を告げながら。小さく、一度だけ力強く頷いた。
そして。
――ダンッ!!!
静寂の東京競馬場に、素足が芝と土を爆発的に蹴り砕く音が轟いた。
漆黒の影が、一陣の冬の風となって、遥か彼方の『大欅』へ向けて、矢のように解き放たれた。