冬の冷たく張り詰めた空気を、暴力的なまでの速度で引き裂いていく。
素足が府中の分厚い芝を捉え、蹴り砕き、爆発的な推進力へと変換する。
一歩、また一歩と踏み出すたびに、足の裏から強靭なふくらはぎ、太もも、そして背筋へと、ウマ娘という種族が持つ異常なバネが連動し、俺の身体を矢のように前方へと弾き出していった。
風の音が、鼓膜で轟音に変わる。ダボダボのオーバーサイズシャツが強風を孕んでバタバタと激しく暴れ、パラシュートパンツが漆黒の帆のように膨らむ。目深に被っていた年季の入ったニット帽は、走り出して数秒もしないうちに風圧で吹き飛ばされ、冬の青空の下に、美しい濡れ羽色の長い髪と、黒いウマ耳が露わになった。
「……速えなぁ。やっぱり、何度走ってもとんでもねぇ身体だっ!」
日雇い労働で自らを酷使してきた三十路の男の魂が、絶世の美少女の肉体を完璧にコントロールし、ターフの上を滑空するように駆け抜けていく。
傍らには、俺の走りにピタリと並走する二つの影。
一つは、純黒の輪郭を持つ『お友達』。
もう一つは、青い靄を纏いながら楽しそうに宙を蹴る『青影』。
現実世界の物理法則を完全に無視した二つの影を従え、俺はただひたすらに、己の身体が求める最高速度へとギアを上げていった。
スタンドには誰もいない。数万人を収容できる巨大なコンクリートの建造物は、ただ静かに一人のウマ娘の孤独な疾走を見下ろしている。だが、ウマ娘の異常に発達した聴覚は、コース脇に残してきた大人たちの声を、風に乗せて確かに拾い上げていた。
『……ああ。奇麗だなぁ……』
フェンスにしがみつき、バスタオルを握りしめたまま、Oさんがぽつりと漏らした感嘆の吐息。涙で視界を滲ませながらも、彼女はその瞳に、自分が命を吹き込んだキャラクターの、あまりにも美しく、生命力に溢れた走りを焼き付けようと瞬きすら忘れていた。
『ええ。本当に……。我々は今、とんでもない奇跡の目撃者になっている』
S氏が、手元のタブレットを下ろし、ただただ呆然とそのシルエットを見つめている。プロモーターとして常に冷静な彼でさえ、今の俺の走り――100万人の熱狂を背負い、次元の壁を穿とうとする『魂の質量』を前にしては、言葉を失うしかなかった。隣の社長も、口を半開きにしたまま、深く、深く頷いている。
『はっはっは! いやはや、まったく!』
遠ざかる俺の背中を見送りながら、JRA理事長の豪快な笑い声がターフに響く。
『これほどの走り、これほどの美しさ……! 日本競馬の歴史に永遠に刻まれるべき芸術だ! これを一般公開出来ないのが、心底悔やまれるねぇ!』
日本競馬のトップにそう言わしめた事実が、俺の胸の奥に熱い火を灯した。俺は、ウマ娘の可憐な唇の端を吊り上げ、さらに前傾姿勢を深めた。
最初のコーナーが迫る。時速数十キロという自動車並みのスピードを維持したまま、俺は一切の減速をせずにコーナーへと突っ込んだ。
「……シッ!」
短く鋭い呼気と共に、足首の角度と重心をミリ単位で調整する。ウマ娘の身体に備わった天性のバランス感覚と、ここ数か月のカフェとして過ごした日々が、完璧な遠心力の相殺を生み出す。芝生を深く抉り、鋭く、そして流れるように美しい弧を描いてコーナーをクリアしていく。
(……カフェ!)
『はいっ! 四月一日さん、そのまま、真っ直ぐに!』
空中のカフェが、俺の真上を飛ぶようにして並走しながら叫ぶ。コーナーを抜け、視界が一気に開けた。東京競馬場の広大な『向こう正面』――そして、その先に続くホームストレッチの入り口へと、俺の身体は弾丸のように飛び込んでいった。
ザッ、ザッ、ザッ、ザザザザザッ!!
素足が芝を刈り取る音が、一定の、しかし恐ろしいほど速いリズムで連続する。
俺の胸ポケットにねじ込んだスマートフォンが、まるで心臓の鼓動のようにドクドクと熱を持ち始めていた。
ただの機械の熱ではない。昨夜の配信で集めきった『100万人のフォロワー』という、目に見えない莫大な観測のエネルギーが、今まさに次元の壁を認識し、その境界を溶かそうと凄まじい熱量を発しているのだ。
スマートフォンのスピーカーから、風切り音に混じって、向こうの世界の声が聞こえてくる。
『……さあ。いよいよだねぇ』
トレセン学園の中庭。大欅の切り株の前に立つアグネスタキオンが、白衣の裾を風に揺らしながら、ゴクリと唾を飲み込む気配が伝わってきた。
画面の向こう側では、カレンチャンに羽交い締めにされた俺の本来の身体(おっさん)が、「アアアアーッ! はなせっ! ヤメロっ!」と悪霊に操られて未だに見苦しく暴れ狂っている。だが、そんな滑稽な状況とは裏腹に、タキオンの声には、天才科学者らしからぬ『祈り』のような響きが混じっていた。
『壁はすでに限界まで薄くなっている。こちらの切り株も、先ほどからおかしな振動を始めているよ。……さあ、何が起こるか……ね』
タキオンの額に、タラリと冷や汗が伝うのを、俺は音と気配だけで察知した。彼女の言う通りだ。ここから先は、理屈ではない。科学でもない。ただ、俺と、カフェと、そして二つの影が持つ『愛(アイ)』と『帰属意識』だけが、正しい器へと魂を導く唯一の羅針盤となる。
(……ビビってねぇで、腹括れや天才! こっちはもう、止まれねぇんだよ!)
俺は心の中で毒づきながら、さらに一段、ギアを上げた。視界の端がブレ始め、東京競馬場の景色が、まるで水彩画が水に溶けるようにグニャリと歪み始める。
向こう正面を駆け抜け、ついに第3コーナーが近づいてきた。そのコースの脇、芝生のすぐ外側に。異様なまでの存在感を放つ、巨大な古木が姿を現した。
――『大欅』。
それは、まるで空を支える巨人の腕のように太い枝を広げ、冬枯れの空に向かってそびえ立っていた。周囲の空間が、そこだけ陽炎のように揺らめいている。
そして、昨日、俺の足首を掴んできたあの底知れない暗闇が、木漏れ日の下でポッカリと口を開け、こちらを待っているのがわかった。
『……四月一日さん!』
カフェが、切羽詰まったような、しかしどこまでも透き通った声で俺の名を呼んだ。
「わかってる! ここが、ゴールだ!」
俺は、ウマ娘の黄金の瞳を限界まで見開き、大欅の根元に広がる『黒い影の領域』へと真っ直ぐに視線を定めた。
胸ポケットのスマートフォンが、いよいよ火傷しそうなほどの熱を発し、黄金色の光を放ち始める。100万人の祈りと熱狂が、光の粒子となって俺の身体を包み込んだ。
右側には、純黒のお友達。
左側には、青い靄を引く青影。
そして俺の魂に重なるように、本物のマンハッタンカフェの幽霊が、そっと俺の背中に両手を添えた。
『……本当に、ありがとうございました。四月一日さん。……貴方と走れたこと、一生、忘れません』
「……ああ。俺もだ。……最高の夢を、ありがとなカフェ!」
俺は、迫り来る大欅の巨木に向かって。
日雇い労働者のおっさんの魂の底から、そして、マンハッタンカフェという稀代のステイヤーの肉体の底から、持てる全ての力と、感謝と、別れの意志を込めて。
ドンッ!! と、最後の一歩を強く、強く踏み込んだ。
芝が爆ぜる。
俺の身体は、完全に重力から解き放たれたように宙を舞い。
次元の境界線である、大欅の濃密な影の中へと、真っ逆さまに飛び込んでいった。