そこにあったのは、絶対的な『闇』だった。
冬の陽光に照らされていた東京競馬場の鮮やかな緑も、突き抜けるような青空も、次元の境界である『大欅の影』に飛び込んだ瞬間に完全に消失した。上下左右の感覚すら喪失する、底なしのインク壺に放り込まれたような漆黒の空間。音も、温度も、風の匂いすらも存在しない無の領域。
だが、その静寂は一瞬にして破られた。
「(……っ! 来やがったな!)」
足元から、いや、空間のあらゆる方向から、無数の這いずるような気配が湧き上がってきたのだ。それは、以前のタイムトライアルの時に遭遇した比ではない。次元の壁を越えようとする強大なエネルギー(異物)を排除し、あるいはその光にすがりつこうとする、数千、数万という『冷たい手』の群れだった。青白く腐敗したような無数の腕が、濡れた触手のように蠢き、俺(マンハッタンカフェ)の細い足首を、腕を、そして魂ごと暗闇の底へ引きずり込もうと四方八方から殺到してくる。
しかし、今の俺たちは、あの時のような無防備な状態ではない。
『……させませんっ!』
空中に浮かぶ本物のマンハッタンカフェが、鋭い声と共に黄金の瞳を烈火のごとく輝かせた。彼女の魂から迸る純粋な意志の力が、迫り来る無数の手を見えない衝撃波となって弾き飛ばす。
「(シャアアアアッ!)」
「(ピィィィィッ!)」
同時に、俺の足元から二つの影が弾丸のように飛び出した。純黒の輪郭をお友達と、青い靄を纏った青影。二匹の影は、まるで俺を守る猟犬のように前後左右に展開し、暗闇から伸びてくる触手の群れに容赦なく喰らいつき、引き裂き、物理的な質量を持って次々と粉砕していく。
「お前ら、頼もしいぜ……っ!」
俺は、影たちとカフェが切り開いてくれた僅かな空間を縫うようにして、見えない足場を蹴り飛ばして前へと進んだ。どこへ向かえばいいのか。視覚が奪われたこの闇の中で、道標となるものはただ一つ。
――カッ……!!
ダボダボのオーバーサイズシャツの胸ポケット。そこにねじ込まれたスマートフォンから、突如として眩い『光の筋』が前方の暗闇に向かって真っ直ぐに伸びたのだ。
それは、現実世界で俺を見守る100万人のフォロワーたちの熱狂と、向こうの世界で繋がりを維持しているアグネスタキオンたちの観測が結びついた、次元を貫く絶対の光だった。黄金色に輝くそのレーザーのような光の束は、まるで「この道を往け」と指し示すかのように、遥か前方の空間へと収束していく。
「行くぜ……! あの光の先へ!」
無我夢中で、光の筋を追って闇の中を駆ける。周囲では、カフェとお友達、そして青影が、津波のように押し寄せる無数の触手を薙ぎ払い続けている。だが、敵の数は無限だった。弾いても弾いても、次元の狭間に巣食う執着の残滓たちは、新たな手となって俺の身体を絡め取ろうと伸びてくる。
そうして、なんとか進んでいると、やがて。光の筋が収束するその最奥に、奇妙な『穴』が空いているのが見えた。
明るい、しかし、どこまでも暗い穴。相反する二つの概念がマーブル状に混ざり合ったような、空間の亀裂だ。
俺の、いや、この身体の奥底にある本能と直感が、確信を持って告げていた。
「あそこだ! あの穴に手を伸ばせば……全てが終わる!」
次元の向こう側と完全に繋がっている、唯一の特異点。
だが、そのゴールを目前にして、闇の底からこれまでで最大級の、巨大な壁のような触手の濁流が立ち塞がった。お友達も青影も、無数の有象無象を相手にして手が塞がっている。真正面から迫るその巨大な触手の壁は、俺自身が突破するしかなかった。
「へっ……! 舐めてもらっちゃ困るんだよ!」
俺は、ウマ娘の可憐な唇に、獰猛な笑みを浮かべた。
「こちとら数ヶ月、この身体で『マンハッタンカフェ』をやってきたんだ。……走り方も、戦い方も、この筋肉の使い方も……誰よりも俺が一番、世界で一番、慣れてるんだよ!!」
俺は、迫り来る触手の壁を前にして、一切の減速をせずにさらに強く虚空を蹴った。向かってくる極太の触手を、異常なバネを持つ脚力で側転するように回避し、背後から迫る腕を空中で身を捻って躱す。絡みつこうとする細い腕の群れには、パラシュートパンツの裾を翻しながら、容赦のない回し蹴りを叩き込んで粉砕した。
カフェとお友達の指導で培った細やかな身体操作と、ウマ娘の規格外の身体能力が完全に融合した、アクロバティックで暴力的な舞い。千切れた触手が黒い霧となって消えていく中、俺はついに、すべての壁を突破し、その『明るくて暗い穴』の目の前へと到達する。
「シャ……オラァッ!!」
俺は、躊躇うことなく、その次元の亀裂に向かって右手を深くねじ込んだ。
ズブッ、という、水面を突き破るような奇妙な感触。その直後。俺の右手のひらに、確かに『何か』を掴む感触があった。
細くて、滑らかなウマ娘の手ではないそれは、節くれ立ち、皮膚が硬く、指の太い……紛れもない『男の腕』だ。
「ははっ! こいつは! 俺だなあ!!!」
俺は、暗闇の中で歓喜の声を上げた。間違いなく、向こうの世界でタキオンたちが用意してくれている、俺自身の本来の肉体。その腕を、今、次元の壁越しにガッチリと掴み取ったのだ。
「いけそうだな! カフェ!!」
『はいっ!』
俺の叫びに、すぐ背後まで迫っていたカフェが、力強く、そしてどこか泣き笑いのような声で応えた。
――いよいよ、終わりの時だ。この夢のように美しく、騒がしかった日々と、決別の時を迎えるのだ。
「じゃ、カフェ! 元気でやれよ!」
『四月一日さんも……っ!』
互いの魂の健闘を祈る、短くも絶対的な信頼に満ちた別れの言葉。
それを合図に俺は、全身の筋力を総動員し、亀裂の向こう側にある自分の身体(男の腕)を、こちら側へと一気に「引っこ抜く」ように強く引いた。
同時に、今まで俺が借りていたマンハッタンカフェの肉体を、逆にその穴の奥へと滑り込ませるように押し出す。
――――ズォンッ!!
空間が、ありえない音を立てて反転した。引く力と、押し出す力。二つの魂と肉体が、次元の境界線である亀裂の上で、交差し、擦れ違い……そして、本来あるべき場所へと、磁石が吸い付くようにパズルのピースを嵌めていく。
その、魂が入れ替わる決定的な瞬間のことだった。今まで俺の肉体の中に巣食い、俺の身体を操っていた『あの存在』が、事態を理解し、恐慌状態に陥った。
『ヤメロォ! ヤメロオオオオオオオオッ!!』
次元の狭間に、鼓膜を劈くような醜悪な断末魔が響き渡った。大欅に巣食っていた悪霊、あるいは用務員の姿を借りた怨念。ウマ娘の肉体から弾き出され、元の薄汚いおっさんの肉体からも追い出されようとしているその存在は、虚空でもがき苦しみながら絶叫した。
『まだ、まだ夢をミテイタイ! トレセン学園デ! イキテイルウマ娘トイッショニイイイイイッ!!』
未練と執着に塗れた、あまりにも身勝手で哀れな叫び。次元の壁を越えようと、その黒い靄が俺の肉体にしがみつこうとした、その時だ。
『……アナタは、ウマ娘たちの無念の集合体にすぎません』
冷たく、透き通るような、絶対の宣告が耳に届く。
穴の向こう側から、こちら側に。
完全に自分の肉体を取り戻した本物のマンハッタンカフェが。黄金の瞳で悪霊を見下ろし、その細く美しい腕を伸ばした。
『この世界の壁は、超えられない!』
カフェの手が、悪霊の靄をガッチリと掴む。同時に、お友だちが悪霊の背後に回り込み、黒い腕でその怨念を羽交い締めに捕縛した。
『ギャアアアアアアアアアアアッ!?』
「憎しみ」では、世界の壁を越えられない。
「愛」を持つ者だけが、この世界の境界を行き来できる。
タキオンの仮説通り、愛の存在であるカフェとお友達の手によって、悪霊は元の次元――ウマ娘の世界の暗闇の底へと、容赦無く引きずり込まれていった。
その一部始終を。
俺は、無精髭の生えた、見慣れた男の視点から、静かに眺めていた。
■
視界の先、次元の亀裂がゆっくりと閉じようとしている。
その向こう側にいる、漆黒の勝負服を纏った美しいウマ娘と、純黒の影。
俺が数ヶ月間、共に過ごした最高の相棒たち。
俺は、自分の節くれ立った右手を顔の前に上げ、亀裂の向こう側の彼女たちに向けて、ニカッと笑ってサムズアップを作った。
「じゃあな!」
その不器用なエールに対し。閉じゆく亀裂の向こうで、カフェとお友達は一瞬だけこちらを振り返り。
慈しむような、極上の微笑みを浮かべて、深く、深く頷いた。
――――パツンッ――――
そして、弾けるような音と共に、次元の亀裂が完全に消滅し。それと同時に、俺の意識は強烈な目眩に襲われ、深い深い微睡みの中へと落ちていった。
■ ■ ■
遠くで鳴くカラスの声と、鼻腔をくすぐる冬の枯れ草の匂いが、俺の意識を現実世界へと引き戻した。
「……ん、……ぁ……」
重い瞼を開ける。
まず視界に飛び込んできたのは、空を覆い尽くすような、見事な巨木の枝葉だった。府中のコースの脇にそびえ立つ、あの『大欅』だ。
俺は今、その太い根元に仰向けに寝転がっているらしい。
そして、巨木の枝の隙間から覗く空は、走り出した時の抜けるような青空ではなく、街並みが最も美しさを醸し出す、美しい『夕焼け時』へと変わっていた。
「(……夕焼け? 次元を越えた影響で、時間が飛んだのか……?)」
ぼんやりとした頭でそんなことを考えながら、俺はゆっくりと身体を起こそうとして。
「……っぐあ!?」
全身を貫く、信じられないほどの重さと、強烈な痛みに思わず呻き声を上げた。肩が上がらない。腰が軋む。関節という関節が錆びついた鉄のようにギシギシと悲鳴を上げている。少し動こうとしただけで、筋肉が鉛のように重くのしかかってきた。
ウマ娘の、あの羽のように軽く、無限のエネルギーに満ち溢れた無敵の身体とは、天地ほども違う。
疲労と、年齢と、日々の労働のダメージが完全に蓄積された、三十路の冴えないおっさんの肉体。
あまりの重さと痛みに、俺はしばらく地面に突っ伏したまま動けなかった。
―――だが。
「……ふっ、」
芝生を掴む、自分の手のひらを見る。太くて、短くて、マメだらけの不格好な手。それが、どうしようもなく、愛おしかった。
「……はっ、はっはっはっはっ!」
俺は、夕日に向かって、しゃがれた声で大笑いした。
「はははははっ! 痛ぇ! 重ぇ! 最悪だ! ……でも、戻ってきたか、俺の身体!!」
痛みがある。重さがある。
それは、俺が俺自身の人生を取り戻し、この現実世界に確かに帰還したという、何よりの証拠だった。
夢のようなスーパーヒーローの時間は終わった。
ここから先は、またこの重くて痛い身体を引きずって、泥臭く生きていかなければならない。だが、今の俺の心には、不思議と清々しいほどの活力が満ち溢れていた。
笑いを収め、俺は再び大の字になって夜空を見上げた。冷たい風が、俺の短い前髪を揺らす。
数ヶ月に及んだ、次元を越えた奇妙な共同生活。
100万人の熱狂。そして、最高の仲間たち。
そのすべてが、本当にあったことなのか、それとも俺が見ていた長い長い幻だったのか、今となっては確かめる術もない。
だが、あのぬくもりも、一緒に飲んだ珈琲の苦味も、俺の魂には確かに刻み込まれている。
俺は、軋む右腕をゆっくりと天に向かって掲げた。夕日を掴むように、太い指をギュッと握り込む。
「……おやすみだ、マンハッタンカフェ」
冷たい冬の空気に、おっさんの低い声が静かに溶けていく。
「いい夢、みさせてもらったよ」
握りしめた拳の向こうで、一番星が、ウマ娘の黄金の瞳のように、優しく、そして誇らしく瞬いていた。