東京競馬場の冷たい芝生の上で己の肉体を取り戻した数時間後。バキバキに悲鳴を上げる関節と、鉛のように重い三十路の身体を引きずりながら、四月一日は競馬場内の関係者専用エリアにある豪奢な控室のドアを叩いた。
重厚な扉の向こうで待っていたのは、昨夜の狂乱の焼肉を共にし、そして今朝、あのターフへと彼(かっふぇ)を見送ってくれた四人の大人たちだった。
「……あー、その。色々と、本当にお世話になりました」
無精髭の生えた顎をボリボリと掻き、安物のスウェットに身を包んだ四月一日は、場違い感に冷や汗を流しながらも深く頭を下げた。絶世の美少女だった『マンハッタンカフェ』の面影は、今の彼には微塵も存在しない。どこからどう見ても、その日暮らしで泥臭く生きている、少し疲れた労働者のおっさんである。
彼らに伝えてある設定は、「異世界から迷い込んだマンハッタンカフェの肉体の傍らに、幽霊のように憑依してサポートしていた」というものだ。
そのあまりにも落差の激しい本来の姿を目の当たりにして、Oさんは目を丸くし、口元を両手で覆ったままフリーズしていた。
「……ほ、本当に。本当におじさんだ……。あの美しくてミステリアスなカフェちゃんの隣に、ずっとこのおじさんが……?」
「おいおい、おじさんって言うなよ。まだ三十代前半……いや、まぁおじさんで間違いないけども」
四月一日が苦笑しながら肩をすくめると、S氏と社長は、まるで珍しい生き物でも観察するように彼を上から下までジロジロと眺め、やがて深く、深く納得したように頷き合った。
「……なるほど。あの見事なまでのプロデュース能力と、コメント欄の捌き方、そして炎上を未然に防ぐ完璧な危機管理能力。……絶世の美少女のカフェさんの後ろにいたのが、苦労人の成人男性の魂だったというわけですか。合点がいきましたよ」
「ええ。カフェさん本人の魅力もさることながら、その裏で糸を引いていた貴方の手腕があってこその『100万人』でしたか。いやはや、してやられましたな」
納得顔の二人に対し、JRAの理事長はソファから立ち上がると、腹の底から響くような豪快な笑い声を室内に轟かせた。
「はっはっはっはっは! いや、素晴らしい! 事実は小説より奇なりとはよく言ったものだが、まさかあんな伝説の走りを魅せたウマ娘の相棒が、こんなしがない風体の青年だったとはね! これは本当に面白い!」
理事長は、ドスドスと歩み寄ってくると、カフェの華奢とは程遠い、四月一日の肉体労働で鍛えられたがっしりとした肩をバンバンと叩いた。
「どうやら、向こうの世界への帰還は無事に成功したようだね。おめでとう、四月一日君! ……さて。主役であるカフェ殿が帰ってしまったのは少し寂しいが、君という最大の功労者が残っているのだ。社長、S君! ひとまず、大成功の『打ち上げ』と参りましょうか!」
理事長の粋な提案に、Oさんもハッと我に返り、「賛成です!」と勢いよく挙手をした。社長とS氏も異論があるはずもなく、一行は再び東京の街へと繰り出すことになった。
■
向かった先は、昨夜、ウマ娘のブラックホールのような胃袋で肉を根こそぎ食い尽くした、あの超高級焼肉店のVIP個室だった。網の上で、見事なサシの入った極上の肉がジュワァァァッと香ばしい音と煙を立てている。
「さあ四月一日さん! 昨日はかっふぇさんが遠慮なく食べてましたけど、今日は四月一日さんの身体の分です! シャトーブリアン、どんどん焼きますからね!」
Oさんが、昨日の『かっふぇ』の食べっぷりを再現させようと、甲斐甲斐しく分厚い肉をトングで掴み、四月一日の皿に乗せようとする。
だが、四月一日は顔を引きつらせ、慌てて両手を振って制止した。
「ちょ、待ってくださいって! ストップストップ! Oさん、俺のこのおっさんの胃袋じゃ、そんなシャトーブリアンみたいな脂のキツい重い肉、何枚も食えねぇっすよ! カフェだからっす! 昨日はカフェの規格外の胃袋だったから無限に食えただけで……俺はほんと、ハラミか赤身を数枚つまめれば十分ですから!」
その切実でリアルすぎる胃袋事情の吐露に、個室の中はドッと沸き返った。
「あはははは! そっか、おじさんですもんね!」
「いやはや、本当に貴方がずっと彼女のすぐ近くで、すべてを見ていたんですね」
社長が、和やかな笑みを浮かべながらウーロン茶のグラスを傾ける。
「まぁ、彼女の幽霊やってましたからね。……ああ、あいつの足元にいた真っ黒な『お友だち』とも、結構仲良くやってましたよ。言葉は通じねぇけど、いい奴らでした」
四月一日が、元の世界へ帰っていったカフェとお友達の姿を思い出し、少しだけ寂しそうに、しかし満足げに苦笑いをした。
――と、その瞬間だった。
「(……ん?)」
四月一日の視界の端。網から立ち昇る煙の向こう側、自分の座布団のすぐ横の畳の上に。
ポツン、と。
見覚えのある『青みがかった黒い靄』が、ウマ耳のような突起をピョコピョコと揺らしながら、行儀良く座っているのが見えた。
「……あれ?」
四月一日の目が点になる。それは、間違いなく、先ほどまで大欅の暗闇で無数の触手を薙ぎ払ってくれた、あの『青影』だった。
(なんでお前、ここにいんの!? お友だちと一緒に、向こうの世界に帰ったんじゃなかったのか!?)
四月一日が驚きのあまり声を出せずに硬直していると、彼の異変に気づいたS氏が不思議そうに首を傾げた。
「どうしたんですか、四月一日さん? 急に何もない空間を凝視して」
「あ、いや……。その。さっき話した『お友だち』にそっくりな奴が……今、俺の横にいるんすよ」
「えっ!?」
四月一日の言葉に、四人の大人たちが一斉に息を呑み、彼が視線を向けている空間を凝視した。だが、常人である彼らの目には何も映っていない。
(考えられることとしたら……、そうか。こいつは元の世界の悪霊の残滓じゃなくて、府中のコースで拾った『蹄鉄の破片』から、この現実世界で実体化した存在だ。だから、次元の壁を越えられずに、こっちに残っちまったのか……?)
青影は「どうしたの?」とばかりに見えない首を傾げ、四月一日のスウェットの袖をツンツンと引っ張っている。その感触は、確かに物理的な質量を伴っていた。
「……ちょっと、『お友だち』がいる、っていう証明してみましょうか。な、青影。そこにいる四人の手を、順番に握ってみろ」
四月一日が虚空に向かってそう指示を出すと。青影は「わかった!」というようにピョンと飛び跳ね、まず隣にいたS氏の元へとスルスルと移動した。
「ひゃっ!?」
S氏が、突如としてビクッと肩を震わせ、自分の右手を左手で押さえた。
「な、なんですかこれ!? 今、確実に誰かに冷たい手でギュッと握られましたよ!? しかも、なんか犬みたいな感じで懐っこく!」
「えっ、本当ですか!? ……ああっ! 私も今、手首をポンポンってされました! なんか柔らかくて冷たいです!」
Oさんが目を丸くして自分の手首を見つめる。続いて、社長と理事長も、見えない『何か』に確かに触れられるという、明確な超常現象を物理的に体感し、驚愕の声を上げた。
「こ、これは驚きましたね……! まさか、彼女が帰った後も、このようなオカルト的な存在がこの世界に残留しているとは……!」
社長が、見えない青影の存在に震えながらも、その経営者としての鋭い目をギラリと光らせた。彼は、身を乗り出すようにして四月一日に迫った。
「……いや。四月一日さん。カフェさんが走るまえにご提案させていただいたオファー、あれは絶対に受けていただきますよ。我が社に、正式な社員として来てください。絶対です」
幽霊やウマ娘の真実を知り、さらにこうして未知の存在(青影)と意志疎通ができる唯一の人間。エンターテインメント企業にとって、彼が持つ経験と、この『不思議な繋がり』は、いくら金を積んでも買えない規格外の財産だった。
その社長の必死すぎる形相と、強烈なスカウトの言葉に。
四月一日は、数秒だけポカンとした後、
「……ふふっ、あははっ……!」
腹の底から愉快そうに笑い声を上げた。
「ええ。是非、よろしく、お願い致します。――正直、明日からまた日雇いの不安定な生活に戻るのかと思うとウンザリしてたんで、有難い限りっすよ。こいつ(青影)の食費……はかからねぇみたいですけど、面倒も見てやらなきゃいけませんしね」
四月一日がそう言って笑うと、青影は自分に言及されたことが分かったのか、嬉しそうに彼の背中にピタリとひっつき、ウンウンと見えない首を縦に振って甘えた。
■
マンハッタンカフェと、純黒のお友だちは、あの次元の穴の向こう、本来いるべき世界へと無事に帰還した。
彼が間借りしていた夢のような美少女の時間は、完全に終わりを告げた。
だが、その代わりに。
三十路の冴えないおっさんの日常には、安定した就職先という現実的な幸福と、見えない青い影法師という、ほんの少しだけの『不思議な変化』が、確かな温もりとして残されたのだった。
次回、最終回