視界を覆っていた濃密な闇が晴れ、肺に吸い込んだ空気が、冬の冷たいそれから、どこか薬品の匂いと甘い香水が混ざった微風へと変わった。
「……お久しぶり、です」
トレセン学園の中庭。大欅の切り株が鎮座する、見慣れたトレセンの風景。マンハッタンカフェは、自分の『本来の身体』の掌をゆっくりと握り、開きながら、目の前に立つ二人のウマ娘に向けて、深く、静かに頭を下げた。
「やあやあ! やっと帰ってきたかい、カフェ!」
アグネスタキオンが、白衣の袖をバサッと翻して歓喜の声を上げる。その瞳は、次元を越えるという未曾有の実験(オカルト)が成功したことへの興奮で、怪しく、そしてひどく嬉しそうに輝いていた。
「……よかったぁ。本当に、カフェさんだ。お帰りなさい!」
その隣では、カレンチャンが両手を胸の前で合わせ、心底ホッとしたように息を吐き出していた。彼女の足元には、つい先ほどまで暴れ狂っていた『四月一日(おっさん)』が着ていたスウェットの繊維が数本落ちており、カレンチャンがどれほど苦労してあの肉体を押さえ込んでいたかが窺い知れた。
『……』
カフェの足元では、純黒の輪郭を持つ『お友達』が、ふらふらと周囲を飛び回りながら、しきりに切り株の裏や茂みの奥を覗き込んでいる。やがて、探し人がいないことに気づいたのか、コテンと見えない首を傾げた。
「……青影がいない、ですね」
カフェが静かに告げると、お友達は少しだけ寂しそうにシュンと縮こまったが、すぐに「仕方ないか」とばかりにウンウンと頷いた。
「ところで、カフェ。四月一日君の身体に入り込んでいた、あの厄介な『悪霊』はどうなったんだい?」
タキオンが、切り株の周囲を警戒するように見回しながら尋ねた。入れ替わりの際、次元の狭間で悪霊をこちら側へ引きずり込んだのはカフェとお友達だ。もしこの学園に放たれていれば、また面倒なことになりかねない。
「……大人しくなりましたよ」
カフェは、自らの胸の奥――あるいは、彼女に付き従うお友達の影のさらに深い底を指差すように、静かに目を伏せた。
「私とお友達で、しっかりと『躾』をしましたから。……余計な事さえしなければ、二度と表に出てくることはないでしょう」
そう言ってから。
カフェは、黄金の瞳をスッと細め、アグネスタキオンを冷ややかにジト目で睨みつけた。
「……ッ!」
「……ええ。余計なこと、つまり、誰かさんがまた面白半分で怪しいオカルトに手を出したり、次元をいじるような真似をしなければ、の話ですが」
「わ、悪かったよカフェ! 今回の一件は、私も本当に反省しているとも! 私の探究心が招いた事故とはいえ、君には多大な苦労を……あっ、そうだ! 詫びと言っては何だが、次はこの新しく調合した薬品を……」
タキオンが、白衣のポケットから怪しく発光する試験管を取り出し、ニチャアと笑う。
その瞬間。
「……タキオンさん?」
カフェの背後から、一切の感情を排した、絶対零度の冷気が漂い始めた。お友だちも、ズルリと巨大化し、タキオンに向かって威嚇のポーズをとる。向こうの世界で『100万人の熱狂』と『無数の悪霊の群れ』を物理的にねじ伏せて帰ってきたウマ娘の凄みは、以前の比ではなかった。
「じょ、冗談! 冗談だとも!!」
タキオンが慌てて試験管をポケットに隠し、両手を上げて降参のポーズをとる。そのコントのようなやり取りを見て、カレンチャンがクスクスと笑い声を漏らした。
「ふふっ。お二人とも、相変わらずですねー。……でも、本当に」
カレンチャンが何かを言いかけた、その時。中庭の入り口の方から、カツ、カツ、と規則正しいヒールの音が近づいてきた。
「あら……? 皆さん、こんなに朝早くから何をなさってるんですか?」
緑色の帽子を被った理事長秘書、駿川たづなが、手元のバインダーを見ながら柔らかな、しかし有無を言わさぬ笑顔で歩み寄ってきた。
「タキオンさん、カレンチャンさん。……そして、マンハッタンカフェさん。許可は得ているんでしょうけれど、散策もほどほどにして、寮に戻ってくださいね。今日も授業と練習があることでしょうから」
「…………っ」
その『名前』を呼ばれた瞬間。タキオンとカレンチャンは顔を見合わせ、大きく、深く安堵の息を吐き出した。
トレセン学園の誰もが、マンハッタンカフェというウマ娘の存在を忘れ去っていた異常事態。それが今、たづなの口からごく自然に『マンハッタンカフェ』という名前が出たことによって、この世界の認識と記憶のバグが完全に修復されたことが証明されたのだ。
「……おや。どうやら、無事に『戻った』ようだね」
「ですねー! ……よかった。本当に、よかった」
カレンチャンが、嬉しそうにカフェの手を両手でギュッと握りしめた。カフェは、少しだけ驚いたように目を丸くした後、優しく微笑み返した。
「……まぁ、向こうの世界での詳しい武勇伝は、明日ゆっくりと聞かせてもらうとしよう。今日はもう、しっかり休みたまえよ、カフェ」
「ええ。……そのつもりです。カレンさんも、色々とご協力いただき……本当に、ありがとうございました」
「気にしなくていいですよ! カレンも、なんだか凄くドキドキして、楽しかったですし!」
ウインクをして笑うカレンチャンと、満足げに頷くタキオン。
たづなに急かされながら、三人はそれぞれ自分たちの寮へと向かう帰路についた。
■
冷たい夜風が吹き抜ける、静まり返った学園の敷地内。カフェは、自分の足元をちょこまかとついてくるお友達の影と共に、栗東寮への道をゆっくりと歩いていた。
街灯に照らされたアスファルトの上。そこには、カフェ自身の影と、お友達の影の二つしかない。数時間前まで一緒にいた、あの青い影の姿は、やはりここにはなかった。
「やはり……、青影は、あちらの世界に残りましたか」
カフェがぽつりと呟くと、お友達はピタリと足を止め、ウン、と一つ頷いてから、冬の澄んだ夜空を見上げた。
「……ふふっ。ですが。四月一日さんと一緒ならば、きっと大丈夫でしょうね」
カフェも同じように足を止め、星々が瞬く空を見上げた。
向こうの世界の、四畳半のボロアパート。
隙間風の吹く部屋で、安いインスタントの珈琲をすすりながら、明日の生活費の計算をしていた、あの日々。口は悪く、態度もぶっきらぼうだったが、誰よりも真摯に彼女の身体と尊厳を守り抜き、最後は100万人という途方もない奇跡を現実のものにしてみせた、最高に不器用で、泥臭い『相棒』。
「……一緒に過ごした日々。とても、騒がしくて……楽しかったですから」
あの四畳半で淹れた珈琲の香りを思い出すように、カフェが目を細めて穏やかに微笑むとお友達も「うんうんっ!」と大きく首を縦に振り、カフェにピタリと寄り添った。
次元の壁は閉じ、二つの世界は再び分かたれた。あちらにはあちらの、こちらにはこちらの、いつもの日常がまた続いていくのだ。
■ ■ ■
そして迎えた、夜明け。
まだ太陽が昇りきらない、薄暗いトレセン学園のトレーニングコース。霜が降りた冷たいダートコースの上に、マンハッタンカフェは一人、立っていた。
「……すぅぅ……っ、ふぅぅ……っ」
冷たい空気を肺の奥まで吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
久しぶりに味わう、自分自身の肉体の感覚。ついさっきまで向こうの世界の『東京競馬場』で、四月一日が限界を超えて全開で走り抜けた疲労とダメージが、魂の帰還と共に微かな筋肉痛となって全身にこびりついている。
「少し……身体が重い、ですね。ですが―――」
だが、不思議と不快感はなかった。むしろ、あのあちらの世界での日本最高峰のターフを、すべてを懸けて駆け抜けたという確かな『熱』が、彼女の脚の筋肉の奥底で、まだ燻り続けているような感覚があった。
「……行きますよ」
「(コクッ!)」
カフェは深く前傾姿勢をとり、鋭い呼気と共にダートコースを蹴り上げた。
―――ザッ!!―――ザザザザザッ!!
自分自身の意思で、自分の脚で大地を蹴る感覚に、カフェは心を震わせる。
風を切り裂き、コーナーを曲がり、ただひたすらに前へと進む歓び。
そして、四月一日との日々が、重い身体を嘘のように前へと推し進めていく。
「……ああ。走るって、こんなにも」
あっという間にコースを数周し、ゴール板を駆け抜ける。息を整えながら手元のストップウォッチを確認すると、身体が重い状態であったにもかかわらず、全盛期と遜色のない、いや、むしろそれを上回るほどの『十分すぎるタイム』が記録されていた。
「……ふふっ。これも、あちらの世界での『特訓』の成果、でしょうか」
カフェがタオルで汗を拭いながら、満足げに微笑んだ、その時だった。
――ピロンッ。
ベンチの上に置いていたウマホが、短い通知音を鳴らした。画面が明るく発光している。
「……なん、でしょうか?」
タキオンからの新薬の実験の誘いか、それともカレンチャンからの朝の挨拶か。カフェは不思議に思いながら、ウマホを手に取り、画面に表示されたメッセージのポップアップに視線を落とした。
そこに表示されていたのは、新着メッセージ通知だった。
差出人の名前は、『四月一日トレーナー』。
「えっ?」
次元の壁は、完全に閉じたはずではなかったのか。
カフェが驚きで黄金の瞳を見開きながら、恐る恐るそのメッセージを開くと。そこには、向こうの世界の四畳半で、ちゃぶ台に肘をつきながら片手でフリック入力しているであろう、あの別れ際に見た冴えないおっさんの顔が容易に想像できる、なんとも気の抜けた、見慣れた文体が並んでいた。
【四月一日トレーナー】:『お疲れ。カフェさんはそっちに戻って、身体は戻ったか? ちゃんと走れてる? でさ、こっちのトレーナー専用アプリ? に、カフェさんの名前があったもんで。通信がまだ生きてるか確認がてら連絡してみてる』
【四月一日トレーナー】:『届いていたら返信よろ。カフェさん』
【四月一日トレーナー】:『追伸:うちの社長がどうしてもってうるさいんだが、「エバヤン(フォーエバーヤング)」と通話したいってさ。こっちは無視してくれていい』
「…………」
その、あまりにも日常的で、あっけらかんとしたメッセージを前に、カフェは、数秒間だけ呆然と画面を見つめた後。
「……ふふっ、あははっ……!」
朝の誰もいないトレーニングコースに、ウマ娘の、心からの可笑しそうな笑い声が響き渡った。
どうやら、あの騒がしくも温かい『縁』という名の細い糸は、まだしっかりと繋がったままらしい。
「(ピョコッ!)」
足元で、お友達の影が「なんて書いてあるの?」と画面を覗き込んでくる。
「……本当に。世話の焼ける、『相棒』ですね」
カフェは、嬉しそうに目を細めながら、冷えた指先で画面をタップした。
『ええ。届いて、いますよ。四月一日さん。そちらは、無事に、戻られましたか? こちらは、いつも通りの朝、です』
新しい朝の陽光が、トレセン学園のダートコースを眩しく照らし始めていた。
カフェと四月一日のお話もここまで。
彼らは今まで通り、しかし今までよりも少し刺激的な日々を過ごしていく事でしょう。
珈琲の花言葉は「一緒に休みましょう」だそうです。
四畳半から始まった耐久レースを、最後まで一緒に完走してくださった読者の皆様。今日はどうか温かい珈琲でも淹れて、彼らと一緒にゆっくり休んでください。
そしてなにより、紆余曲折ありながらも、執筆続けられましたのは、ご評価、ご感想頂いた皆様の力です、ありがとうございます。
最後になりますが。
以上を持ちまして、執筆活動は完全終了です。しかも合わせるように執筆に使用していたパソコンが御臨終いたしまして、なんたる運命か。
拙い文章ではありましたが、応援して頂いた皆様には誠に感謝申し上げます。
では、また。ご機会があれば、どこかでお会い致しましょう。
―――それはそうとして、サニブに転生してサイレンススズカとガチ大逃げレースするTSものとか見てみたいので誰か書いてくんないですかね。中の人の活躍で怪我を回避した三冠サニブと、天皇賞秋で大逃げ対決とかさ。なんならその前に中の人が活躍してスズカの足回りも強化させんのよ。で、天皇賞秋はガチンコもガチンコの大逃げ対決でね。多分それで5話ぐらいかけて大欅を超えて、最終直線に行くわけですよ。そして最後は2人ともゴールのあと倒れて爆笑するんだ。
『やっぱ速えなスズカは!』
『サニブこそ』
つってエピローグに入って行くわけですよ。多分その後、春まで休養を挟まなければならないぐらいの消耗で、伝説の日曜日として語り継がれるやつ。なお、オフサイドさんもサニブの中の人の活躍でしれっと怪我から全回復し、2人が休んでいる間に行われた有馬記念でグラスとブライトらの間に割って入って、そして、同期のナリタブライアンと、天皇賞秋でしてやられたサニーブライアンを思い浮かべながら、『ロートルを舐めてもらっては困る。それに、ブライアンばかりにいい格好はさせられんからなぁ!』とか言いながら最終直線を走り切るんだ。
そして、翌年はサニブとスズカで天皇賞春での大逃げぶっかましからの凱旋門や。大逃げコンビ世界へ。
『この二人は世界すら置き去りにするのか!ロンシャンでも大逃げだー!』
―――1番人気はスズカに譲るさ!
―――1番人気はサニブに譲るわ。
でも、俺は一着だけが欲しい!
でも、先頭の景色は譲らない!
そして重馬場も無視して二人の世界。その後を猛追するエルコンドルパサー。モンジューも居るが、先頭民族のハイペースに乱されながらフォルスストレートへ。
そして、決着は―――――――――。
最後の台詞は、『俺は一番人気は要らない。一着だけが欲しかった。世界最速の『逃げ』だけが欲しかった』
っていうオリジナルウマ娘の話を読みたいんですが、誰か書かへんですかね?