ウマ娘とは、つまるところ、愛の物語である。
100万人を突破した伝説のウマ娘アカウント『かっふぇ』の活動は、あの大欅でのラストランを境に、ゆっくりと穏やかなフェードアウトの道を歩み始めた。
企業が徹夜で用意してくれた狂気的な量のストック素材(写真や動画)を少しずつ放出しながら、月一の細々とした生存報告のような配信(過去の録画の切り抜きなど)を行うだけ。
新規のストックが尽きた後は、向こうの世界のカフェがウマホで撮って送ってくれる『本物のトレセン学園の日常風景』などを使いながら、アカウントはゆるやかに静眠へと向かっている。
『いつ、この通信が切れるか分かりませんからね』
「ああ。明日にはウンともスンとも言わなくなるかもしれない。……だからこそ、細く長く、いけるところまでいこうや」
そんなメッセージを、時折カフェと言い合う。
いつ途切れてもおかしくない、極細の糸で繋がった異世界交流。だが、その「終わりがあるかもしれない」という適度な距離感と緊張感が、今の四月一日の日々に、いい意味で極上の刺激を与え続けていた。
ちなみに。社長が熱望していた『エバヤン(フォーエバーヤング)との通話』だが、これは今のところ全く叶う気配がない。
なにせ彼女は向こうの世界であっても、世界中を股にかけて飛び回っている規格外のウマ娘だ。トレセン学園にいるカフェでさえなかなか捕まえられない上に、
「世界中を飛び回っている彼女に、次元の壁の向こう側、とかいう訳の分からん知らんおっさん(社長)とビデオ通話させる理由と口実が全く思いつかない」
という根本的な問題があったからだ。社長の夢が叶うのは、まだまだ先になりそうである。
■ ■ ■
「……ふぅ。よし、今日の分の仕様書はこれで完成、と」
深夜のオフィス。四月一日は、エンタメ企業のいち社員として、S氏と共に『新規ウマ娘企画』の立案に追われる日々を送っていた。
底辺の日雇い労働から一転、大企業のクリエイター枠への大抜擢。
最初はPC扱い方すら怪しかった四月一日だが、持ち前の泥臭い根性と、何より『本物のウマ娘の中に入って生活していた』という絶対的な経験値が、企画会議で猛威を振るっていた。
時折、アプリのチャットでカフェに、
「なぁ、トレセン学園の食堂のメニューで一番人気なのって何だっけ?」
「レース後の疲労感ってどんな感じ?」
などと『実情』を直接取材し、何だかんだカフェやタキオンらも楽しんで受け答えするそれを、ゲームやイベントの企画にリアルな解像度として落とし込んでいるのだから、クオリティが低いはずもない。
しかも彼自身は数か月、本物のウマ娘として生活をやっていたのだ。その体の特徴は、十二分に、この世界で誰よりも理解している。
「んんーっ……。っておいおい、もう午前3時過ぎてんかよ。熱中しすぎたか」
四月一日は、凝り固まった三十路の肩をグルグルと回し、背伸びをした。ウマ娘の無限の体力はない。少し無理をしてデスクワークをすれば、すぐに腰が悲鳴を上げる、ただの「おっさんの身体」だ。
―――トンッ、と。
仕事をひと段落させたその背中に、ひんやりとした、しかしどこか暖かで柔らかい『何か』がのしかかってきた。
「ん? ……お疲れさん、青影」
振り返らなくてもわかる。
次元の壁を越えられず、この現実世界に取り残された不思議な同居人(同居影)だ。
四月一日が、背中に乗ってきたその冷たい靄のような頭のあたりを、節くれ立った太い手で無造作に撫でてやると。
青影は心地よいのか、「もっとやって、もっとやって」とでも言うように、見えない目を細めてされるがままになっている。
「……可愛い奴め」
四月一日は、苦笑しながらデスクの端に置かれたマグカップを手に取った。中に入っているのは、自分で豆から挽いた、深夜のブラックコーヒーだ。オフィスには最新のコーヒーメーカーがあるというのに、彼はわざわざあの年季の入った手動ミルを持ち込んでいた。
カフェと、純黒のお友だちと一緒に飲んでいた時と、同じ豆、同じ淹れ方だ。
一口すすると、深い苦味が疲れた脳細胞に染み渡っていく。
日雇いで、ただその日を生きるためだけに泥水のような労働を啜っていたあの日々からすれば、信じられないような毎日だ。
疲れはある。痛みもある。
だが、この世界は、どうしようもなく愛おしく、そして面白い。
四月一日は、マグカップを持ったまま窓の外の夜空を見上げ、ふと、ある句を口ずさんだ。
「面白きこともなき世を、おもしろく」
本来であれば、そこに続くのは『心なりけり』という言葉だ。心の持ちよう一つで、このつまらない世界はいくらでも面白くなる、という気高い精神の現れ。
だが。
四月一日は、背中の青影の冷たい感触と、舌に残る珈琲の苦味、そして胸ポケットに入っているスマホの存在を感じながら。
いかにも彼らしい、少しだけ気の抜けた、しゃがれた声でこう続けた。
「すみなすものは、相棒と共に淹れた、一杯の珈琲から……、なんてな」
四月一日は、大きく息を吸い込み、フッと笑った。
(向こう側の相棒と、背中で丸くなる不思議な影と―――)
そこまで考えたが、首を静かに横に振る。
(……いや、ただ、この美味い珈琲さえあれば)
■
世界は正しく分かたれた。
マンハッタンカフェはトレセン学園で、四月一日は現実世界で、各々の道を歩き出す。
彼女はこれから、あの大舞台で大いなる栄光を手に入れることだろう。
四月一日という平凡なおっさんの日常も、これからはとびきり面白く転がっていくのだろう。
そして、繋がった縁は決して途切れることはない。
二度と会えないのだとしても、世界が分かたれたとしても、それは形を変えただけにすぎない。
―――それは間違いなく、ここに『有る』のだから。
馨(かぐわ)しい湯気の向こうに空を見れば。
世界は、全ては、繋がっている。