極上の和牛から滴り落ちた脂が網の上で弾け、食欲をそそる香ばしい煙が個室内に立ち込める。
大型タイトルの新規イベント実装という、エンタメ企業における一つの巨大な山場を無事に乗り越えた週末。四月一日は、プロモーターのS氏、そして声優のOさんと共に、お馴染みとなったあの超高級焼肉店のVIP個室でささやかな打ち上げの席を囲んでいた。もちろん支払いは社長のツケだ。
「Oさん、烏龍茶のお代わりそろそろ頼みましょうか。Sさんは次どうします?ハイボール濃いめで行きますか」
「あ、すいません四月一日さん!じゃあ烏龍茶お願いしていいですか?」
「おっと、助かります。じゃあ私はハイボールで。……それにしても」
手元のタブレットで流れるように追加注文を済ませ、網の上の肉の焼け具合をトングで完璧に見極めながら、それぞれの小皿へと的確に取り分けていく四月一日。その手際の良すぎる給仕ぶりに、S氏は感心しきったように息を吐いた。
「いやはや、本当に四月一日さんは気が利きますね。現場の進行管理も完璧でしたし、こういった席での気配りも隙がない。さすがは、あの伝説の『かっふぇ』さんの相棒を務め上げていただけのことはありますよ」
「よしてくださいよ。俺なんてただのしがない元・日雇いのおっさんですから。現場でこき使われるのは性に合ってるってだけです」
四月一日は照れ隠しに苦笑しつつ、自分のグラスのビールを煽る。三十路の男としてはごく当たり前の処世術のつもりだったが、絶世の美少女の皮を被りながらこの完璧な立ち回りを見せていた数ヶ月前を思い出すと、S氏やOさんからすれば謎の凄みを感じるらしい。
「あ、またハラミが消えてる!」
Oさんが目を丸くして網の上を指差す。そこにあったはずの分厚い肉片が、まるで手品のようにフッと空間から消失していた。
四月一日が足元を覗き込めば、うっすらとした青い靄――『青影』が、見えない口をもぐもぐと動かしながら、満足げに尻尾(のようなもの)を振っている。次元の壁を越えられず現実世界に居着いてしまったこの不思議な影は、今ではすっかり四月一日の背後霊兼ペットとして定着していた。
「また青影ちゃんが食べちゃいましたね。ふふっ、かっふぇさんの大食いを見ていたから、お肉が勝手に減っていくのもなんだかいつもの光景って感じで落ち着きます」
ニコニコと笑うOさんと、タブレットで肉を無限に追加し続けるS氏。もはや彼らにとって、ちょっとしたポルターガイスト現象など、四月一日を構成する賑やかな日常のピースに過ぎなかった。
⬛︎
深夜。ほろ酔い気分で帰宅した四月一日を迎えたのは、隙間風の吹きすさぶ四畳半のボロアパート……ではなく、大企業での正社員という安定した地位と収入を得たことで引っ越した、都内の設備の良い真新しい1LDKのマンションだった。
「ただいま、っと」
オートロックを抜け、玄関のドアを閉めると、外の喧騒が嘘のように遮断される。防音もしっかりしており、最新のエアコンが部屋を常に快適な温度に保ってくれている。四月一日は上着をハンガーに掛けてからキッチンに向かうと、手慣れた手つきでコーヒーミルを取り出した。部屋のグレードは上がっても、このルーティーンと、使っている年季の入った道具だけは変わらない。
ガリ、ガリ、ガリ……。
豆を挽く小気味良い音と、立ち昇る芳醇な香りが、一日の疲れをじんわりと解きほぐしていく。
淹れたてのブラックコーヒーをマグカップに注ぎ、ふかふかのソファに腰を下ろした絶妙なタイミングで。胸ポケットに入れていた『レジェンドトレーナー用アプリ』の入ったウマホが、小気味良い電子音を鳴らした。
『――着信:マンハッタンカフェ』
画面をタップすると、そこには柔らかな日差しを背に受けた、見慣れた相棒の姿があった。
「よ、カフェ。そっちは昼か?」
『どうも、四月一日さん。ええ、午後の授業までは時間がありますので』
二週間に一回程度のペースで続く、次元を越えたビデオ通話。互いの世界の近況報告という名の、他愛もない雑談の始まりだ。
「ニュース、こっちのアプリでも見たぜ。またG1獲ったんだってな。相変わらずカフェさんはすげぇや。ウチの社長も、自分のことみたいに大騒ぎしてたぞ」
『ふふっ。ありがとうございます、社長さんにもよろしくお伝えください。……どうも、そちらの世界から帰ってきてから、本格化が一気に進んだようでして』
「本格化?あー、ウマ娘が一番強くなる時期ってやつか」
『ええ。次元の壁を越えた経験が、私自身の器を、押し広げてくれたのかもしれませんね』
画面の向こうのカフェは、どこか誇らしげに、そして慈しむように目を細めた。四月一日が彼女の体で走り抜けた100万人の熱狂の記憶は、確かにマンハッタンカフェというウマ娘の血肉となっているらしかった。
「そりゃ重畳。無理だけはすんなよ。……あ、そういやこっちの新しい企画でさ、タキオンの奴が前に言ってた怪しい薬の設定をゲームに組み込もうかと思ってんだけど」
『……なるほど。それでしたら、あの薬品の匂いの不快感と味をですね――』
ゲームの企画の相談から始まり、トレセン学園の他愛もない日常の愚痴、そして珈琲の美味しい淹れ方の微調整。互いに心地よいテンポで言葉を交わし、気がつけば1時間が経過していた。
『いけません。そろそろ、午後の授業が近づいてきました』
「おっと、引き止めちまったな。こっちも明日……いや、もう今日か。普通に仕事があるし、そろそろ寝るわ」
『ええ。遅くまでお疲れ様でした、四月一日さん。……おやすみなさい』
「おう。授業頑張ってな。またな、カフェ」
通話が切れ、画面が暗転する。四月一日は残っていた冷めたコーヒーを一気に飲み干し、ふぅ、と大きく息を吐いた。
「(……あの体の軽さ、すげぇ規格外だったよなぁ)」
ふかふかのソファに沈み込みながら、四月一日は思い返す。
ウマ娘とは本当に人間とは違う。地面を蹴ればどこまでも飛んでいけそうな跳躍力、何十キロ走っても息一つ切れない無尽蔵のスタミナ。街を歩けば誰もが振り返り、SNSでは100万人が熱狂してチヤホヤされる圧倒的な美貌を持っている。完全無欠と言って良い存在だろう。
「ま、ウマ娘の尋常じゃねぇ食費とか、変な悪霊に憑かれたりとか、大変な面もクソほどあったけどよ」
なんだかんだで、最高の夢を見させてもらった。
四月一日は苦笑しながら立ち上がり、広くて清潔なバスルームで軽くシャワーを浴びる。日雇い時代には考えられなかった広々としたベッドに潜り込むと、心地よい疲労感と共に、泥のような深い眠りへと落ちていった。
⬛︎
――そして、翌朝。
目を覚ました瞬間、明確な『違和感』があった。いや、違和感という生易しいものではない。脳の処理が追いつかないほどの、絶対的な異物感。
「……なんだ……?」
呟いた自分の声が。
低くてしゃがれた三十路の男の声ではなく、やたらと高く、透き通るような……それでいて、どこか理知的な響きを持った『少女の声』になっていた。
「(……は?)」
ガバッと跳ね起きる。身体が、羽のように軽い。布団を握りしめた手は白く細く、指先にはマメ一つない。そして何より、頭のてっぺんから、見慣れない『ウマ耳』がピョコピョコと生えている感覚がある。
「(キュィィィィッ!?)」
ベッドの足元では、同居している青影が、四月一日の姿を見てパニックに陥ったように部屋中を跳ね回っていた。
「青影、落ち着け、お前どうし……っ!?」
その時。
四月一日の目の前の空間が揺らぎ、半透明のホログラムのような姿で、一人の人物が中空にフワリと浮かび上がった。ボサボサの栗毛。袖の長い白衣。そして、知的好奇心に満ちた妖しい光を放つ瞳。
『ほうほうほう。君がカフェの言っていた四月一日君か。こうして実際に顔を合わせるのは初めてだねぇ!』
それは、記憶の中にあるカフェが幽霊として浮かんでいた時のように、完全に実体を失い『魂』だけの状態となったアグネスタキオンの姿だった。
『どうだい私の身体の使い心地は!いやはや、せっっっかく繋がったこちらとの線があるのにただただ見ているだけというのも勿体なくてね!カフェも時折物悲しそうな顔をするものだからなんとかそちらと行き来が出来ないものかと、次元通信機、つまりはカフェのスマホの出力をほんの少しばかり弄ってみたんだよ!そうすると予想外の位相の反転が起きてしまってね。ああ!そうだ!改めて私はアグネスタキオン!しばらくの間、その身体をよろしく頼むよ!』
「…………おいおい」
四月一日は、ウマ娘の驚異的な瞬発力でベッドから跳ね起きると、洗面所へと駆け出し、大きな鏡の前に立った。
そこに映っていたのは。
三十路の疲れたおっさんではなく、困惑に目を丸くしている『アグネスタキオン』本人の姿だった。
「はっ……ははっ」
四月一日は、鏡に映るマッドサイエンティストな自分の顔を見つめ、数秒間の硬直の後――腹の底から、呆れ果てたような笑い声を漏らした。
日常に戻ったと思っていた。
しかし、どうやら『見えない縁』というやつは、彼が平穏無事に老いていくことを許してはくれないらしい。
四月一日は、タキオンの細い指でウマホを手に取ると、ため息混じりに、あちらの世界の『相棒』へと一通のメッセージを送信した。
『カフェ、聞いてくれ。朝起きたら、君の大親友のマッドサイエンティストになってたんだけど。……あいつ、今回は何やらかした?』