怒涛の生配信を終えた六畳間。
俺は勝負服を慎重に、そしてカフェとお友達の厳しい手ほどきを受けながら脱ぎ捨て、いつものダボダボのTシャツに着替えると、深く息を吐き出した。
「……よし。ひとまず、初配信の大成功を祝って祝杯といくか」
ウマ娘の規格外の胃袋を満たすべく、俺はすぐさまキッチンに立った。
大量の白米を炊飯器に仕込み、まな板の上でキャベツを丸ごと一個、千切りにして山盛りにする。テーブルには、ファンから送られてきた段ボールの中から発掘した、高級そうなレトルトのお惣菜や缶詰を所狭しと並べた。
そして極めつけは、これまたファンからの貢ぎ物である、明らかに俺が普段飲んでいるインスタントとはパッケージの風格が違う高級コーヒー豆だ。
お湯を注ぐと、部屋の空気が一変するほど芳醇で深い香りが広がった。
「おお……流石にいい匂いだな」
『……ええ。素晴らしい香りです』
空中に浮かぶカフェも、うっとりとした表情で目を閉じている。
俺は自分の分のマグカップとは別に、もう一つカップを用意し、さらに小皿に山盛りのキャベツをこんもりと盛り付けた。
それらをテーブルの端に置き、パンッと手を合わせる。
「はい、おあがりください。今日はお疲れ様」
俺がそう告げると、マグカップの黒い液体と、小皿のキャベツが、シュンッという音を立てて見事に消え失せた。
「さて、俺も頂きますか」
俺も箸を手に取り、炊き立てのご飯とお惣菜をかき込み始めた。
美味い。そして、食っても食っても胃袋に無限に吸い込まれていくこのウマ娘の身体の燃費の悪さにも、だんだんと慣れてきた気がする。俺の味覚を通じて料理を味わっているカフェたちも、どこか満足げな空気を漂わせていた。
食後のコーヒーを啜りながら、俺はスマホの収益画面を改めて確認した。
「今日の投げ銭(スーパーチャット)のおかげで、ひとまずはトイレットペーパーとか洗剤とか、そういう細かい雑品を買う余裕は完全にできたな。当面の生活費の心配はなくなった」
『それは、重畳ですね』
上品にコーヒーを嗜むカフェが、ホッと安堵の息を漏らす。
「ああ。ただ、インフルエンサーとしての本当の勝負はこれからだ。投げ銭はあくまで一時的なボーナスみたいなもんだしな。本命は、日々の投稿や動画のインプレッション(表示回数)から入る広告収入だ」
俺は今後の皮算用を頭の中で弾きながら続けた。
「こっちは大体、月に一回の入金サイクルらしい。これがまとまった額で安定して入ってくるようになれば、晴れて俺たちは『インフルエンサー』として完全に自立できるってわけだ」
『なるほど……。この世界の仕組みは複雑ですが、私たちが生きていくための「レース」のようなものですね』
「まぁ、そんなところだ。俺の肉体探しも含めて、まずはこのレースを勝ち抜かないとな」
俺がマグカップを掲げて笑いかけると、カフェは黄金の瞳を優しく細め、静かに頷いた。
『ええ。二人三脚……いえ、三人四脚で、頑張りましょう』
その言葉に合わせるように、足元でキャベツを堪能し終えたお友達の影が、「うんうん!」と力強く頷く。
そして、お友達は黒い腕を天井に向かって突き上げ、「がんばってこー!」と無音の雄叫びを上げるように、楽しげに激しく揺れ動いた。
三十路の元日雇い男、異世界のウマ娘の霊、そして謎の影。
奇妙な共同生活は、こうして確かな生活基盤(とお金)を手に入れ、次なるステージへと歩みを進めるのであった。
■
数日後のある日のこと。比較的この体に慣れてきた俺は、ある提案をカフェに投げた。
「よし、せっかく外出できる服と変装の組み合わせを見つけたんだ。少し遠出して、外の空気を吸いに行こう」
『……大丈夫、でしょうか』
「ま、こういうのは勢いだ。幸い季節も良いしな。厚手のニットでも違和感ないし」
俺はニット帽を目深に被り、Tシャツの上に軽く羽織った秋物のアウターでダボダボのパラシュートパンツの腰部分を少し隠すようにして、アパートを後にした。
向かう先は、電車を乗り継いで少し離れた場所にある、日本が世界に誇る巨大な競馬場――東京競馬場(府中)だ。
「ま、それに、少しぐらい何か手掛かりねぇかなって」
『……なるほど。そうですね。この世界では、馬が走る場所でしたよね』
電車に揺られながら、空中のカフェと小声でやり取りをする。彼女の言葉には、どこか郷愁と好奇心が入り混じったような響きがあった。
「おう。結構迫力あるぜ。ウマ娘のレースとは違うかもしれないけどな」
駅を降りて専用の歩道橋を渡り、巨大なスタンドが見えてくると、流石の俺も少しだけテンションが上がってきた。
今日は秋のGIIレース、毎日王冠が開催される日だ。GⅠ(最高峰のレース)の日ほどの殺人的な混雑ではないが、それでもかなりの数の競馬ファンが詰めかけている。
『あの、本当に、大丈夫でしょうか。ウマ娘とバレないでしょうか』
「はは。ま、こう言う時は、思い切って人の多い場所を移動すりゃあ逆にバレないもんさ」
俺は周囲に溶け込むように、少し前かがみの姿勢で、かつ、カフェから教わった上品な歩き方を意識しつつゲートをくぐり、広大な競馬場の中へと足を踏み入れた。
パドックの熱気、フードコートから漂うモツ煮や焼き鳥の匂い、そして遠くから聞こえるターフを駆ける蹄の音と歓声。
異次元の美少女のガワを被っていても、やはりこういう鉄火場の空気は、元日雇い労働者の俺の血を少しだけ騒がせる。
「しっかし、広いな。カフェもこの人数の中に紛れれば安心だろ」
『ええ。確かに、これだけ人がいれば目立ちませんね』
「そ。で、もし万が一、この耳と尻尾がバレてもさ。『コスプレか何かか? 紛らわしいから禁止だよ』って警備員に追い返されるだけだろうからな。最悪、ダッシュで逃げれば誰も追いつけねぇし」
俺が冗談めかして笑うと、カフェも、
『ふふっ、確かにその通りですね』
と少しだけ口元を綻ばせた。
■
スタンドの端に寄りかかり、遠くのターフを見つめる。青空の下、美しいサラブレッドたちが力強く駆け抜けていく姿は、やはり見惚れるものがあった。
「……それで、カフェさん。お友達さん。どうよ?」
俺は声を潜めて、空中の二人に尋ねた。
「何か見つけたか? それとも、自分の元の世界に通じるような……次元の歪みみたいな、気配とか感じたか?」
ここが、ウマ娘である彼女にとって最も親和性が高い、かもしれない場所だ。もしかしたら、行方不明になった俺の元の肉体の手掛かりや、彼女たちが元の世界へ帰るための糸口が掴めるかもしれないと、淡い期待を抱いていたのだ。
しかし。俺の問いかけに対し、カフェはゆっくりと、しかし確実に首を横に振った。
『……何も。気配すら、ありません』
その黄金の瞳は、ターフを駆ける馬たちをどこか寂しげに見つめている。足元のお友達の影も、項垂れるようにして「全然わからない……」と首を横に振っていた。
「……そっか。まぁ、そんな簡単に手掛かりが見つかるわけないよな。悪霊退治の失敗で飛ばされてきたんだし、競馬場なら何か繋がってるってほどファンタジーなお約束が通用する世界じゃないか」
俺は帽子を目深に被り直し、小さく息を吐いた。
「よし。手掛かりがないなら、今日は純粋に飯でも食って帰るか! ここ東京競馬場ってB級グルメがめちゃくちゃ美味いんだぞ。ウマ娘の胃袋なら、全店舗制覇できるかもしれないしな」
俺が明るい声で提案すると、カフェは少しだけ驚いたようにこちらを見た後、ふわりと柔らかく微笑んだ。
『ええ。……四月一日さんがそうおっしゃるなら。お供します』
お友達の影も「ご飯だご飯だ!」とばかりに、先ほどの落ち込みから一転して激しく縦に揺れ始めた。
手掛かりはゼロ。
元の肉体の行方も、元の世界への帰り方も依然として全く不明のままだ。
だが、焦っても仕方がない。今は、この不思議な運命共同体たちと共に、府中のB級グルメを存分に味わい尽くしてやろう。
俺は、馬の耳とと尻尾をダボダボの服に隠したまま、屋台の並ぶ広場へと足取り軽く向かっていった。
■
「……うんまっ! このモツ煮、めちゃくちゃ味が染みてて最高じゃん!」
俺は片っ端から競馬場グルメを買い込み、フードコートのベンチでもっしゃもっしゃと豪快に平らげていった。
モツ煮込み、大ぶりな焼き鳥、フライドチキンに焼きそば。
ウマ娘のブラックホールのような胃袋にかかれば、これらは単なる前菜に過ぎない。ダボダボのストリート系ファッションに身を包んだ細身の美少女が、山盛りのB級グルメを無心で胃袋に放り込んでいく姿は、周囲の競馬オヤジたちの目を完全に釘付けにしていた。
「すんげー食いっぷりだな、あの嬢ちゃん……」
「あんな細い体のどこに入っていくんだ……?」
おっさんたちがポカンと口を開けて見ているが、そんな視線は気にならない。
傍らではお友達の影も一緒になってエアーモツ煮をかき込み、カフェだけが
『ああっ、四月一日さん、脚が開いてます! 食べ方が野蛮です!』
と空中でハラハラと窘めていた。と、俺が特大サイズのフランクフルトに齧り付こうとした、その時だった。
「――あの、突然失礼します」
不意に、横から声をかけられた。振り返ると、そこには一眼レフカメラを首から下げた、人の良さそうな三十代くらいの男性が立っていた。彼は少し緊張した面持ちで、俺に一枚の名刺を差し出してきた。
「私、サンケイの者なんですが。もしよろしければ、少しインタビューをさせていただいてもよろしいでしょうか?」
名刺に目を落とす。そこには燦然と『週刊Gallop(ギャロップ) 編集部』の文字が印字されていた。競馬ファンなら誰もが知る、超有名な老舗の競馬専門誌である。
「現在、『競馬場に来る若い世代のファン』をテーマに取材をしておりまして。お姉さん、とても目を引く素敵な雰囲気でしたので、ぜひお話を伺えないかと」
(……やばい、ギャロップの取材!?)
俺は内心で盛大に焦った。
――油断しきったガサツな食事風景を撮られてはいないだろうか。中身がオッサンだとバレるような挙動をしてはいなかっただろうか。チラリとカフェを見ると、
『っ……! 早く、いつもの清楚な感じに!』
と必死に目配せをしている。
俺はフランクフルトをそっと皿に置き、深呼吸を一つした。そして、背筋をピンと伸ばし、開きっぱなしだった膝を閉じ、両手を上品に重ねる。表情筋から一切の感情を抜き去り、ミステリアスで静謐な「マンハッタンカフェ」のオーラを全身に纏わせた。
数秒前までの「フードファイターのガサツな若者」から、「影を帯びた清楚で神秘的な美少女」への、完璧なスイッチング。
取材の男性が、俺の突然の雰囲気の変化にハッとして息を呑むのがわかった。
「……かまいませんよ」
俺は黄金の瞳で彼を静かに見据え、透き通るようなウィスパーボイスでそう告げた。
(これでよし!)
内心でガッツポーズをする俺と、ホッと胸を撫で下ろすカフェ。
こうして、図らずも現実世界の競馬メディアと「マンハッタンカフェ」が、奇妙な形で接触を果たしてしまったのである。