ルシアン・イモターレは美しかった。
夜を溶かしたような黒髪。長い睫毛に縁取られた、深い碧色の瞳。白く滑らかな肌と、彫刻師が丹念に削り出したような鼻梁。
寝台の傍らに置かれた姿見には、その美貌を引き立たせる、均整の取れた肉体までが余すところなく映っていた。
ルシアンは上半身裸のまま、ゆっくりと身体をひねった。
「……悪くない」
鏡の中の青年も、自信に満ちた微笑を返す。
「問題は、この角度では僕自身が全身を鑑賞できないことだな」
由々しき問題だった。
世界最高峰の芸術品である自分を、世界で最も正しく評価できる自分自身が見られない。鏡という道具には、まだ改善の余地がある。
ルシアンは銀の櫛を手に取り、丹念に髪を梳いた。
幼いころから、二人の姉は彼を蝶よ花よと育てた。
長姉《エリシアーヌ》は、ルシアンの髪を毎朝梳きながら、世界でいちばん綺麗な子だと褒めた。次姉《セリアナ》は服を着せ替えては、どの色も似合うのだから困ると笑った。
二人とも、嘘をつける性格ではない。
したがってルシアンが絶世の美男子であることは、客観的事実だった。
彼は鏡台に並んだ小瓶から香油を一滴、手のひらへ垂らそうとした。
出なかった。
「……おや?」
瓶を逆さにする。
振る。
底を叩く。
何も出ない。
ルシアンは空瓶を光へ透かし、眉をひそめた。
「昨日の僕は、ずいぶん無計画だったらしい」
仕方なく新しい瓶を出そうと、鏡台の引き出しを開ける。
ない。
予備を入れてある戸棚にも、ない。
代わりに見つかったのは、香油商から届いた請求書だった。
銀貨三枚。
その下には、仕立屋からの請求書。銀貨五枚。
さらに、その下には次姉セリアナからの手紙があった。
『ルシアンへ。
お父様が亡くなって大変なのは分かっています。
でも、送ったお金をすべて美容品に使うのはやめなさい。
畑を人に任せるにもお金がかかります。屋敷を維持するにもお金がかかります。
働きなさい。
セリアナ』
「姉上は相変わらず心配性だな」
ルシアンは手紙を丁寧に畳んだ。
働く。
それは確かに、一つの方法ではある。
だが畑へ出れば、日差しが肌を焼く。土が爪の間に入る。鍬を振れば一部の筋肉ばかりが発達し、この完璧な均整を損なうかもしれない。
美を損ねて金を得るなど、本末転倒だった。
ルシアンは衣装箪笥の奥にある小さな金庫を開けた。
銅貨が六枚。
以上。
「…………」
ルシアンは蓋を閉じた。
もう一度開けた。
銅貨が六枚。
残念ながら、現実は一度閉じた程度では改善しないらしい。
父ヴァルシアンが亡くなってから、屋敷の財産は急速に減っていた。正確には、もともと現金がほとんど残っていなかった。
土地はある。芋畑もある。古びてはいるが、歴史ある屋敷もある。
しかし、香油商は芋では支払いを受けてくれない。
「これは困ったな」
鏡の中のルシアンは、困っている姿さえ美しかった。
彼はしばらく自分の憂い顔を鑑賞し、それから名案を思いついた。
「そうだ。財宝を見つければいい」
働かずして大金を得る。
簡潔で、美しい解決策だった。
◇
イモターレ村の外れには、古い遺跡がある。
何のために作られたのかは分からない。地上に残っているのは、崩れかけた石壁と、地下へ続く階段だけ。
子どものころ、父から近づくなと言われた場所だった。
つまり、何か価値あるものが隠されている可能性が高い。
ルシアンは上等な白い上着に、膝丈の革靴という出で立ちで遺跡へ入った。探索には不向きだが、粗末な服を着て財宝を見つけても絵にならない。
地下は埃っぽく、湿っていた。
「ひどい場所だ」
蜘蛛の巣を避け、落ちた石を持ち上げ、塞がれた通路を進む。
肉体美を維持するための鍛錬は欠かしていない。戦った経験こそなかったが、崩れた石をどかす程度なら苦にならない。
やがて、石壁の一部に不自然な継ぎ目を見つけた。
押しても動かない。
周囲を調べると、蔦に隠れた小さな窪みがあった。指を入れると、内部で何かが沈む。
低い音とともに石壁が横へ滑った。
「やはりね」
何がやはりなのかは、本人にも分かっていなかった。
隠し部屋の奥には、一体の甲冑が立っていた。
鏡を思わせるほど艶々《つやつや》とした漆黒。
丸みを帯びた分厚い胴体は、巨大な甲虫の殻に似ていた。小さな兜からは奇妙な口吻が突き出し、太い腕と脚も胴体に滑らかにつながり、関節の継ぎ目を意識させないほどだった。
騎士の鎧というより、人の形に立ち上がった黒い虫だった。
普通の人間なら、不気味だと思っただろう。
ルシアンは違った。
「……随分と個性的だな」
美しいとは言わなかった。
彼にも良心はある。
甲冑の脇には、古代文字の刻まれた石板があった。
ルシアンは目を細める。
古代語は幼いころに習った。教師の話は長く、文法は退屈だったため、授業の半分ほどは窓に映る自分を見て過ごした。
それでも単語はいくつか読める。
「形姿……保全……肉体を最適な状態に保持し……」
指で文字を追う。
「老化、汚染、損耗を抑制する」
ルシアンの碧眼が輝いた。
肉体を最適な状態に保ち、老化と汚れと損傷を防ぐ。
「なるほど」
彼は確信をもって頷いた。
「僕のために残されたものだな」
石板の下部には、さらに注意書きがある。
「装着後、その効力は完全な状態で持続する……適性を持つ、選ばれた者のみが使用できる」
実際には、保全任務が終わるまで生体接続を解除してはならない、未登録者の使用を禁ずる、と書かれていた。
文法とは大切なものである。
「古代人も、使用者の容姿には相応の水準を求めたらしい」
甲冑の背面に触れると、低い駆動音が鳴った。
黒い外殻が左右へ開く。
内部には、人間一人が収まる空間があった。腕と脚を入れる部分があり、奥には半透明の細い針が並んでいる。
ルシアンは少しだけ顔をしかめた。
「美容に痛みはつきものか」
美とは、常に忍耐を要求する。
彼は上着を脱ぎ、埃のつかない場所を選んで丁寧に畳んだ。
「皺になってはいけないからね」
それから、何の迷いもなく甲冑の中へ身体を収めた。
冷たい内壁が背中へ触れる。
甲冑の奥で、古代語の声が響いた。
《未登録生体を検出》
「この単語はなんだったか……検出?」
《適性照合不能》
「数値では表現できない美しさということだろう」
《緊急保全要員として仮登録》
「僕の美しさを保存するということか?」
《生体固定処理を開始》
「よくわからないが、始めたま――」
無数の針が一斉に突き刺さった。
「ぎゃああああああああっ!」
絶叫が遺跡を揺らした。
「痛い! 待て! 聞いていないぞ! 美とは忍耐を要求するが、これは要求が大きすぎる!」
《神経接続を確認》
「外せ! 今すぐ外したまえ!」
針がさらに深く食い込む。
「ぎゃああああ! 僕は! 僕は人間をやめるのか!?」
《筋組織との同期を開始》
「よくわからないが開始とやらはやめてくれ!余計なことをするな!」
背後で重い外殻が動き始めた。
「待て。待ってくれ。少し考え直そう。古代文明と現代の美意識の差を埋めるには、話し合いが必要だ」
《外殻を封鎖します》
「話し合えと言っているだろう!」
黒い装甲が閉じた。
轟音とともに、光が消える。
しばらくして内部に青白い灯りがともった。
痛みは不意に消えていた。
ルシアンは荒い息を整える。
「……まあ。多少、刺激的な施術ではあったが、僕ほどの精神力があれば問題はない」
《心拍数、平常値を大幅に超過》
「黙りたまえ」
さて、肝心なのは仕上がりだ。
「顔の部分を開けたまえ」
《作業環境保全のため、頭部外殻を封鎖します》
「……開けたまえ」
《命令を受理できません》
「開けろ」
《命令を受理できません》
ルシアンは腕を動かし、兜の内側へ手をかけようとした。
指先が触れたのは、継ぎ目すらない硬い表面だった。
背面も開かない。
腕も脚も動く。呼吸もできる。痛みもない。
ただし、出られない。
そして何より、顔が見えない。
髪も、瞳も、鍛え抜いた肉体も、すべてが漆黒の外殻に覆われている。
その事実を理解するまでに、数秒かかった。
「……待て」
返事はない。
「待ちたまえ」
《保全任務を開始してください》
「何を始めろというのだ!」
黒い甲虫のような甲冑が、隠し部屋の中央で両腕を広げた。
兜の奥から、悲痛な叫びが響き渡る。
「これでは、僕の美しさが見せられないではないか!」