僕の美しさが見せられない!   作:柿木杮

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第1話 呪いの甲冑

 ルシアン・イモターレは美しかった。

 

 夜を溶かしたような黒髪。長い睫毛に縁取られた、深い碧色の瞳。白く滑らかな肌と、彫刻師が丹念に削り出したような鼻梁。

 

 寝台の傍らに置かれた姿見には、その美貌を引き立たせる、均整の取れた肉体までが余すところなく映っていた。

 

 ルシアンは上半身裸のまま、ゆっくりと身体をひねった。

 

「……悪くない」

 

 鏡の中の青年も、自信に満ちた微笑を返す。

 

「問題は、この角度では僕自身が全身を鑑賞できないことだな」

 

 由々しき問題だった。

 

 世界最高峰の芸術品である自分を、世界で最も正しく評価できる自分自身が見られない。鏡という道具には、まだ改善の余地がある。

 

 ルシアンは銀の櫛を手に取り、丹念に髪を梳いた。

 

 幼いころから、二人の姉は彼を蝶よ花よと育てた。

 

 長姉《エリシアーヌ》は、ルシアンの髪を毎朝梳きながら、世界でいちばん綺麗な子だと褒めた。次姉《セリアナ》は服を着せ替えては、どの色も似合うのだから困ると笑った。

 

 二人とも、嘘をつける性格ではない。

 

 したがってルシアンが絶世の美男子であることは、客観的事実だった。

 

 彼は鏡台に並んだ小瓶から香油を一滴、手のひらへ垂らそうとした。

 

 出なかった。

 

「……おや?」

 

 瓶を逆さにする。

 

 振る。

 

 底を叩く。

 

 何も出ない。

 

 ルシアンは空瓶を光へ透かし、眉をひそめた。

 

「昨日の僕は、ずいぶん無計画だったらしい」

 

 仕方なく新しい瓶を出そうと、鏡台の引き出しを開ける。

 

 ない。

 

 予備を入れてある戸棚にも、ない。

 

 代わりに見つかったのは、香油商から届いた請求書だった。

 

 銀貨三枚。

 

 その下には、仕立屋からの請求書。銀貨五枚。

 

 さらに、その下には次姉セリアナからの手紙があった。

 

『ルシアンへ。

 

 お父様が亡くなって大変なのは分かっています。

 

 でも、送ったお金をすべて美容品に使うのはやめなさい。

 

 畑を人に任せるにもお金がかかります。屋敷を維持するにもお金がかかります。

 

 働きなさい。

 

 セリアナ』

 

「姉上は相変わらず心配性だな」

 

 ルシアンは手紙を丁寧に畳んだ。

 

 働く。

 

 それは確かに、一つの方法ではある。

 

 だが畑へ出れば、日差しが肌を焼く。土が爪の間に入る。鍬を振れば一部の筋肉ばかりが発達し、この完璧な均整を損なうかもしれない。

 

 美を損ねて金を得るなど、本末転倒だった。

 

 ルシアンは衣装箪笥の奥にある小さな金庫を開けた。

 

 銅貨が六枚。

 

 以上。

 

「…………」

 

 ルシアンは蓋を閉じた。

 

 もう一度開けた。

 

 銅貨が六枚。

 

 残念ながら、現実は一度閉じた程度では改善しないらしい。

 

 父ヴァルシアンが亡くなってから、屋敷の財産は急速に減っていた。正確には、もともと現金がほとんど残っていなかった。

 

 土地はある。芋畑もある。古びてはいるが、歴史ある屋敷もある。

 

 しかし、香油商は芋では支払いを受けてくれない。

 

「これは困ったな」

 

 鏡の中のルシアンは、困っている姿さえ美しかった。

 

 彼はしばらく自分の憂い顔を鑑賞し、それから名案を思いついた。

 

「そうだ。財宝を見つければいい」

 

 働かずして大金を得る。

 

 簡潔で、美しい解決策だった。

 

     ◇

 

 イモターレ村の外れには、古い遺跡がある。

 

 何のために作られたのかは分からない。地上に残っているのは、崩れかけた石壁と、地下へ続く階段だけ。

 

 子どものころ、父から近づくなと言われた場所だった。

 

 つまり、何か価値あるものが隠されている可能性が高い。

 

 ルシアンは上等な白い上着に、膝丈の革靴という出で立ちで遺跡へ入った。探索には不向きだが、粗末な服を着て財宝を見つけても絵にならない。

 

 地下は埃っぽく、湿っていた。

 

「ひどい場所だ」

 

 蜘蛛の巣を避け、落ちた石を持ち上げ、塞がれた通路を進む。

 

 肉体美を維持するための鍛錬は欠かしていない。戦った経験こそなかったが、崩れた石をどかす程度なら苦にならない。

 

 やがて、石壁の一部に不自然な継ぎ目を見つけた。

 

 押しても動かない。

 

 周囲を調べると、蔦に隠れた小さな窪みがあった。指を入れると、内部で何かが沈む。

 

 低い音とともに石壁が横へ滑った。

 

「やはりね」

 

 何がやはりなのかは、本人にも分かっていなかった。

 

 隠し部屋の奥には、一体の甲冑が立っていた。

 

 鏡を思わせるほど艶々《つやつや》とした漆黒。

 

 丸みを帯びた分厚い胴体は、巨大な甲虫の殻に似ていた。小さな兜からは奇妙な口吻が突き出し、太い腕と脚も胴体に滑らかにつながり、関節の継ぎ目を意識させないほどだった。

 

 騎士の鎧というより、人の形に立ち上がった黒い虫だった。

 

 普通の人間なら、不気味だと思っただろう。

 

 ルシアンは違った。

 

「……随分と個性的だな」

 

 美しいとは言わなかった。

 

 彼にも良心はある。

 

 甲冑の脇には、古代文字の刻まれた石板があった。

 

 ルシアンは目を細める。

 

 古代語は幼いころに習った。教師の話は長く、文法は退屈だったため、授業の半分ほどは窓に映る自分を見て過ごした。

 

 それでも単語はいくつか読める。

 

「形姿……保全……肉体を最適な状態に保持し……」

 

 指で文字を追う。

 

「老化、汚染、損耗を抑制する」

 

 ルシアンの碧眼が輝いた。

 

 肉体を最適な状態に保ち、老化と汚れと損傷を防ぐ。

 

「なるほど」

 

 彼は確信をもって頷いた。

 

「僕のために残されたものだな」

 

 石板の下部には、さらに注意書きがある。

 

「装着後、その効力は完全な状態で持続する……適性を持つ、選ばれた者のみが使用できる」

 

 実際には、保全任務が終わるまで生体接続を解除してはならない、未登録者の使用を禁ずる、と書かれていた。

 

 文法とは大切なものである。

 

「古代人も、使用者の容姿には相応の水準を求めたらしい」

 

 甲冑の背面に触れると、低い駆動音が鳴った。

 

 黒い外殻が左右へ開く。

 

 内部には、人間一人が収まる空間があった。腕と脚を入れる部分があり、奥には半透明の細い針が並んでいる。

 

 ルシアンは少しだけ顔をしかめた。

 

「美容に痛みはつきものか」

 

 美とは、常に忍耐を要求する。

 

 彼は上着を脱ぎ、埃のつかない場所を選んで丁寧に畳んだ。

 

「皺になってはいけないからね」

 

 それから、何の迷いもなく甲冑の中へ身体を収めた。

 

 冷たい内壁が背中へ触れる。

 

 甲冑の奥で、古代語の声が響いた。

 

《未登録生体を検出》

 

「この単語はなんだったか……検出?」

 

《適性照合不能》

 

「数値では表現できない美しさということだろう」

 

《緊急保全要員として仮登録》

 

「僕の美しさを保存するということか?」

 

《生体固定処理を開始》

 

「よくわからないが、始めたま――」

 

 無数の針が一斉に突き刺さった。

 

「ぎゃああああああああっ!」

 

 絶叫が遺跡を揺らした。

 

「痛い! 待て! 聞いていないぞ! 美とは忍耐を要求するが、これは要求が大きすぎる!」

 

《神経接続を確認》

 

「外せ! 今すぐ外したまえ!」

 

 針がさらに深く食い込む。

 

「ぎゃああああ! 僕は! 僕は人間をやめるのか!?」

 

《筋組織との同期を開始》

 

「よくわからないが開始とやらはやめてくれ!余計なことをするな!」

 

 背後で重い外殻が動き始めた。

 

「待て。待ってくれ。少し考え直そう。古代文明と現代の美意識の差を埋めるには、話し合いが必要だ」

 

《外殻を封鎖します》

 

「話し合えと言っているだろう!」

 

 黒い装甲が閉じた。

 

 轟音とともに、光が消える。

 

 しばらくして内部に青白い灯りがともった。

 

 痛みは不意に消えていた。

 

 ルシアンは荒い息を整える。

 

「……まあ。多少、刺激的な施術ではあったが、僕ほどの精神力があれば問題はない」

 

《心拍数、平常値を大幅に超過》

 

「黙りたまえ」

 

 さて、肝心なのは仕上がりだ。

 

「顔の部分を開けたまえ」

 

《作業環境保全のため、頭部外殻を封鎖します》

 

「……開けたまえ」

 

《命令を受理できません》

 

「開けろ」

 

《命令を受理できません》

 

 ルシアンは腕を動かし、兜の内側へ手をかけようとした。

 

 指先が触れたのは、継ぎ目すらない硬い表面だった。

 

 背面も開かない。

 

 腕も脚も動く。呼吸もできる。痛みもない。

 

 ただし、出られない。

 

 そして何より、顔が見えない。

 

 髪も、瞳も、鍛え抜いた肉体も、すべてが漆黒の外殻に覆われている。

 

 その事実を理解するまでに、数秒かかった。

 

「……待て」

 

 返事はない。

 

「待ちたまえ」

 

《保全任務を開始してください》

 

「何を始めろというのだ!」

 

 黒い甲虫のような甲冑が、隠し部屋の中央で両腕を広げた。

 

 兜の奥から、悲痛な叫びが響き渡る。

 

「これでは、僕の美しさが見せられないではないか!」

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