翌日の昼前。
森を抜けた先で、視界が大きく開けた。
「見えたぞ、センセイ」
その指さす先に、段状の石造建築が広がっていた。
浅い谷を埋めるように、いくつもの中庭と回廊が連なっている。
だが、その半分以上は水へ沈んでいた。
水面から欄干だけが突き出した橋。
途中で消える石段。
上部だけを残した柱。
緑がかった水の底には、崩れた彫像や敷石が揺らめいている。
「ここが沈み庭か」
「庭というより、町みたいだな」
「古代人は、庭の管理にも無駄な規模を求めたらしい」
二人は外周を歩き、水際へ下りられる場所を探した。
浅い区画には泥が溜まり、水草が石畳の隙間から伸びている。
人の足跡は少ない。
水上に残った区画は、とうに探し尽くされている。
沈んだ場所へ入ろうとする者は、ほとんどいなかった。危険と持ち帰れる物の価値が釣り合わないからだ。
紋章入りの板が見つかっとはいえ、水中以外にほとんど探索できる場所のない北側まで来る物好きとなれば、なおさら少ない。
古い焚き火の跡と、浅瀬を探ったらしい棒の痕跡が残っている程度だった。
「北の回廊は、あっちだよな」
ポックが、鑑定士から書き写した簡単な見取り図を広げる。
「七年前に板が見つかったのは、この外周から入った先だ。けど、水が深い場所までは誰も調べてない」
「僕のために残されていたということだね」
「沈む奴がいなかっただけだろ」
「まだ僕が沈むと決まったわけではない」
ポックは見取り図を畳んだ。
「だから確かめるんだよ」
◇
二人は、水中へ続く石段のそばに荷物を下ろした。
まずは甲冑が水中でどうなるかを確かめなければならない。
背負子から食料や毛布を外し、乾いた石床へまとめる。
背負子そのものは、ルシアンの外殻へ残した。
「荷物まで一緒に沈めないのか?」
「防水袋にも限界がある。それに、最初は試すだけだ」
「僕の身体は試験用の錘ではないぞ」
「錘より高いから、引き上げる準備をしてるんだよ」
水際には、太い石柱が一本立っていた。
上部は欠けていたが、根元は石床と一体になっている。
ルシアンが両手を当て、ゆっくりと力を加えた。
柱は動かない。
「もっと強く押してみろ」
「壊れたらどうする」
「センセイを吊ってから折れる方が困るだろ」
「一理あるが、僕に壊させようとするのは感心しないな」
ルシアンは少しだけ力を増した。
石柱は低く軋んだものの、根元は揺らがなかった。
「これなら使える」
ポックは荷物の中から二つの滑車枠を取り出した。
一つの枠に、滑車が三つ並んでいる。
一方を太い革帯と鎖で石柱へ固定し、もう一方を背負子の鉄輪へ鉤でつないだ。
二つの滑車枠の間へ、長縄を何度も往復させる。
「ずいぶん複雑だな」
「六本の縄でセンセイを支えるんだ。その分だけ、おれが引く力は小さくなる」
「僕の重さを六分の一にするということか」
「滑車にも縄にも抵抗があるから、そこまでは軽くならない」
「古代の甲冑を現代の縄で吊るとは、ずいぶん不釣り合いだな」
「古代の甲冑が自分で浮けば、こんなことしなくて済むぞ」
「まだ沈むと決まっていない」
ポックは長縄の端を、石柱の根元へ据えた巻き上げ器へ通した。
太い木軸の横には長い取っ手があり、その脇には鉄の歯車と歯止めがついている。
取っ手を回すと、縄がゆっくりと軸へ巻き取られた。
かち。
かち。
歯止めが歯車へ噛み込み、手を離しても逆には回らない。
「下ろすときは?」
「取っ手を押さえながら、歯止めを持ち上げて逆に回す」
ポックは実際に少しだけ縄を送り出した。
手を離すと、持ち上げていた歯止めが落ちる。
がちん。
軸が止まった。
「途中でおれが手を離しても、センセイは落ちない」
「十三歳の君が、僕を本当に引き上げられるのかね」
「一気には無理だ。少しずつ巻く」
「救出される側にも忍耐が必要らしいな」
「沈まなければ使わずに済むぞ」
「先ほどから、僕が沈むことを期待していないか?」
「沈むと思って準備してるだけだ」
ポックは背負子の鉄輪を引き、滑車枠との接続を確かめた。
次に革帯へ指を差し込み、緩みがないか順番に調べる。
「ずいぶん念入りだな」
「これが外れたら、滑車だけ上がってきてセンセイは底に残る」
「縁起でもない想像を口にするな」
「想像しておいた方が、そうならずに済むんだよ」
「ポックンの想像力は、もっと華やかな方面へ使うべきだな」
「例えば?」
「水底から完璧な姿で現れる僕を思い描く」
「今のセンセイが水底から出てきたら、泥の中から虫が湧いたようにしか見えないぞ」
「君には美的教養が足りない」
◇
引き上げ用の太い縄とは別に、ポックは細縄を取り出した。
一端をルシアンの左手首へ巻く。
「これは?」
「合図用だ。引き上げる縄は滑車を何度も通ってるから、細かい動きが分かりにくい」
「どのように使う」
「三度強く引いたら、すぐ戻れ」
「一度と二度は?」
「まずは三度だけ覚えろ」
「僕の記憶力を侮っているな」
「水の中で言い合いになっても、聞こえないからな」
「一理ある」
「センセイから三度引いたときは、引き上げろって意味にする」
「同じ回数では紛らわしくないか?」
「どっちから引いたかくらい分かるよ」
「君が慌てて六度引いた場合は?」
「そんなこと考えてたら、いつまで経っても入れないだろ!」
ポックはすべての結び目と金具を、最初からもう一度確かめた。
滑車枠。
吊り輪。
巻き上げ器。
石柱へ回した革帯と鎖。
ルシアンの手首につながる細縄。
「もうよいのではないか?」
「水へ入ってから外れたら遅い」
「慎重なのは美徳だが、少々くすぐったい」
「鎧の上からだろ」
「僕の身体の一部だ」
「我慢してくれ」
最後にポックは、巻き上げ器の歯止めを強く押した。
鉄の爪が歯車へ噛み込む。
「これでいい」
ルシアンは水際へ立った。
澄んだ水の中へ、石段が続いている。
一段目。
水が足首まで上がった。
二段目。
膝。
三段目で腰まで沈む。
背中では組滑車がゆっくりと動き、ポックが取っ手を逆に回しながら長縄を送り出していた。
水の冷たさは、甲冑の内側へは届かなかった。
《水中環境を検出》
「反応があった」
「大丈夫か?」
「問題ない。水中でも僕の肉体は完璧に保護されている」
「まだ腰までだぞ」
「水へ触れた時点で、性能の高さは十分に分かる」
「転んだだけで溺れるかもしれないだろ」
「この僕が、そのような無様な――」
石段の表面で片足が滑った。
黒い巨体がわずかに傾く。
ルシアンは両腕を広げ、どうにか踏みとどまった。
「今のは苔だ」
「無様だったな」
「水中では誰でも優雅さを保ちにくいものだよ」
「まだ腰までだって」
さらに一段下りる。
水が胸元へ届いた。
「息は?」
「普通にできる」
「顔まで入れてみろ」
「僕の顔はすでに外殻の中だ」
「そういう意味じゃない」
ポックは巻き上げ器の取っ手を握ったまま、水際へ身を乗り出した。
「何かあったら、細縄を三度引けよ」
「何度も言われなくとも覚えている」
「本当に?」
「僕を誰だと思っている」
「古代語を読み間違えて鎧を着た人」
「それとこれとは別問題だ!」
ルシアンは慎重に身を沈めた。
水面が兜の口吻を越える。
視界が一瞬揺らぎ、外の音が遠くなった。
水面を通した光が、緑色の筋になって石段へ降り注いでいる。
呼吸は変わらない。
胸の圧迫もない。
水は外殻の隙間へ流れ込んでいるらしいが、内側の身体へは触れていなかった。
《水中保全作業へ移行》
頭の内側へ、明確な意味が流れ込んだ。
ルシアンは水上のポックへ片手を上げた。
問題ない。
そう伝えようとした、そのときだった。
足元の石段が途切れた。
「――!」
黒い甲冑が前へ傾く。
踏み出した足は、何にも触れなかった。
巨大な外殻は水を掻くことも、浮かぶこともなく、そのまま底の見えない緑の中へ沈んでいく。
背中の滑車が激しく回った。
巻き上げ器の取っ手が、ポックの手を弾いて逆回転する。
「センセイ!」
持ち上げられていた歯止めが落ちた。
がががががっ――。
がちん。
数尺沈んだところで、ルシアンの身体が止まった。
水底には届かない。
頭上の水面にも戻れない。
黒い甲冑は、緑色の水の中で宙吊りになっていた。
水上では、ポックが巻き上げ器の取っ手へ飛びついていた。