水の中で、ルシアンは宙に吊られていた。
頭上では、水面を通した光が緑色に揺れている。
足元には何もない。
背中から伸びた縄だけが、黒い巨体を支えていた。
「……実に美しくない姿勢だな」
声は兜の内側で響いただけだった。
水面までは届いていないらしい。
頭上へ向かって呼びかけようとしたとき、背中の縄がわずかに動いた。
かち。
振動が外殻へ伝わる。
少し遅れて、もう一度。
かち。
ルシアンの身体が、わずかずつ持ち上がり始めた。
◇
水上では、ポックが巻き上げ器の取っ手へ体重をかけていた。
「重っ……!」
両足を石床へ突っ張り、長い取っ手を下へ押し込む。
半周したところで握り直す。
かち。
歯止めが歯車へ噛み込んだ。
手を離しても、巻き取った縄は戻らない。
ポックは荒い息を整え、再び取っ手を掴んだ。
「買っておいて……よかっただろ、センセイ!」
返事はない。
緑色の水面が揺れているだけだった。
「聞こえてないのかよ!」
もう一度、全身で取っ手を押す。
かち。
水中の黒い影が、少しずつ近づいてきた。
◇
引き上げられるにつれ、ルシアンの足元に石段の端が見えてきた。
つま先を伸ばす。
一度目は届かない。
さらに縄が巻き取られ、二度目で黒い足が石へ触れた。
ルシアンは体重を載せた。
滑りかけた足を踏み直し、縄に支えられながら石段へよじ登る。
水面から兜が出た。
「ポックン。もう十分だ」
「止めていいのか?」
「ああ。足が届いた」
ポックが取っ手から手を離す。
歯止めが噛み込み、縄が固定された。
ルシアンは石段を上がり、水際へ戻った。
「見事だったよ。君は将来、優秀な荷役人になれる」
「三度引けって言っただろ!」
ポックの怒声が返ってきた。
「落ちている最中に、悠長に三度数える余裕はなかった」
「落ちたあとに引けたよな?」
「甲冑の水中性能を確認していた」
「宙吊りになったまま?」
「あの状態でも呼吸と身体に異常はなかった」
「自分で戻れなかっただろ!」
ルシアンは口を閉じた。
呼吸ができる。
痛みも冷たさも感じない。
しかし足場がなければ、あのまま水中から出ることはできなかった。
「その点については、多少の改善が必要だな」
「改善するのは甲冑じゃなくて、センセイの合図だよ!」
ポックは細縄を持ち上げた。
「動けなくなったら三度引け。異常がなくても、戻れなくなったら三度だ」
「戻れないことが異常なのでは?」
「だったら、さっき引けよ!」
「分かった。次からはそうしよう」
素直に答えると、ポックが逆に疑わしそうな目を向けた。
「本当に分かった?」
「僕は一度指摘されれば改善できる男だ」
「今度は縄を引けよ」
「三度だろう。覚えているとも」
ポックは少し考え、細縄を一度だけ引いた。
「一度は、問題なし」
「三度は、戻るか引き上げる」
「そう。それだけだ」
「二度は?」
「決めない」
「途中が空いているのは落ち着かないな」
「増やすとセンセイが間違える」
「僕を幼児のように扱っていないか?」
「センセイより幼児の方が慎重かもしれないぞ」
「美の基準には、慎重さは含まれていないのさ」
◇
二度目は、落ちるのではなく下ろされることになった。
ポックが巻き上げ器の取っ手を押さえ、歯止めを持ち上げる。
「急に手を離すなよ」
「君こそ、僕を急に落とさないでもらいたい」
「さっき落ちたのは自分だろ」
取っ手がゆっくりと逆へ回る。
縄が送り出され、ルシアンの身体が石段の先へ沈んでいった。
水面が兜を越える。
外の音が遠ざかる。
《水中保全作業へ移行》
今度は姿勢を崩さず、黒い巨体がまっすぐ降りていく。
やがて足裏へ硬い感触があった。
水底だった。
ルシアンは細縄を一度引いた。
少し間を置いて、細縄が一度引き返される。
声も表情も届かない水の中で、それだけははっきりと分かった。
「よろしい」
誰にも聞こえないまま頷く。
水底には、上から見えなかった回廊が続いていた。
横倒しになった石像。
水草に覆われた欄干。
敷石の隙間を泳ぐ小魚。
ルシアンが一歩進むたび、底へ積もった泥が黒い足元から舞い上がった。
小魚が一斉に散る。
《周辺生体の退避を確認》
「威厳に打たれたと言いたまえ」
甲冑は訂正しなかった。
背中の太い縄を引きずりながら、石段の周囲を歩く。
遠くへは行けない。
滑車から伸びた縄が張り始めれば、そこが限界だった。
それでも水上から見えた範囲より、はるかに多くの物が水底へ沈んでいる。
崩れた壁の脇で、水草が同じ方向へなびいていた。
流れがある。
ルシアンは泥を巻き上げないよう、ゆっくりと近づいた。
枯れ葉や細い藻が、壁の下部へ吸い寄せられている。
水草を掴み、横へ払う。
その下に、円の中へ三本の線を並べた印が刻まれていた。
「見つけたぞ、ポックン」
当然、返事はない。
ルシアンが印へ黒い手を重ねる。
泥の下から青白い線が広がった。
《保全従事者を確認》
《沈降庭区・水位調整系統を検出》
《下層排水弁、停止》
《上層操作弁との同期操作を要求》
壁の一部が低く震えた。
泥が流れ落ち、埋もれていた大きな輪が姿を現す。
両手で抱えるほどの、石とも金属ともつかない操作輪だった。
ルシアンは輪へ触れた。
《単独操作を禁止》
「古代人は、どこまでも人使いが荒いな」
下層には自分。
上層には、別の操作弁。
一人では動かせない。
ルシアンは手首の細縄を握った。
一度目。
二度目。
三度目。
強く引く。
しばらくして、背中の太い縄が張った。
かち。
かち。
水底から、黒い巨体がゆっくりと引き上げられていく。
◇
石段まで戻ったルシアンが水面から顔を出すと、ポックは取っ手を握ったまま尋ねた。
「三度だったな。何かあったのか?」
「ああ」
ルシアンは石段へ足を載せた。
「同じ印を見つけた」
ポックの表情が変わる。
「鐘鳴り坑道と同じ?」
「設備も生きている。ただし、一人では動かせないらしい」
「おれは何をすればいい?」
「地上にある、もう一つの弁を探す」
「見つけたら?」
ルシアンは水底を振り返った。
「古代人からの指示は簡潔だ」
「今度は何だよ」
「この庭の水を抜け、だそうだ」