僕の美しさが見せられない!   作:柿木杮

15 / 18
第15話 縄を三度引け

 水の中で、ルシアンは宙に吊られていた。

 

 頭上では、水面を通した光が緑色に揺れている。

 

 足元には何もない。

 

 背中から伸びた縄だけが、黒い巨体を支えていた。

 

「……実に美しくない姿勢だな」

 

 声は兜の内側で響いただけだった。

 

 水面までは届いていないらしい。

 

 頭上へ向かって呼びかけようとしたとき、背中の縄がわずかに動いた。

 

 かち。

 

 振動が外殻へ伝わる。

 

 少し遅れて、もう一度。

 

 かち。

 

 ルシアンの身体が、わずかずつ持ち上がり始めた。

 

     ◇

 

 水上では、ポックが巻き上げ器の取っ手へ体重をかけていた。

 

「重っ……!」

 

 両足を石床へ突っ張り、長い取っ手を下へ押し込む。

 

 半周したところで握り直す。

 

 かち。

 

 歯止めが歯車へ噛み込んだ。

 

 手を離しても、巻き取った縄は戻らない。

 

 ポックは荒い息を整え、再び取っ手を掴んだ。

 

「買っておいて……よかっただろ、センセイ!」

 

 返事はない。

 

 緑色の水面が揺れているだけだった。

 

「聞こえてないのかよ!」

 

 もう一度、全身で取っ手を押す。

 

 かち。

 

 水中の黒い影が、少しずつ近づいてきた。

 

     ◇

 

 引き上げられるにつれ、ルシアンの足元に石段の端が見えてきた。

 

 つま先を伸ばす。

 

 一度目は届かない。

 

 さらに縄が巻き取られ、二度目で黒い足が石へ触れた。

 

 ルシアンは体重を載せた。

 

 滑りかけた足を踏み直し、縄に支えられながら石段へよじ登る。

 

 水面から兜が出た。

 

「ポックン。もう十分だ」

 

「止めていいのか?」

 

「ああ。足が届いた」

 

 ポックが取っ手から手を離す。

 

 歯止めが噛み込み、縄が固定された。

 

 ルシアンは石段を上がり、水際へ戻った。

 

「見事だったよ。君は将来、優秀な荷役人になれる」

 

「三度引けって言っただろ!」

 

 ポックの怒声が返ってきた。

 

「落ちている最中に、悠長に三度数える余裕はなかった」

 

「落ちたあとに引けたよな?」

 

「甲冑の水中性能を確認していた」

 

「宙吊りになったまま?」

 

「あの状態でも呼吸と身体に異常はなかった」

 

「自分で戻れなかっただろ!」

 

 ルシアンは口を閉じた。

 

 呼吸ができる。

 

 痛みも冷たさも感じない。

 

 しかし足場がなければ、あのまま水中から出ることはできなかった。

 

「その点については、多少の改善が必要だな」

 

「改善するのは甲冑じゃなくて、センセイの合図だよ!」

 

 ポックは細縄を持ち上げた。

 

「動けなくなったら三度引け。異常がなくても、戻れなくなったら三度だ」

 

「戻れないことが異常なのでは?」

 

「だったら、さっき引けよ!」

 

「分かった。次からはそうしよう」

 

 素直に答えると、ポックが逆に疑わしそうな目を向けた。

 

「本当に分かった?」

 

「僕は一度指摘されれば改善できる男だ」

 

「今度は縄を引けよ」

 

「三度だろう。覚えているとも」

 

 ポックは少し考え、細縄を一度だけ引いた。

 

「一度は、問題なし」

 

「三度は、戻るか引き上げる」

 

「そう。それだけだ」

 

「二度は?」

 

「決めない」

 

「途中が空いているのは落ち着かないな」

 

「増やすとセンセイが間違える」

 

「僕を幼児のように扱っていないか?」

 

「センセイより幼児の方が慎重かもしれないぞ」

 

「美の基準には、慎重さは含まれていないのさ」

 

     ◇

 

 二度目は、落ちるのではなく下ろされることになった。

 

 ポックが巻き上げ器の取っ手を押さえ、歯止めを持ち上げる。

 

「急に手を離すなよ」

 

「君こそ、僕を急に落とさないでもらいたい」

 

「さっき落ちたのは自分だろ」

 

 取っ手がゆっくりと逆へ回る。

 

 縄が送り出され、ルシアンの身体が石段の先へ沈んでいった。

 

 水面が兜を越える。

 

 外の音が遠ざかる。

 

《水中保全作業へ移行》

 

 今度は姿勢を崩さず、黒い巨体がまっすぐ降りていく。

 

 やがて足裏へ硬い感触があった。

 

 水底だった。

 

 ルシアンは細縄を一度引いた。

 

 少し間を置いて、細縄が一度引き返される。

 

 声も表情も届かない水の中で、それだけははっきりと分かった。

 

「よろしい」

 

 誰にも聞こえないまま頷く。

 

 水底には、上から見えなかった回廊が続いていた。

 

 横倒しになった石像。

 

 水草に覆われた欄干。

 

 敷石の隙間を泳ぐ小魚。

 

 ルシアンが一歩進むたび、底へ積もった泥が黒い足元から舞い上がった。

 

 小魚が一斉に散る。

 

《周辺生体の退避を確認》

 

「威厳に打たれたと言いたまえ」

 

 甲冑は訂正しなかった。

 

 背中の太い縄を引きずりながら、石段の周囲を歩く。

 

 遠くへは行けない。

 

 滑車から伸びた縄が張り始めれば、そこが限界だった。

 

 それでも水上から見えた範囲より、はるかに多くの物が水底へ沈んでいる。

 

 崩れた壁の脇で、水草が同じ方向へなびいていた。

 

 流れがある。

 

 ルシアンは泥を巻き上げないよう、ゆっくりと近づいた。

 

 枯れ葉や細い藻が、壁の下部へ吸い寄せられている。

 

 水草を掴み、横へ払う。

 

 その下に、円の中へ三本の線を並べた印が刻まれていた。

 

「見つけたぞ、ポックン」

 

 当然、返事はない。

 

 ルシアンが印へ黒い手を重ねる。

 

 泥の下から青白い線が広がった。

 

《保全従事者を確認》

 

《沈降庭区・水位調整系統を検出》

 

《下層排水弁、停止》

 

《上層操作弁との同期操作を要求》

 

 壁の一部が低く震えた。

 

 泥が流れ落ち、埋もれていた大きな輪が姿を現す。

 

 両手で抱えるほどの、石とも金属ともつかない操作輪だった。

 

 ルシアンは輪へ触れた。

 

《単独操作を禁止》

 

「古代人は、どこまでも人使いが荒いな」

 

 下層には自分。

 

 上層には、別の操作弁。

 

 一人では動かせない。

 

 ルシアンは手首の細縄を握った。

 

 一度目。

 

 二度目。

 

 三度目。

 

 強く引く。

 

 しばらくして、背中の太い縄が張った。

 

 かち。

 

 かち。

 

 水底から、黒い巨体がゆっくりと引き上げられていく。

 

     ◇

 

 石段まで戻ったルシアンが水面から顔を出すと、ポックは取っ手を握ったまま尋ねた。

 

「三度だったな。何かあったのか?」

 

「ああ」

 

 ルシアンは石段へ足を載せた。

 

「同じ印を見つけた」

 

 ポックの表情が変わる。

 

「鐘鳴り坑道と同じ?」

 

「設備も生きている。ただし、一人では動かせないらしい」

 

「おれは何をすればいい?」

 

「地上にある、もう一つの弁を探す」

 

「見つけたら?」

 

 ルシアンは水底を振り返った。

 

「古代人からの指示は簡潔だ」

 

「今度は何だよ」

 

「この庭の水を抜け、だそうだ」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。