僕の美しさが見せられない!   作:柿木杮

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第16話 初めての共同作業

「水を抜け、と言われてもな」

 

 ポックは、水面を見下ろした。

 

「栓を抜けば終わり、という大きさじゃないぞ」

 

「そのための設備だろう。古代人も、庭一つを僕に汲み出させるほど無茶ではないはずだ」

 

「蛞蝓《なめくじ》の詰まりは、センセイに引き抜かせたけどな」

 

「彼らの良識には、多少の疑問が残るね」

 

 ルシアンは石段を上がり、水際へ戻った。

 

 背中から水が流れ落ちる。

 

 外殻の継ぎ目へ入り込んだ水も、内部の身体には触れていなかった。

 

「下の弁は、どこにあった?」

 

「石段から十歩ほど進んだ先だ」

 

「どっちへ?」

 

「正面へ進み、倒れた石像を越えてから、優雅に右へ曲がった」

 

「右だけでいいんだよ」

 

「道順にも表現力は必要だろう」

 

「水の中で迷ったら、センセイを引き上げるおれの身にもなれ」

 

 ポックは細縄を手繰り、濡れた長さを確かめた。

 

 ルシアンが下層の印へ触れてから、水際の石床にも変化が起きていた。

 

 細い青白い線が、石段の脇から伸びている。

 

 水底から続いているらしく、水面を越え、ひび割れた石床を横切っていた。

 

「これじゃないか?」

 

「おそらくね」

 

 二人は線をたどった。

 

 水際から六歩ほど離れたところで、線は太い石柱の裏へ回り込んでいる。

 

 水草を払い、蔦を引き剥がす。

 

 その下から、腰ほどの高さがある石台が現れた。

 

 上面には、円の中へ三本の線を並べた印。

 

 側面には、小さな操作輪が半分ほど埋まっていた。

 

「上層操作弁だな」

 

 ポックが輪を掴んだ。

 

 両手で力を込める。

 

 動かない。

 

 足を石台へ当て、身体を後ろへ反らす。

 

「ぐっ……!」

 

 輪は低く軋んだだけだった。

 

「代わろうか?」

 

「センセイが回したら壊すだろ」

 

「僕も繊細な作業を覚えつつある」

 

「鐘鳴り坑道の壁に鼠を埋めたのは、何日前だった?」

 

「僕は後ろは振り向かないようにしてるんだ。美しすぎて過去を魅了してしまうからね」

 

 ポックはそれ以上ルシアンにはかまわず、荷物の中から太い鉤を取り出した。

 

 先端を操作輪の隙間へ差し込み、長い柄を両手で握る。

 

「てこにするのか」

 

「腕だけで駄目なら、道具を使う」

 

「僕なら腕だけで済む」

 

「だからセンセイは下の大きい方だ」

 

「なるほど。適材適所というわけだね」

 

「センセイは力。おれは頭」

 

「僕に頭がないように聞こえるな」

 

「見た目だと小さいぞ」

 

「兜の話をしているのだろうね?」

 

 ポックは答えなかった。

 

     ◇

 

「合図を増やすぞ」

 

 ポックは細縄を持ち上げた。

 

「昨日は、増やすと僕が間違えると言っていなかったか?」

 

「同時に回すなら、始める合図がいる」

 

「やはり二度が空いているのは不自然だったのだよ」

 

「決めなかったのは、センセイが覚えられるか心配だったからだ」

 

「僕の先見性を、君の判断のように語らないでもらいたい」

 

 ポックは指を一本立てた。

 

「一度は、問題なし」

 

 二本目。

 

「二度は、回せ」

 

 三本目。

 

「三度は、中止。戻れ」

 

「完璧に理解した」

 

「言ってみろ」

 

「一度は問題なし。二度は回す。三度は君が慌てている」

 

「中止だよ!」

 

「分かっているとも」

 

「本当に三度来たら、すぐ止めろよ」

 

「君は僕を信用しているのかね?」

 

「信用するために縄でつないでるんだよ」

 

 信用とは、もう少し美しく、心と心で結ばれるものではなかったか。

 

 しかしポックの場合、結び目を二重にした縄も信用の一部らしい。

 

     ◇

 

 ルシアンは三度目の潜水へ入った。

 

 巻き上げ器から長縄が送り出される。

 

 水面が兜を越え、音が遠ざかる。

 

《水中保全作業へ移行》

 

 水底へ着くと、細縄を一度引いた。

 

 一度、引き返される。

 

 ルシアンは倒れた石像を越え、右へ曲がった。

 

 泥の中で青白く光る印をたどり、大きな操作輪の前へ立つ。

 

 輪を両手で掴む。

 

 水上のポックが準備を終えるまで待った。

 

 やがて細縄が動く。

 

 一度。

 

 二度。

 

「始めろ、ということだな」

 

 ルシアンは操作輪へ力を込めた。

 

 同時に、水上ではポックが鉤の柄へ体重をかけていた。

 

 二つの弁が、低い音を立てる。

 

 ぎぎぎ――。

 

 下層の輪は、わずかに動いた。

 

《下層排水弁、同期位置未達》

 

「こちらは動いているぞ」

 

 水上へ文句を言っても届かない。

 

 さらに力を加えようとしたとき、細縄が強く引かれた。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度。

 

 ルシアンは、すぐに手を離した。

 

 操作輪が元の位置へ戻る。

 

「止めたぞ、ポックン」

 

 返事はない。

 

 それでも、今度は合図を無視しなかった。

 

     ◇

 

「固すぎる……!」

 

 水上で、ポックは石床へ尻餅をついていた。

 

 鉤が操作輪の隙間から外れ、横へ転がっている。

 

 輪はほんの少し動いたところで止まっていた。

 

 細縄を三度引いたあと、下層から伝わっていた振動も止まっている。

 

「ちゃんと止めたな」

 

 ポックは息を整え、操作輪を調べた。

 

 片側だけに泥と錆のようなものが固まっている。

 

 短刀の先で掻き出す。

 

 水草の根も、輪の軸へ巻きついていた。

 

「これじゃ回らないわけだ」

 

 根を切り、泥を落とす。

 

 鉤を先ほどより深い位置へ差し込んだ。

 

 今度は石台の角を支点にする。

 

「もう一回だ、センセイ」

 

 細縄を握る。

 

 二度、強く引いた。

 

     ◇

 

 二度の合図。

 

 ルシアンは再び操作輪を掴んだ。

 

「今度こそ、僕の美しい怪力を見せるとしよう」

 

 足を開き、腰を落とす。

 

 黒い両腕へ力を込めた。

 

《出力補助を増加》

 

 水底の輪が、ゆっくりと回り始める。

 

 同時に、頭上から鈍い振動が伝わってきた。

 

 上層の弁も動いている。

 

《上層操作弁との同期を確認》

 

《下層排水弁を規定位置まで開放せよ》

 

「最初から、そう詳しく言いたまえ!」

 

 輪の抵抗が急に軽くなった。

 

 ルシアンの腕が勢い余って前へ出る。

 

 だが、今回は足を踏ん張った。

 

 輪を規定の位置まで回し、その場で押さえる。

 

 青白い光が壁の中へ走った。

 

《水位調整系統を再起動》

 

《沈降庭区・北側区画の排水を開始》

 

 水底の奥で、重い何かが開いた。

 

 ごごごごご――。

 

 泥が震える。

 

 枯れ葉が動く。

 

 次の瞬間、水が一斉に壁の下部へ吸い込まれた。

 

「おおっ!」

 

 ルシアンの身体が横へ引かれる。

 

 重い外殻は流されなかったが、足元の泥が削られ、黒い脚が滑った。

 

 視界が一気に濁る。

 

 枝。

 

 水草。

 

 崩れた石片。

 

 あらゆる物が、排水口へ向かって流れていく。

 

《水流負荷の増大を確認》

 

「見れば分かる!」

 

 背中の長縄も横へ張った。

 

 ルシアンは操作輪を片手で押さえ、もう一方の手で壁へ指を食い込ませた。

 

「ポックン! 少々、縄を巻きたまえ!」

 

 当然、声は届かない。

 

 しかし水上では、長縄の動きがすべてを伝えていた。

 

     ◇

 

「センセイ!」

 

 水面が大きく渦を巻いている。

 

 石柱へ固定した滑車枠が軋み、長縄が水中へ斜めに引かれていた。

 

 ポックは上層弁から手を離した。

 

 弁は規定位置で固定されたらしく、戻らない。

 

 巻き上げ器へ駆け寄り、取っ手を掴む。

 

「そっちへ行くな!」

 

 全身で押す。

 

 かち。

 

 縄が少し巻き取られた。

 

 もう一度。

 

 かち。

 

 水中の黒い影が、排水口からわずかに離れる。

 

 水面は下がり続けていた。

 

 欄干の上部が現れる。

 

 沈んでいた石段が、一段、また一段と水上へ出る。

 

 やがて渦が弱まり、轟音も低くなっていった。

 

     ◇

 

 排水が止まったのは、水位が人の背丈ほど下がったころだった。

 

 沈み庭全体ではない。

 

 二人がいる北側の中庭だけが、周囲より一段低くなっている。

 

 水の下から、広い石床と回廊が姿を現していた。

 

 ポックはルシアンを石段まで引き上げた。

 

 黒い兜が水面から出る。

 

「無事か?」

 

「当然だ」

 

「縄が横へ引かれてたぞ」

 

「排水口が、僕の美しさまで吸い込もうとしたらしい」

 

「泥と一緒に流されかけただけだろ」

 

「表現には品格が必要なのだよ」

 

 ルシアンは露出した石段へ足を載せた。

 

 二人の正面には、それまで水中に隠れていた下層回廊が続いている。

 

 奥の壁だけが、周囲とは違って白い。

 

 円の中へ三本の線を並べた印も見えた。

 

「管理扉だ」

 

 ポックの声が弾む。

 

「ああ。鐘鳴り坑道と同じものだろう」

 

「入れるかもしれないぞ」

 

 ポックが一歩踏み出した。

 

 そのとき、残った水面に長い波が走った。

 

 一度。

 

 回廊の脇から、こちらへ向かっている。

 

「センセイ」

 

「何だね」

 

「あれ、排水の流れじゃないよな」

 

「そのようだね」

 

 波が止まった。

 

 濁った水の中から、濡れた岩のような丸い背が、ゆっくりと浮かび上がった。

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