「水を抜け、と言われてもな」
ポックは、水面を見下ろした。
「栓を抜けば終わり、という大きさじゃないぞ」
「そのための設備だろう。古代人も、庭一つを僕に汲み出させるほど無茶ではないはずだ」
「蛞蝓《なめくじ》の詰まりは、センセイに引き抜かせたけどな」
「彼らの良識には、多少の疑問が残るね」
ルシアンは石段を上がり、水際へ戻った。
背中から水が流れ落ちる。
外殻の継ぎ目へ入り込んだ水も、内部の身体には触れていなかった。
「下の弁は、どこにあった?」
「石段から十歩ほど進んだ先だ」
「どっちへ?」
「正面へ進み、倒れた石像を越えてから、優雅に右へ曲がった」
「右だけでいいんだよ」
「道順にも表現力は必要だろう」
「水の中で迷ったら、センセイを引き上げるおれの身にもなれ」
ポックは細縄を手繰り、濡れた長さを確かめた。
ルシアンが下層の印へ触れてから、水際の石床にも変化が起きていた。
細い青白い線が、石段の脇から伸びている。
水底から続いているらしく、水面を越え、ひび割れた石床を横切っていた。
「これじゃないか?」
「おそらくね」
二人は線をたどった。
水際から六歩ほど離れたところで、線は太い石柱の裏へ回り込んでいる。
水草を払い、蔦を引き剥がす。
その下から、腰ほどの高さがある石台が現れた。
上面には、円の中へ三本の線を並べた印。
側面には、小さな操作輪が半分ほど埋まっていた。
「上層操作弁だな」
ポックが輪を掴んだ。
両手で力を込める。
動かない。
足を石台へ当て、身体を後ろへ反らす。
「ぐっ……!」
輪は低く軋んだだけだった。
「代わろうか?」
「センセイが回したら壊すだろ」
「僕も繊細な作業を覚えつつある」
「鐘鳴り坑道の壁に鼠を埋めたのは、何日前だった?」
「僕は後ろは振り向かないようにしてるんだ。美しすぎて過去を魅了してしまうからね」
ポックはそれ以上ルシアンにはかまわず、荷物の中から太い鉤を取り出した。
先端を操作輪の隙間へ差し込み、長い柄を両手で握る。
「てこにするのか」
「腕だけで駄目なら、道具を使う」
「僕なら腕だけで済む」
「だからセンセイは下の大きい方だ」
「なるほど。適材適所というわけだね」
「センセイは力。おれは頭」
「僕に頭がないように聞こえるな」
「見た目だと小さいぞ」
「兜の話をしているのだろうね?」
ポックは答えなかった。
◇
「合図を増やすぞ」
ポックは細縄を持ち上げた。
「昨日は、増やすと僕が間違えると言っていなかったか?」
「同時に回すなら、始める合図がいる」
「やはり二度が空いているのは不自然だったのだよ」
「決めなかったのは、センセイが覚えられるか心配だったからだ」
「僕の先見性を、君の判断のように語らないでもらいたい」
ポックは指を一本立てた。
「一度は、問題なし」
二本目。
「二度は、回せ」
三本目。
「三度は、中止。戻れ」
「完璧に理解した」
「言ってみろ」
「一度は問題なし。二度は回す。三度は君が慌てている」
「中止だよ!」
「分かっているとも」
「本当に三度来たら、すぐ止めろよ」
「君は僕を信用しているのかね?」
「信用するために縄でつないでるんだよ」
信用とは、もう少し美しく、心と心で結ばれるものではなかったか。
しかしポックの場合、結び目を二重にした縄も信用の一部らしい。
◇
ルシアンは三度目の潜水へ入った。
巻き上げ器から長縄が送り出される。
水面が兜を越え、音が遠ざかる。
《水中保全作業へ移行》
水底へ着くと、細縄を一度引いた。
一度、引き返される。
ルシアンは倒れた石像を越え、右へ曲がった。
泥の中で青白く光る印をたどり、大きな操作輪の前へ立つ。
輪を両手で掴む。
水上のポックが準備を終えるまで待った。
やがて細縄が動く。
一度。
二度。
「始めろ、ということだな」
ルシアンは操作輪へ力を込めた。
同時に、水上ではポックが鉤の柄へ体重をかけていた。
二つの弁が、低い音を立てる。
ぎぎぎ――。
下層の輪は、わずかに動いた。
《下層排水弁、同期位置未達》
「こちらは動いているぞ」
水上へ文句を言っても届かない。
さらに力を加えようとしたとき、細縄が強く引かれた。
一度。
二度。
三度。
ルシアンは、すぐに手を離した。
操作輪が元の位置へ戻る。
「止めたぞ、ポックン」
返事はない。
それでも、今度は合図を無視しなかった。
◇
「固すぎる……!」
水上で、ポックは石床へ尻餅をついていた。
鉤が操作輪の隙間から外れ、横へ転がっている。
輪はほんの少し動いたところで止まっていた。
細縄を三度引いたあと、下層から伝わっていた振動も止まっている。
「ちゃんと止めたな」
ポックは息を整え、操作輪を調べた。
片側だけに泥と錆のようなものが固まっている。
短刀の先で掻き出す。
水草の根も、輪の軸へ巻きついていた。
「これじゃ回らないわけだ」
根を切り、泥を落とす。
鉤を先ほどより深い位置へ差し込んだ。
今度は石台の角を支点にする。
「もう一回だ、センセイ」
細縄を握る。
二度、強く引いた。
◇
二度の合図。
ルシアンは再び操作輪を掴んだ。
「今度こそ、僕の美しい怪力を見せるとしよう」
足を開き、腰を落とす。
黒い両腕へ力を込めた。
《出力補助を増加》
水底の輪が、ゆっくりと回り始める。
同時に、頭上から鈍い振動が伝わってきた。
上層の弁も動いている。
《上層操作弁との同期を確認》
《下層排水弁を規定位置まで開放せよ》
「最初から、そう詳しく言いたまえ!」
輪の抵抗が急に軽くなった。
ルシアンの腕が勢い余って前へ出る。
だが、今回は足を踏ん張った。
輪を規定の位置まで回し、その場で押さえる。
青白い光が壁の中へ走った。
《水位調整系統を再起動》
《沈降庭区・北側区画の排水を開始》
水底の奥で、重い何かが開いた。
ごごごごご――。
泥が震える。
枯れ葉が動く。
次の瞬間、水が一斉に壁の下部へ吸い込まれた。
「おおっ!」
ルシアンの身体が横へ引かれる。
重い外殻は流されなかったが、足元の泥が削られ、黒い脚が滑った。
視界が一気に濁る。
枝。
水草。
崩れた石片。
あらゆる物が、排水口へ向かって流れていく。
《水流負荷の増大を確認》
「見れば分かる!」
背中の長縄も横へ張った。
ルシアンは操作輪を片手で押さえ、もう一方の手で壁へ指を食い込ませた。
「ポックン! 少々、縄を巻きたまえ!」
当然、声は届かない。
しかし水上では、長縄の動きがすべてを伝えていた。
◇
「センセイ!」
水面が大きく渦を巻いている。
石柱へ固定した滑車枠が軋み、長縄が水中へ斜めに引かれていた。
ポックは上層弁から手を離した。
弁は規定位置で固定されたらしく、戻らない。
巻き上げ器へ駆け寄り、取っ手を掴む。
「そっちへ行くな!」
全身で押す。
かち。
縄が少し巻き取られた。
もう一度。
かち。
水中の黒い影が、排水口からわずかに離れる。
水面は下がり続けていた。
欄干の上部が現れる。
沈んでいた石段が、一段、また一段と水上へ出る。
やがて渦が弱まり、轟音も低くなっていった。
◇
排水が止まったのは、水位が人の背丈ほど下がったころだった。
沈み庭全体ではない。
二人がいる北側の中庭だけが、周囲より一段低くなっている。
水の下から、広い石床と回廊が姿を現していた。
ポックはルシアンを石段まで引き上げた。
黒い兜が水面から出る。
「無事か?」
「当然だ」
「縄が横へ引かれてたぞ」
「排水口が、僕の美しさまで吸い込もうとしたらしい」
「泥と一緒に流されかけただけだろ」
「表現には品格が必要なのだよ」
ルシアンは露出した石段へ足を載せた。
二人の正面には、それまで水中に隠れていた下層回廊が続いている。
奥の壁だけが、周囲とは違って白い。
円の中へ三本の線を並べた印も見えた。
「管理扉だ」
ポックの声が弾む。
「ああ。鐘鳴り坑道と同じものだろう」
「入れるかもしれないぞ」
ポックが一歩踏み出した。
そのとき、残った水面に長い波が走った。
一度。
回廊の脇から、こちらへ向かっている。
「センセイ」
「何だね」
「あれ、排水の流れじゃないよな」
「そのようだね」
波が止まった。
濁った水の中から、濡れた岩のような丸い背が、ゆっくりと浮かび上がった。