僕の美しさが見せられない!   作:柿木杮

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第17話 噛みつく岩

 濁った水の中から、丸い背がゆっくりと浮かび上がった。

 

 表面には泥と水草がこびりつき、白っぽい石までいくつも付着している。

 

 動かなければ、水底から突き出した岩にしか見えなかっただろう。

 

「生き物なのか?」

 

「たぶん」

 

 ポックは水際から一歩下がった。

 

「甲羅に見える」

 

「ずいぶん苔むした亀だね」

 

「岩背亀だ」

 

 ポックの声が低くなる。

 

「知っているのか?」

 

「親父が甲羅を扱ったことがある。けど、こんなに大きくはなかった」

 

 水面の下で、何かが動いた。

 

 丸い背の前方から、太い首がゆっくりと伸びてくる。

 

 先端には、鉤のように曲がった硬い嘴。

 

 濁った目が、水際に立つ二人へ向いた。

 

「後ろへ下がりたまえ、ポックン」

 

「言われなくても――」

 

 水面が弾けた。

 

 岩背亀の首が、一気に伸びる。

 

 狙われたのは、ポックだった。

 

 少年が短刀へ手を伸ばすより早く、黒い腕がその前へ差し出される。

 

 硬い嘴が、ルシアンの左腕へ噛みついた。

 

 がつん、と石同士を打ち合わせたような音が響く。

 

《外殻への圧迫を検出》

 

《外殻損傷なし》

 

「見る目のない亀だな」

 

「センセイ!」

 

 岩背亀が首を縮めた。

 

 ルシアンの巨体が、水際へ引かれる。

 

「むっ」

 

 足を踏ん張ろうとしたが、排水直後の石床には泥と水草が残っていた。

 

 黒い足が滑る。

 

 一歩。

 

 さらに一歩。

 

 ルシアンの踵が、水際へ近づいた。

 

「ずいぶん力が強いぞ!」

 

「分かってる!」

 

 ポックは巻き上げ器へ飛びついた。

 

 歯止めを落とす。

 

 がちん。

 

 背負子の鉄輪から伸びた長縄が、一気に張った。

 

 ルシアンの身体が止まる。

 

 岩背亀は、なおも首を縮めようとした。

 

 石柱へ固定された滑車枠が軋む。

 

 巻き上げ器の歯車が小さく震えたが、歯止めは外れなかった。

 

「よい判断だ、ポックン!」

 

「褒めてる暇があったら、そいつを掴め!」

 

 ルシアンは右手を伸ばした。

 

 濡れた首へ指を回そうとする。

 

 その寸前、岩背亀が嘴を開いた。

 

 ルシアンの腕を離し、水中へ沈む。

 

 丸い甲羅が一度揺れ、濁った水の奥へ消えていった。

 

「逃げたぞ」

 

 ルシアンは水へ足を踏み出した。

 

「追うな、センセイ!」

 

「今ならまだ掴める」

 

「水の中じゃ、向こうの方が速い!」

 

「だが、僕の方が強い」

 

「強くても、触れなきゃ意味がないだろ!」

 

 ルシアンの足が止まった。

 

 水面には、すでに岩背亀の姿が見えない。

 

「……一理ある」

 

「何度目だよ、それ」

 

「君が時折、正しいことを言うからだ」

 

「いつも正しいよ」

 

 ポックは水際へ近づかず、残った波の動きを見ていた。

 

 岩背亀は遠くへ逃げたわけではない。

 

 回廊脇の深く残った水場を、ゆっくりと旋回している。

 

 ときおり、泥のついた甲羅の一部が水面近くへ現れた。

 

「排水されて、寝てた場所から追い出されたんだ」

 

「僕たちへ腹を立てているのかね」

 

「腹が減ってるだけかもしれない」

 

「ならば、僕を噛んでも満足はできないだろう」

 

「もう一度噛ませるぞ」

 

 ルシアンがポックを見下ろした。

 

「今、何と言った?」

 

「センセイを餌にする」

 

「僕を魔物へ差し出すつもりかね」

 

「噛まれても傷つかないんだろ」

 

「傷つかないことと、餌にされてよいことは別問題だ」

 

「水の中で追いかけても勝てない。向こうから噛みつかせて、岸へ引っ張り出す」

 

「僕の腕を釣り針にするのか?」

 

「餌まで一緒になった便利な釣り針だな」

 

「僕を食物に分類するのはやめたまえ」

 

 ポックは聞かず、長縄を確かめた。

 

 石柱。

 

 滑車。

 

 巻き上げ器。

 

 背負子の鉄輪。

 

 どこにも緩みはない。

 

「今度は、最初から縄を張っておく」

 

「僕が水へ引き込まれないように?」

 

「それもある。水の中で殺したら、死骸が沈むからな」

 

「もう売ることを考えているのか」

 

「岩背亀は、甲羅も嘴も爪も売れる。肉と脂も使える」

 

「僕へ噛みついたものを食べるのか?」

 

「食える魔物なら食うだろ」

 

「因縁深い食卓になりそうだね」

 

「だから、水の中で殺すなよ。岸まで生きたまま引いてくれ」

 

「要求が増えていないか?」

 

「甲羅も壊すな」

 

「増えている!」

 

     ◇

 

 ルシアンは水際へ立った。

 

 背中の長縄は、数歩進める程度の長さで固定されている。

 

 ポックは巻き上げ器のそばに立ち、歯止めへ手をかけていた。

 

「もう少し前だ」

 

「僕を餌にする者の態度とは思えないね」

 

「噛みつける位置まで来なきゃ意味がないだろ」

 

 ルシアンは一歩進んだ。

 

 水が足首を越える。

 

「ここでどうだ」

 

「腕を動かせ」

 

「美しく?」

 

「目立つように」

 

「同じ意味だね」

 

 ルシアンは黒い左腕を水面近くでゆっくりと振った。

 

「さあ、来たまえ。君が噛みつこうとしているのは、世界でもっとも価値のある男だぞ」

 

「亀に自慢してどうするんだよ」

 

 水面の向こうで、波が変わった。

 

「来るぞ」

 

 濁った水の下を、大きな影が進む。

 

 ルシアンは左腕を差し出した。

 

 水が弾ける。

 

 伸びてきた首が、黒い前腕へ噛みついた。

 

「今だ、センセイ!」

 

「まだ岸へ近づいていない!」

 

 岩背亀が後退する。

 

 ルシアンの身体が引かれ、背中の縄が張った。

 

 ポックが歯止めを落とす。

 

 がちん。

 

「止めたぞ!」

 

「よろしい!」

 

 ルシアンは右手で岩背亀の首を掴んだ。

 

 濡れた鱗が指の間で滑る。

 

 岩背亀は激しく首を振った。

 

 嘴は左腕へ食い込んだまま離れない。

 

「暴れるな。僕の外殻へ歯形を残しても、弁償できまい」

 

《外殻損傷なし》

 

「分かっている!」

 

「センセイ、引け!」

 

「初めからそう言いたまえ!」

 

 ルシアンは腰を落とした。

 

 背後では、張った縄が黒い巨体を支えている。

 

 右手で首を掴み、噛みつかれた左腕ごと引き寄せる。

 

 岩背亀の甲羅が、水面へ浮かんだ。

 

 短い脚が水を掻く。

 

 大きな身体が、少しずつ岸へ近づく。

 

 ルシアンの足元は滑っている。

 

 それでも、縄が背中を支えているため、水中へは引き込まれない。

 

「もう少しだ!」

 

「君も手伝いたまえ!」

 

「おれが引っ張られたら、そのまま水へ落ちるだろ!」

 

「実に合理的な傍観だな!」

 

 岩背亀の前脚が石段へかかった。

 

 爪が石を引っ掻く。

 

 ルシアンは首から右手を離し、甲羅の縁へ指をかけた。

 

 指先が、泥と苔の下へ食い込む。

 

「上がりたまえ!」

 

 黒い腕が持ち上がる。

 

 岩背亀の巨体が、水面から引き剥がされた。

 

 激しく脚をばたつかせながら、石段の上へ滑り上がる。

 

 甲羅が石へぶつかり、低い音を立てた。

 

 嘴がようやくルシアンの腕を離す。

 

「岸へ上げたぞ!」

 

「離れるな!」

 

 岩背亀が首を縮め、身体の向きを変えようとした。

 

 短い脚でも、陸上でまったく動けないわけではない。

 

 水へ戻ろうとしている。

 

「ひっくり返せ!」

 

「甲羅を壊すなと言っただろう」

 

「殴らずに返せ!」

 

「古代設備だけでなく、魔物の外見まで保護せねばならないとは!」

 

 ルシアンは岩背亀の横へ回った。

 

 甲羅の縁へ両手を差し込む。

 

 岩背亀の首が伸び、再び噛みつこうとする。

 

 ルシアンは頭部を肩の装甲で受け止めた。

 

 嘴が黒い外殻の上を滑る。

 

「君には学習能力がないのかね」

 

 脚へ力を込める。

 

《出力補助を増加》

 

「ふんっ!」

 

 巨大な甲羅が持ち上がった。

 

 岩背亀の身体が横へ傾く。

 

 脚をばたつかせるが、空を掻くだけだった。

 

 ルシアンはそのまま押し切った。

 

 岩背亀が、腹を上にして石床へ転がる。

 

 甲羅の裏側は、背面ほど厚い岩に覆われていない。

 

 白っぽい腹甲の隙間から、柔らかな皮膚が見えていた。

 

「首を押さえろ!」

 

 ルシアンは伸びようとする首を片手で掴み、石床へ押しつけた。

 

 もう片方の手で、暴れる前脚をまとめて押さえる。

 

「今だ、ポックン!」

 

 ポックが短刀を抜いた。

 

 腹側へ回り込み、首の付け根にある甲羅の隙間へ刃を差し込む。

 

 一度。

 

 岩背亀の脚が激しく動いた。

 

 二度目。

 

 短刀を深く入れ、横へ引く。

 

 太い首から力が抜けた。

 

 空を掻いていた脚が、ゆっくりと止まった。

 

 ルシアンはしばらく押さえ続け、それから手を離した。

 

「終わったか?」

 

「ああ」

 

 ポックは荒い息を整えながら、短刀の血を布で拭った。

 

「甲羅も無事だ」

 

「まず僕の腕を確認するものではないかね」

 

「傷ついてないんだろ」

 

《外殻損傷なし》

 

「甲冑もそう言っている」

 

「なら、甲羅の方が心配だ」

 

「君の価値判断は、ときどき僕を深く傷つけるな」

 

「心は甲冑で守れないからな」

 

「分かっているなら、少しは配慮したまえ」

 

     ◇

 

 岩背亀は、裏返した状態でも大きかった。

 

 甲羅だけで、ポックが両腕を広げた幅より長い。

 

 肉まで含めれば、普通の荷車へ載せるにも何人かの手が必要になるだろう。

 

 ポックは甲羅の傷を調べ、嘴と爪を一つずつ確認した。

 

「持って帰れるな」

 

「本気かね」

 

「全部売れる」

 

「ラドメルまで二日だぞ」

 

「ラドメルへは戻らない」

 

 ルシアンは首を傾げた。

 

「では、どこへ行く?」

 

「ここから南東へ半日ほど行けば、ミルダって宿場町がある」

 

「聞いたことがないな」

 

「親父の帳簿に何度も出てきた。北の山から運ばれる木材と、東の湖で作られた塩漬け魚が集まる町だ」

 

「亀も扱えるのか?」

 

「街道を通る猟師や荷馬車が泊まる。獲物を解体する場所も、肉を燻す窯もあるはずだ」

 

 ポックは岩背亀の腹を軽く叩いた。

 

「生のまま二日運ぶより、そこで処理した方が高く売れる」

 

「魔物に襲われた直後から、そこまで考えていたのかね」

 

「噛みついてきたときから」

 

「商人とは恐ろしい生き物だな」

 

「亀よりは話が通じるぞ」

 

「その点は評価しよう」

 

 ラドメルだけが町ではない。

 

 街道はさらに南東へ続き、その先には湖がある。

 

 北の山からは木材が運ばれ、宿場町では行商人や猟師が荷を載せ替える。

 

 ポックにとっては、父と旅したことのない場所であっても、帳簿の中で何度も見た土地だった。

 

「宿もあるのだろうね」

 

「宿場町だからな」

 

「君は今度こそ、部屋で寝たまえ」

 

「センセイは?」

 

「僕は馬車小屋でも倉庫でも快適に眠れる」

 

「また荷車置き場か」

 

「僕が問題ないと言っているのだ。君まで付き合う理由はない」

 

 ポックは何か言いかけたが、岩背亀へ視線を戻した。

 

「まず、こいつを乾いた場所へ移すぞ」

 

「管理通路へ持ち込むつもりか?」

 

「入口の横でいい。帰りに背負子へ括る」

 

「全部かね?」

 

「全部だ」

 

 ルシアンは巨大な死骸と、自分の背中に残された背負子を見比べた。

 

「帰路では、僕の姿がさらに美しさから遠ざかりそうだな」

 

「黒い虫が亀を背負うだけだろ」

 

「それを遠ざかると言っている!」

 

 二人は下側の滑車枠を背負子の鉄輪から外した。

 

 岩背亀の甲羅へ縄を回し、滑車を掛ける。

 

 ポックが巻き上げ器を操作しようとすると、ルシアンが取っ手へ手を添えた。

 

「僕がやろう」

 

「ゆっくりだぞ」

 

「君が先ほど一刻かけた作業を、僕なら十息で終えられる」

 

「五十息かけろ」

 

「僕の能力を抑えることに、誰もが熱心だな」

 

 ルシアンは太い指で、慎重に取っ手を回した。

 

 かち。

 

 岩背亀の身体が、石床をゆっくりと滑っていく。

 

 かち。

 

 乾いた回廊の脇まで移動させ、太い柱へ縄を結ぶ。

 

 多少の獣が近づいても、簡単には持ち去れないだろう。

 

「これでいい」

 

 ポックは結び目を二度確かめた。

 

「帰りに忘れるなよ」

 

「この大きさの死骸を、どうやって忘れるのだ」

 

「センセイなら、扉の先に夢中になって置いていきそうだから」

 

「僕の目的は、初めから甲冑を外すことだよ」

 

 ルシアンは白い管理扉へ向き直った。

 

「亀を売るために、ここまで来たわけではない」

 

「それでも持って帰るけどな」

 

「無論だ。僕たちが正当に得た獲物だからね」

 

     ◇

 

 管理扉は、水の中にあったとは思えないほど白かった。

 

 泥も苔も付着していない。

 

 円の中へ三本の線を並べた印だけが、中央に刻まれている。

 

 ルシアンが黒い手を重ねた。

 

《保全従事者を確認》

 

《沈降庭区・下層保全路を開放》

 

《水位調整系統、部分復旧》

 

 白い壁へ、縦の細線が走った。

 

 左右へ音もなく沈んでいく。

 

 扉の向こうから、乾いた空気が流れてきた。

 

 外には泥と水草の匂いが満ちている。

 

 だが、その先に続く白い通路には、水滴一つ落ちていない。

 

「鐘鳴り坑道と同じだ」

 

 ポックが入口から中を覗き込む。

 

「けれど、ずっと広いな」

 

 通路の先は、途中で左右へ分かれていた。

 

 壁にはいくつもの細い線が走り、奥には閉じた扉らしいものも見える。

 

 ルシアンが一歩踏み入れた。

 

 頭上の灯りが青白く点灯する。

 

 一つ。

 

 その先でもう一つ。

 

 さらに奥へ、次々と。

 

 長いあいだ水の下へ閉ざされていた道に、灯りが一つずつ戻っていった。

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