濁った水の中から、丸い背がゆっくりと浮かび上がった。
表面には泥と水草がこびりつき、白っぽい石までいくつも付着している。
動かなければ、水底から突き出した岩にしか見えなかっただろう。
「生き物なのか?」
「たぶん」
ポックは水際から一歩下がった。
「甲羅に見える」
「ずいぶん苔むした亀だね」
「岩背亀だ」
ポックの声が低くなる。
「知っているのか?」
「親父が甲羅を扱ったことがある。けど、こんなに大きくはなかった」
水面の下で、何かが動いた。
丸い背の前方から、太い首がゆっくりと伸びてくる。
先端には、鉤のように曲がった硬い嘴。
濁った目が、水際に立つ二人へ向いた。
「後ろへ下がりたまえ、ポックン」
「言われなくても――」
水面が弾けた。
岩背亀の首が、一気に伸びる。
狙われたのは、ポックだった。
少年が短刀へ手を伸ばすより早く、黒い腕がその前へ差し出される。
硬い嘴が、ルシアンの左腕へ噛みついた。
がつん、と石同士を打ち合わせたような音が響く。
《外殻への圧迫を検出》
《外殻損傷なし》
「見る目のない亀だな」
「センセイ!」
岩背亀が首を縮めた。
ルシアンの巨体が、水際へ引かれる。
「むっ」
足を踏ん張ろうとしたが、排水直後の石床には泥と水草が残っていた。
黒い足が滑る。
一歩。
さらに一歩。
ルシアンの踵が、水際へ近づいた。
「ずいぶん力が強いぞ!」
「分かってる!」
ポックは巻き上げ器へ飛びついた。
歯止めを落とす。
がちん。
背負子の鉄輪から伸びた長縄が、一気に張った。
ルシアンの身体が止まる。
岩背亀は、なおも首を縮めようとした。
石柱へ固定された滑車枠が軋む。
巻き上げ器の歯車が小さく震えたが、歯止めは外れなかった。
「よい判断だ、ポックン!」
「褒めてる暇があったら、そいつを掴め!」
ルシアンは右手を伸ばした。
濡れた首へ指を回そうとする。
その寸前、岩背亀が嘴を開いた。
ルシアンの腕を離し、水中へ沈む。
丸い甲羅が一度揺れ、濁った水の奥へ消えていった。
「逃げたぞ」
ルシアンは水へ足を踏み出した。
「追うな、センセイ!」
「今ならまだ掴める」
「水の中じゃ、向こうの方が速い!」
「だが、僕の方が強い」
「強くても、触れなきゃ意味がないだろ!」
ルシアンの足が止まった。
水面には、すでに岩背亀の姿が見えない。
「……一理ある」
「何度目だよ、それ」
「君が時折、正しいことを言うからだ」
「いつも正しいよ」
ポックは水際へ近づかず、残った波の動きを見ていた。
岩背亀は遠くへ逃げたわけではない。
回廊脇の深く残った水場を、ゆっくりと旋回している。
ときおり、泥のついた甲羅の一部が水面近くへ現れた。
「排水されて、寝てた場所から追い出されたんだ」
「僕たちへ腹を立てているのかね」
「腹が減ってるだけかもしれない」
「ならば、僕を噛んでも満足はできないだろう」
「もう一度噛ませるぞ」
ルシアンがポックを見下ろした。
「今、何と言った?」
「センセイを餌にする」
「僕を魔物へ差し出すつもりかね」
「噛まれても傷つかないんだろ」
「傷つかないことと、餌にされてよいことは別問題だ」
「水の中で追いかけても勝てない。向こうから噛みつかせて、岸へ引っ張り出す」
「僕の腕を釣り針にするのか?」
「餌まで一緒になった便利な釣り針だな」
「僕を食物に分類するのはやめたまえ」
ポックは聞かず、長縄を確かめた。
石柱。
滑車。
巻き上げ器。
背負子の鉄輪。
どこにも緩みはない。
「今度は、最初から縄を張っておく」
「僕が水へ引き込まれないように?」
「それもある。水の中で殺したら、死骸が沈むからな」
「もう売ることを考えているのか」
「岩背亀は、甲羅も嘴も爪も売れる。肉と脂も使える」
「僕へ噛みついたものを食べるのか?」
「食える魔物なら食うだろ」
「因縁深い食卓になりそうだね」
「だから、水の中で殺すなよ。岸まで生きたまま引いてくれ」
「要求が増えていないか?」
「甲羅も壊すな」
「増えている!」
◇
ルシアンは水際へ立った。
背中の長縄は、数歩進める程度の長さで固定されている。
ポックは巻き上げ器のそばに立ち、歯止めへ手をかけていた。
「もう少し前だ」
「僕を餌にする者の態度とは思えないね」
「噛みつける位置まで来なきゃ意味がないだろ」
ルシアンは一歩進んだ。
水が足首を越える。
「ここでどうだ」
「腕を動かせ」
「美しく?」
「目立つように」
「同じ意味だね」
ルシアンは黒い左腕を水面近くでゆっくりと振った。
「さあ、来たまえ。君が噛みつこうとしているのは、世界でもっとも価値のある男だぞ」
「亀に自慢してどうするんだよ」
水面の向こうで、波が変わった。
「来るぞ」
濁った水の下を、大きな影が進む。
ルシアンは左腕を差し出した。
水が弾ける。
伸びてきた首が、黒い前腕へ噛みついた。
「今だ、センセイ!」
「まだ岸へ近づいていない!」
岩背亀が後退する。
ルシアンの身体が引かれ、背中の縄が張った。
ポックが歯止めを落とす。
がちん。
「止めたぞ!」
「よろしい!」
ルシアンは右手で岩背亀の首を掴んだ。
濡れた鱗が指の間で滑る。
岩背亀は激しく首を振った。
嘴は左腕へ食い込んだまま離れない。
「暴れるな。僕の外殻へ歯形を残しても、弁償できまい」
《外殻損傷なし》
「分かっている!」
「センセイ、引け!」
「初めからそう言いたまえ!」
ルシアンは腰を落とした。
背後では、張った縄が黒い巨体を支えている。
右手で首を掴み、噛みつかれた左腕ごと引き寄せる。
岩背亀の甲羅が、水面へ浮かんだ。
短い脚が水を掻く。
大きな身体が、少しずつ岸へ近づく。
ルシアンの足元は滑っている。
それでも、縄が背中を支えているため、水中へは引き込まれない。
「もう少しだ!」
「君も手伝いたまえ!」
「おれが引っ張られたら、そのまま水へ落ちるだろ!」
「実に合理的な傍観だな!」
岩背亀の前脚が石段へかかった。
爪が石を引っ掻く。
ルシアンは首から右手を離し、甲羅の縁へ指をかけた。
指先が、泥と苔の下へ食い込む。
「上がりたまえ!」
黒い腕が持ち上がる。
岩背亀の巨体が、水面から引き剥がされた。
激しく脚をばたつかせながら、石段の上へ滑り上がる。
甲羅が石へぶつかり、低い音を立てた。
嘴がようやくルシアンの腕を離す。
「岸へ上げたぞ!」
「離れるな!」
岩背亀が首を縮め、身体の向きを変えようとした。
短い脚でも、陸上でまったく動けないわけではない。
水へ戻ろうとしている。
「ひっくり返せ!」
「甲羅を壊すなと言っただろう」
「殴らずに返せ!」
「古代設備だけでなく、魔物の外見まで保護せねばならないとは!」
ルシアンは岩背亀の横へ回った。
甲羅の縁へ両手を差し込む。
岩背亀の首が伸び、再び噛みつこうとする。
ルシアンは頭部を肩の装甲で受け止めた。
嘴が黒い外殻の上を滑る。
「君には学習能力がないのかね」
脚へ力を込める。
《出力補助を増加》
「ふんっ!」
巨大な甲羅が持ち上がった。
岩背亀の身体が横へ傾く。
脚をばたつかせるが、空を掻くだけだった。
ルシアンはそのまま押し切った。
岩背亀が、腹を上にして石床へ転がる。
甲羅の裏側は、背面ほど厚い岩に覆われていない。
白っぽい腹甲の隙間から、柔らかな皮膚が見えていた。
「首を押さえろ!」
ルシアンは伸びようとする首を片手で掴み、石床へ押しつけた。
もう片方の手で、暴れる前脚をまとめて押さえる。
「今だ、ポックン!」
ポックが短刀を抜いた。
腹側へ回り込み、首の付け根にある甲羅の隙間へ刃を差し込む。
一度。
岩背亀の脚が激しく動いた。
二度目。
短刀を深く入れ、横へ引く。
太い首から力が抜けた。
空を掻いていた脚が、ゆっくりと止まった。
ルシアンはしばらく押さえ続け、それから手を離した。
「終わったか?」
「ああ」
ポックは荒い息を整えながら、短刀の血を布で拭った。
「甲羅も無事だ」
「まず僕の腕を確認するものではないかね」
「傷ついてないんだろ」
《外殻損傷なし》
「甲冑もそう言っている」
「なら、甲羅の方が心配だ」
「君の価値判断は、ときどき僕を深く傷つけるな」
「心は甲冑で守れないからな」
「分かっているなら、少しは配慮したまえ」
◇
岩背亀は、裏返した状態でも大きかった。
甲羅だけで、ポックが両腕を広げた幅より長い。
肉まで含めれば、普通の荷車へ載せるにも何人かの手が必要になるだろう。
ポックは甲羅の傷を調べ、嘴と爪を一つずつ確認した。
「持って帰れるな」
「本気かね」
「全部売れる」
「ラドメルまで二日だぞ」
「ラドメルへは戻らない」
ルシアンは首を傾げた。
「では、どこへ行く?」
「ここから南東へ半日ほど行けば、ミルダって宿場町がある」
「聞いたことがないな」
「親父の帳簿に何度も出てきた。北の山から運ばれる木材と、東の湖で作られた塩漬け魚が集まる町だ」
「亀も扱えるのか?」
「街道を通る猟師や荷馬車が泊まる。獲物を解体する場所も、肉を燻す窯もあるはずだ」
ポックは岩背亀の腹を軽く叩いた。
「生のまま二日運ぶより、そこで処理した方が高く売れる」
「魔物に襲われた直後から、そこまで考えていたのかね」
「噛みついてきたときから」
「商人とは恐ろしい生き物だな」
「亀よりは話が通じるぞ」
「その点は評価しよう」
ラドメルだけが町ではない。
街道はさらに南東へ続き、その先には湖がある。
北の山からは木材が運ばれ、宿場町では行商人や猟師が荷を載せ替える。
ポックにとっては、父と旅したことのない場所であっても、帳簿の中で何度も見た土地だった。
「宿もあるのだろうね」
「宿場町だからな」
「君は今度こそ、部屋で寝たまえ」
「センセイは?」
「僕は馬車小屋でも倉庫でも快適に眠れる」
「また荷車置き場か」
「僕が問題ないと言っているのだ。君まで付き合う理由はない」
ポックは何か言いかけたが、岩背亀へ視線を戻した。
「まず、こいつを乾いた場所へ移すぞ」
「管理通路へ持ち込むつもりか?」
「入口の横でいい。帰りに背負子へ括る」
「全部かね?」
「全部だ」
ルシアンは巨大な死骸と、自分の背中に残された背負子を見比べた。
「帰路では、僕の姿がさらに美しさから遠ざかりそうだな」
「黒い虫が亀を背負うだけだろ」
「それを遠ざかると言っている!」
二人は下側の滑車枠を背負子の鉄輪から外した。
岩背亀の甲羅へ縄を回し、滑車を掛ける。
ポックが巻き上げ器を操作しようとすると、ルシアンが取っ手へ手を添えた。
「僕がやろう」
「ゆっくりだぞ」
「君が先ほど一刻かけた作業を、僕なら十息で終えられる」
「五十息かけろ」
「僕の能力を抑えることに、誰もが熱心だな」
ルシアンは太い指で、慎重に取っ手を回した。
かち。
岩背亀の身体が、石床をゆっくりと滑っていく。
かち。
乾いた回廊の脇まで移動させ、太い柱へ縄を結ぶ。
多少の獣が近づいても、簡単には持ち去れないだろう。
「これでいい」
ポックは結び目を二度確かめた。
「帰りに忘れるなよ」
「この大きさの死骸を、どうやって忘れるのだ」
「センセイなら、扉の先に夢中になって置いていきそうだから」
「僕の目的は、初めから甲冑を外すことだよ」
ルシアンは白い管理扉へ向き直った。
「亀を売るために、ここまで来たわけではない」
「それでも持って帰るけどな」
「無論だ。僕たちが正当に得た獲物だからね」
◇
管理扉は、水の中にあったとは思えないほど白かった。
泥も苔も付着していない。
円の中へ三本の線を並べた印だけが、中央に刻まれている。
ルシアンが黒い手を重ねた。
《保全従事者を確認》
《沈降庭区・下層保全路を開放》
《水位調整系統、部分復旧》
白い壁へ、縦の細線が走った。
左右へ音もなく沈んでいく。
扉の向こうから、乾いた空気が流れてきた。
外には泥と水草の匂いが満ちている。
だが、その先に続く白い通路には、水滴一つ落ちていない。
「鐘鳴り坑道と同じだ」
ポックが入口から中を覗き込む。
「けれど、ずっと広いな」
通路の先は、途中で左右へ分かれていた。
壁にはいくつもの細い線が走り、奥には閉じた扉らしいものも見える。
ルシアンが一歩踏み入れた。
頭上の灯りが青白く点灯する。
一つ。
その先でもう一つ。
さらに奥へ、次々と。
長いあいだ水の下へ閉ざされていた道に、灯りが一つずつ戻っていった。