青白い灯りが、通路の奥へ順に点いていった。
白い壁。
継ぎ目のない床。
外では泥と水草に覆われていた沈み庭の下に、これほど広い空間が残っているとは思えない。
ルシアンが一歩進むと、その先にある灯りが点く。
背後では、通り過ぎた灯りが消えずに残っていた。
「鐘鳴り坑道とは違うな」
ポックが振り返った。
「あっちは後ろから消えていった」
「僕たちを追い出すつもりがないということだろう」
「戻る道を照らしてるだけじゃないか?」
「僕の来訪を歓迎していると言いたまえ」
「亀に噛まれて泥だらけの作業員を?」
「外殻には泥一つ残っていない」
実際、水中から上がったあとも、黒い装甲の表面には薄い水滴が残るだけだった。
ポックは壁際へ近づいた。
「センセイ。これ、道じゃないか?」
白い壁に、細い青色の線が何本も走っている。
最初は飾りに見えた。
しかしよく見ると、線は四角や円を囲み、その間を複雑につないでいる。
ポックが指先でたどった。
「ここが、今いる通路」
「なぜ分かる?」
「おれたちが動くと、小さい光も動いてる」
確かに、二人のいる場所には青白い点が一つ灯っていた。
通路の先は三方向へ分かれている。
その周囲には、大小いくつもの四角い区画が並んでいた。細い水路がその間を縫い、さらに外側へ続いている。
先ほど水を抜いたらしい区画だけが、淡く明滅していた。
「おれたちが水を抜いたの、ここだけみたいだぞ」
「一つの庭ではなかったのかね」
「いくつもある。こっちにも、向こうにも」
壁面図は、左右の端で途切れていた。
途中で終わっているのではない。
その先にも施設が続いていることを示すように、何本もの線が壁の外へ伸びている。
沈み庭と呼ばれている場所は、地上から見えていた水没した庭だけではないらしい。
「古代人は、規模を大きくすれば偉いと思っていたのだろう」
「センセイも屋敷を大きくしたいって言ってなかったか?」
「僕の場合は、美しいものを収めるのに必要だからだよ」
「一人しか住んでないのに?」
「すばらしく美しい物を、ボロで包まないだろう?」
ポックは返事をせず、壁面図の明滅する区画を調べていた。
ルシアンが手を触れる。
頭の内側へ、いくつもの意味が流れ込んできた。
《沈降庭区・北側水位調整系統の部分復旧を確認》
《上層操作弁、正常》
《下層排水弁、正常》
《保全作業の完了を記録》
「作業は終わったと認めたらしい」
「中央保全拠点の情報は?」
「今、照会する」
ルシアンは壁へ向かって告げた。
「中央保全拠点への接続経路を提示したまえ」
《中央保全拠点との接続を確認できません》
《経路情報、取得不能》
「鐘鳴り坑道と同じだな」
「同じ答えを出すために、僕は水底へ三度も沈んだのかね」
さらに別の意味が流れ込む。
《保全従事者装備を照合》
《水中作業補助機構、未調整》
ルシアンの動きが止まった。
「……未調整?」
「何だって?」
《上層準備区画にて調整可能》
「上層?」
《推奨調整時点――水中作業開始前》
白い通路に、ルシアンの声が響いた。
「それを先に言いたまえ!」
「水へ入る前に、何かする場所があったのか?」
「そのようだ」
「じゃあ、縄がなくても戻れた?」
「まだ、そうと決まったわけではない」
《水中環境からの自力帰還を補助します》
ポックが黙った。
ルシアンも黙った。
「縄がなくても戻れたんだな」
「その結論を口にするのはやめたまえ」
「滑車も?」
「亀を引くのに役立った」
「巻き上げ器も?」
「君の筋力を補った」
「背負子の鉄輪も?」
「……僕を美しく吊るした」
「美しくはなかったぞ」
「道具は無駄ではなかった。それでよいだろう!」
◇
壁面図から伸びた青白い線を追い、二人は左側の通路へ入った。
途中には、空になった棚や、棒状の道具を立てるための窪みが並んでいた。
壁際には、大きさの異なる外殻のような形がいくつも刻まれている。
人のものに近い形。
ルシアンより幅の広い形。
四本の脚を持つように見える形まであった。
「センセイ以外にも、作業する鎧があったのかな」
「僕ほど美しい使用者はいなかっただろうね」
「形の話だよ」
「形でも僕が上だ」
古い施設に何人の作業員がいたのか。
人間だったのか。
今もどこかに同じ外殻が残っているのか。
答えはない。
並んだ窪みだけが、ここでかつて複数の何かが働いていたことを示していた。
通路の先は、緩やかな上り坂になっている。
歩くにつれ、壁の向こうから風の音が聞こえ始めた。
やがて白い扉へ突き当たる。
ルシアンが触れると、扉は左右へ開いた。
眩しい日差しが差し込む。
「外だ」
二人が出た場所は、蔦に覆われた小さな石造りの建物の中だった。
屋根の一部は崩れ、倒れた柱が入口を半分塞いでいる。
外へ回ると、建物は沈み庭の高い場所に建っていた。
最初に縄を固定した石柱は、木々と崩れた回廊の向こうに小さく見える。
「こんなところに入口があったのか」
ポックが蔦を引っ張った。
厚く重なった葉の下から、円の中へ三本の線を並べた印が現れる。
ルシアンが外側から触れる。
閉じていた入口が開いた。
「外からも入れるぞ」
「……」
「ここを見つけてたら、水へ潜らずに管理通路へ入れたな」
「では、なぜ君は見つけなかった」
「センセイも一緒に探しただろ」
「僕は水中へ入る担当だった」
「入る前の話だよ」
「七年前に板が見つかった場所を優先したのは君だ」
「センセイも賛成しただろ」
「そのときの僕は、この入口の存在を知らなかった」
「おれだって知らなかったよ!」
責任の所在は、古代施設が案内を出さなかったことにある。
二人はそう結論づけた。
◇
準備区画は、地上入口のすぐ脇にあった。
入口の上には、細い古代文字が刻まれている。
ルシアンが近づくと、意味が直接伝わってきた。
《水中作業従事者は、作業前に調整を受けてください》
「わざわざ書いてあったぞ、センセイ」
「現代語ではない」
「センセイには読めるんだろ」
「近づくまで伝わらなかった」
「だから入口を探せばよかったんじゃないか?」
「いつまで僕を責めるつもりだね!」
部屋の中央には、白い枠が立っていた。
鐘鳴り坑道で見つけた外殻保全台とは形が違う。
こちらはルシアンが立ったまま入る構造で、腰と両脚を囲むように細い器具が並んでいる。
「今度は掃除じゃないよな」
「僕の外殻は、掃除の必要がないほど美しく保たれている」
「俺が拭いてやらなくて済むのは助かるよ」
「もし汚れたら、喜んで拭きたまえ」
ルシアンが白い枠の中へ入る。
両脚の外側から固定具が伸びた。
がちり。
腰。
背中。
続いて、脛の装甲へ細い器具が接続される。
「待て。今回も身体を固定する必要があるのか?」
《水中作業補助機構の調整を開始》
脚部の内側で、何かが開く感覚があった。
痛みはない。
だが今まで動かなかった部分が、身体の一部として突然認識される。
《浮力調整機構を起動》
《水中姿勢制御機構を起動》
《脚部固定機構を起動》
「僕の身体へ、また勝手に何かを付け加えたな」
《水中作業への適合を完了》
「質問に答えたまえ」
固定具が外れる。
ルシアンが一歩踏み出すと、脛の装甲がわずかに開いた。
しゅっ、と短い音がして、ポックの髪が揺れる。
「今、風が出たぞ」
「僕には分からなかった」
「脚からだ」
「絶世の美男子が、脚から風を出す必要がどこにある。誤解されたら困るだろう」
「水の中で動くためだろ」
「機能には、もう少し品格を求めたいものだね」
◇
「試すぞ」
ポックは当然のように言った。
「今から?」
「本当に戻れるか確かめないと、次に使えないだろ」
「君は僕を実験道具だと思っていないか?」
「水に入っても死なないのは、もう分かってる」
「慰めになっていないぞ」
二人は北側区画へ戻った。
念のため、長縄は背負子の鉄輪へ結ぶ。
ただし滑車には通さず、余裕をもたせたまま、ポックが端を持つだけにした。
「三度引いたら引っ張るからな」
「今回は必要ない」
「戻れなくなったら?」
「新機能を信じたまえ」
「センセイよりは信じてる」
「その縄を外したまえ!」
ルシアンは水へ入った。
一歩。
二歩。
石段の先へ踏み出す。
黒い巨体が、これまでと同じように沈み始めた。
そのまま水底へ落ちる――直前。
《浮力調整》
腰と脚の継ぎ目から、水が押し出された。
沈降が止まる。
ルシアンの身体が、水中でゆっくりと傾いた。
「おお……」
右を向こうとすると、身体が左へ回った。
「反対だ!」
戻そうと意識する。
今度は回りすぎた。
《水中姿勢制御精度、三十五パーセント》
「初めてにしては十分だろう」
声は水面へ届かない。
それでもルシアンは言い返した。
前へ進むことを意識する。
脚の装甲から水が押し出され、黒い巨体がゆっくりと移動した。
泳いでいるとは言い難い。
丸い甲虫が、水中を立った姿勢のまま滑っている。
だが、足場がなくても動ける。
上を意識すると、身体が少しずつ浮かび始めた。
やがて兜が水面を割る。
「戻ったぞ、ポックン!」
「縄、引いてないぞ!」
「見れば分かる!」
ルシアンは自力で石段へ近づき、水から上がった。
「どうだ、センセイ」
「実に便利だ」
「よかったな」
「数刻前の僕に渡したまえ」
「もう終わったことだろ」
「古代文明には、時間を戻す機能はないのかね」
《該当機能はありません》
「君には聞いていない!」
◇
準備区画へ戻ると、ポックは壁面図の別の線を指さした。
今回排水された北側区画から、さらに下へ伸びる細い経路。
その先は青く塗られたままになっている。
「ここは、まだ水の下だ」
「また潜れと言うのかね」
「今度は自分で戻れるだろ」
「だからといって、進んで沈みたいわけではない」
ルシアンが印へ触れる。
《沈降庭区・保全記録庫》
《水没により経路閉塞》
「記録庫だそうだ」
「中央保全拠点のことが残ってるかもしれない」
ルシアンは、壁面図の青く沈んだ区画を見つめた。
苦労して手に入れた水中作業機能を使う場所だけは、まだ十分に残っているらしかった。