壁面図の一角だけが、青く沈んでいた。
北側区画。
先ほど水位を下げた場所より、さらに一段深い。
そこから細い通路が伸び、四角い部屋へつながっている。
《沈降庭区・保全記録庫》
《水没により経路閉塞》
「ここだな」
ポックが壁面図を指した。
「問題は、どうやって行くかだ」
「どうやっても何も、歩いていけばよいだろう」
「水の中だぞ」
「つい先ほど、そのための機能を手に入れたではないか」
「三十五パーセントしか使いこなせてないじゃないか」
「初回の数値をいつまで持ち出すつもりだね」
「センセイが壁にぶつからなくなるまで」
「では今日中には忘れることになるな」
ポックは相手にせず、壁面図を目で追った。
「入口から下りて、最初の分かれ道は右」
「右」
「次は真っ直ぐ。二つ目を左」
「二つ目を左」
「その先に丸い部屋がある」
「そこが記録庫か?」
「違う。丸い部屋まで行ったら行きすぎだ」
「ずいぶん紛らわしい説明だな」
「地図がそうなってるんだよ」
ルシアンは壁面図を見た。
確かに、四角い記録庫の少し先に丸い区画がある。
「つまり、丸い部屋の手前だね」
「そうだよ」
「君の説明には簡潔さが足りないな」
「水の中で迷っても、おれは呼べないからな」
ルシアンは黙った。
それは事実だった。
水中では声は届かない。
細縄も、今回は使わない。
水中作業補助機構が本当に使えるなら、自力で行って、自力で帰ってくる必要がある。
「どのくらい待てばいい?」
「僕の帰還を?」
「戻ってこなかったら、また縄を持って探しに行く」
「君が水へ入るのかね?」
「入らない。岸から届くところまで探す」
「実に頼りない救援だな」
「じゃあ戻ってこいよ」
「当然だ」
ルシアンは胸を張った。
「僕には帰るべき場所があるからね」
「荷車置き場?」
「もう少し美しいものを想像したまえ」
◇
水面が兜を越えた。
外の音が消える。
ポックの姿も、すぐに揺れる光の向こうへ見えなくなった。
《水中作業補助機構を起動》
《浮力調整》
これまでなら、ここからただ沈むだけだった。
今回は違う。
ルシアンが下降を意識すると、身体がゆっくりと水底へ向かった。
止まろうと思えば止まる。
右へ身体を向ける。
腰と脚の隙間から水が押し出され、黒い巨体が回転した。
「……悪くない」
声が兜の中に響いた。
前へ進む。
丸い外殻が、水中をゆっくりと滑っていく。
泳いでいるというより、見えない床の上を運ばれているようだった。
もっとも、姿勢を少し間違えると話は別である。
曲がり角を抜けようとして、右肩が白い壁へぶつかった。
ごつん。
《外殻損傷なし》
「ううむ。もっと優雅に進めないものか」
最初の分かれ道を右。
次を真っ直ぐ。
二つ目を左。
ポックの言葉を頭の中で繰り返す。
水没した保全路には、泥も水草もほとんどなかった。
閉ざされてから長い時間が経っているはずなのに、白い床も壁も奇妙なほど滑らかだ。
ただ、ところどころに細かな物が沈んでいる。
薄い板。
折れた白い棒。
錆びているのかさえ分からない小さな金具。
作業員たちが落としたものだろうか。
人が働いていた。
あるいは、人ではない何かが。
ルシアンには分からない。
やがて通路の左側に、白い扉が現れた。
その少し先には、丸い部屋へ続くらしい広い入口。
「ここだな」
黒い手を扉へ当てる。
《保全従事者を確認》
《沈降庭区・保全記録庫を開放》
扉が静かに左右へ分かれた。
◇
中には棚が並んでいた。
天井近くまで届く白い棚。
同じ物が何列も続いている。
「……財宝の気配はないな」
ルシアンは部屋へ入った。
棚のほとんどは空だった。
ところどころに、掌ほどの薄い板が残されている。
水中にあるにもかかわらず、表面は濁っていない。
一枚へ触れる。
《沈降庭区・保全記録》
「記録庫なのだから、当然か」
別の板。
《水位調整系統・交換部材記録》
さらに別。
《保全従事者配置記録》
「帳簿ではないか」
ポックなら喜びそうだ。
だが本人はいない。
ルシアンは棚の間を進んだ。
「中央保全拠点に関する記録を提示したまえ」
《該当記録を検索》
棚の一部に青白い光が灯った。
ルシアンは期待して近づく。
《中央保全拠点からの直接記録なし》
「期待させてから否定するのはやめたまえ」
光は消えない。
続いて、別の意味が流れ込んだ。
《関連記録、三件》
「……関連?」
一枚目へ触れる。
《共鳴導管区・第一支線》
ルシアンの動きが止まった。
「共鳴導管?」
鐘鳴り坑道で聞いた名前だ。
鉱殻蛞蝓が詰まっていた、あの巨大な管。
《保全要請受領》
《沈降庭区からの従事者派遣不能》
《要請を保全中継所へ転送》
「同じ場所だったのか」
鐘鳴り坑道と沈み庭。
現在の人々からすれば、街道を何日も離れた別々の遺跡。
古代の記録では、一方からもう一方へ作業の要請が送られている。
ルシアンは二枚目へ触れた。
《沈降庭区・水位調整系統》
《交換部材受領》
《発送元――第三保全中継所》
三枚目。
《中央保全拠点への照会経路》
《第三保全中継所に保持》
「見つけたぞ、ポックン」
思わず口にしてから、ルシアンは周囲を見回した。
白い棚。
揺れる水。
当然、返事はない。
「……こういうときに限っていないのだから困る」
記録板を掴み、棚から外そうとする。
《保全記録の区域外搬出を禁止》
「では、どうやってポックンに見せるのだ」
《従事者用複製を作成可能》
ルシアンはしばらく黙った。
「最初からそう言いたまえ」
棚の側面が開いた。
内部から、元の記録板より小さな白い板が一枚押し出される。
表面には細い線と古代文字。
そして、三つの区画をつなぐ簡単な図が刻まれていた。
《関連記録を複製》
ルシアンはそれを掴んだ。
「実に便利だ」
少し考える。
「……先ほどの水中機能ほど腹は立たないな」
◇
「遅い!」
水面から頭を出した瞬間、ポックの声が飛んできた。
「随分と感動の薄い出迎えだな」
「どれだけ待ったと思ってるんだ!」
「記録が多かったのだよ」
ルシアンは石段へ上がった。
手には白い板を持っている。
「何だ、それ」
「古代人の帳簿だ」
ポックの表情が変わった。
「見せろ」
「君は僕が戻ったことより、帳簿の方が重要なのかね」
「センセイは戻ってきた。帳簿はまだ読んでない」
「合理的すぎて腹が立つな」
二人は準備区画へ戻った。
ポックは白い板を床へ置き、しゃがみ込む。
「読める?」
「文字は僕が読む」
「じゃあ、上から順に」
「命令するのかね」
「鎧が脱げるかどうかに関係するかもしれないぞ」
「始めよう」
ルシアンは板へ触れた。
意味が頭の内側へ流れ込む。
「一つは、共鳴導管区・第一支線」
「鐘鳴り坑道だ」
「おそらくね。そこで保全要請が出ている」
「いつ?」
「分からない。数字はあるが、今の暦とは違うような気がする」
「次」
「沈降庭区。交換部材を受け取った記録」
「どこから?」
「第三保全中継所」
ポックの指が止まった。
「中継所?」
「さらに、中央保全拠点への照会経路を、その中継所が保持しているとある」
ポックは白い板を見つめた。
「じゃあ、次はそこだ」
「場所が分かればね」
「書いてないのか?」
「古代人は肝心なところで不親切なのだよ」
板の下部には、細い線で描かれた図がある。
いくつかの区画。
その間を結ぶ線。
端には、大きく湾曲した形が刻まれていた。
ポックがそこへ顔を近づける。
「これ、何だ?」
「分からない」
「川?」
「古代人の芸術作品かもしれない」
「地図に芸術の要素を入れるなよ」
ポックは板の向きを変えた。
しばらく眺める。
「……湖に見える」
「湖?」
「親父の帳簿に、東の方に大きな湖があるって書いてあった」
ルシアンは白い板を見た。
「そこに中継所があると?」
「分からない」
「君も分からないのかね」
「だから調べるんだよ」
ポックは板を慎重に布へ包んだ。
「古代の地図だけじゃ場所は決められない。今の街道や町と照らし合わせないと」
「ラドメルへ戻る?」
「その前にミルダだ」
ポックは管理通路の入口の方を見た。
その向こう。
太い石柱へ括りつけたままの岩背亀がいる。
「こいつを二日もそのまま運べない」
「僕へ二日間、亀を背負わせるつもりだったのかね」
「ミルダなら半日だ。解体できる人もいるはずだし、燻製小屋もある」
「そして宿もある」
「ああ」
「今回は君が部屋で寝たまえ」
ポックがルシアンを見上げた。
「センセイは?」
「僕なら倉庫か荷車置き場で十分だ」
「また荷車置き場か」
「僕はどこでも快適に眠れる身体になってしまったからね」
少しだけ間を置いて、ルシアンは続けた。
「君まで付き合う必要はない」
ポックは何も言わなかった。
代わりに、白い板を背負い袋の一番奥へしまった。
「じゃあ、亀を載せるぞ」
「話題を変えたな?」
「暗くなる前に出たい」
沈み庭で得たものは、甲冑を外す方法ではなかった。
水の中で動くための機能。
古い帳簿。
そして、まだ場所さえ分からない第三保全中継所。
それでも。
鐘鳴り坑道と沈み庭の先に、もう一つ道がつながった。
ルシアンは白い通路を振り返った。
「よろしい」
「何が?」
「旅を続ける理由が、また一つ増えた」
「最初から脱ぐまで続けるだろ」
「理由は多い方が美しいのだよ、ポックン」
ポックは返事の代わりに、亀を縛るための縄を投げてよこした。