僕の美しさが見せられない!   作:柿木杮

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第19話 古い帳簿

 壁面図の一角だけが、青く沈んでいた。

 

 北側区画。

 

 先ほど水位を下げた場所より、さらに一段深い。

 

 そこから細い通路が伸び、四角い部屋へつながっている。

 

《沈降庭区・保全記録庫》

 

《水没により経路閉塞》

 

「ここだな」

 

 ポックが壁面図を指した。

 

「問題は、どうやって行くかだ」

 

「どうやっても何も、歩いていけばよいだろう」

 

「水の中だぞ」

 

「つい先ほど、そのための機能を手に入れたではないか」

 

「三十五パーセントしか使いこなせてないじゃないか」

 

「初回の数値をいつまで持ち出すつもりだね」

 

「センセイが壁にぶつからなくなるまで」

 

「では今日中には忘れることになるな」

 

 ポックは相手にせず、壁面図を目で追った。

 

「入口から下りて、最初の分かれ道は右」

 

「右」

 

「次は真っ直ぐ。二つ目を左」

 

「二つ目を左」

 

「その先に丸い部屋がある」

 

「そこが記録庫か?」

 

「違う。丸い部屋まで行ったら行きすぎだ」

 

「ずいぶん紛らわしい説明だな」

 

「地図がそうなってるんだよ」

 

 ルシアンは壁面図を見た。

 

 確かに、四角い記録庫の少し先に丸い区画がある。

 

「つまり、丸い部屋の手前だね」

 

「そうだよ」

 

「君の説明には簡潔さが足りないな」

 

「水の中で迷っても、おれは呼べないからな」

 

 ルシアンは黙った。

 

 それは事実だった。

 

 水中では声は届かない。

 

 細縄も、今回は使わない。

 

 水中作業補助機構が本当に使えるなら、自力で行って、自力で帰ってくる必要がある。

 

「どのくらい待てばいい?」

 

「僕の帰還を?」

 

「戻ってこなかったら、また縄を持って探しに行く」

 

「君が水へ入るのかね?」

 

「入らない。岸から届くところまで探す」

 

「実に頼りない救援だな」

 

「じゃあ戻ってこいよ」

 

「当然だ」

 

 ルシアンは胸を張った。

 

「僕には帰るべき場所があるからね」

 

「荷車置き場?」

 

「もう少し美しいものを想像したまえ」

 

     ◇

 

 水面が兜を越えた。

 

 外の音が消える。

 

 ポックの姿も、すぐに揺れる光の向こうへ見えなくなった。

 

《水中作業補助機構を起動》

 

《浮力調整》

 

 これまでなら、ここからただ沈むだけだった。

 

 今回は違う。

 

 ルシアンが下降を意識すると、身体がゆっくりと水底へ向かった。

 

 止まろうと思えば止まる。

 

 右へ身体を向ける。

 

 腰と脚の隙間から水が押し出され、黒い巨体が回転した。

 

「……悪くない」

 

 声が兜の中に響いた。

 

 前へ進む。

 

 丸い外殻が、水中をゆっくりと滑っていく。

 

 泳いでいるというより、見えない床の上を運ばれているようだった。

 

 もっとも、姿勢を少し間違えると話は別である。

 

 曲がり角を抜けようとして、右肩が白い壁へぶつかった。

 

 ごつん。

 

《外殻損傷なし》

 

「ううむ。もっと優雅に進めないものか」

 

 最初の分かれ道を右。

 

 次を真っ直ぐ。

 

 二つ目を左。

 

 ポックの言葉を頭の中で繰り返す。

 

 水没した保全路には、泥も水草もほとんどなかった。

 

 閉ざされてから長い時間が経っているはずなのに、白い床も壁も奇妙なほど滑らかだ。

 

 ただ、ところどころに細かな物が沈んでいる。

 

 薄い板。

 

 折れた白い棒。

 

 錆びているのかさえ分からない小さな金具。

 

 作業員たちが落としたものだろうか。

 

 人が働いていた。

 

 あるいは、人ではない何かが。

 

 ルシアンには分からない。

 

 やがて通路の左側に、白い扉が現れた。

 

 その少し先には、丸い部屋へ続くらしい広い入口。

 

「ここだな」

 

 黒い手を扉へ当てる。

 

《保全従事者を確認》

 

《沈降庭区・保全記録庫を開放》

 

 扉が静かに左右へ分かれた。

 

     ◇

 

 中には棚が並んでいた。

 

 天井近くまで届く白い棚。

 

 同じ物が何列も続いている。

 

「……財宝の気配はないな」

 

 ルシアンは部屋へ入った。

 

 棚のほとんどは空だった。

 

 ところどころに、掌ほどの薄い板が残されている。

 

 水中にあるにもかかわらず、表面は濁っていない。

 

 一枚へ触れる。

 

《沈降庭区・保全記録》

 

「記録庫なのだから、当然か」

 

 別の板。

 

《水位調整系統・交換部材記録》

 

 さらに別。

 

《保全従事者配置記録》

 

「帳簿ではないか」

 

 ポックなら喜びそうだ。

 

 だが本人はいない。

 

 ルシアンは棚の間を進んだ。

 

「中央保全拠点に関する記録を提示したまえ」

 

《該当記録を検索》

 

 棚の一部に青白い光が灯った。

 

 ルシアンは期待して近づく。

 

《中央保全拠点からの直接記録なし》

 

「期待させてから否定するのはやめたまえ」

 

 光は消えない。

 

 続いて、別の意味が流れ込んだ。

 

《関連記録、三件》

 

「……関連?」

 

 一枚目へ触れる。

 

《共鳴導管区・第一支線》

 

 ルシアンの動きが止まった。

 

「共鳴導管?」

 

 鐘鳴り坑道で聞いた名前だ。

 

 鉱殻蛞蝓が詰まっていた、あの巨大な管。

 

《保全要請受領》

 

《沈降庭区からの従事者派遣不能》

 

《要請を保全中継所へ転送》

 

「同じ場所だったのか」

 

 鐘鳴り坑道と沈み庭。

 

 現在の人々からすれば、街道を何日も離れた別々の遺跡。

 

 古代の記録では、一方からもう一方へ作業の要請が送られている。

 

 ルシアンは二枚目へ触れた。

 

《沈降庭区・水位調整系統》

 

《交換部材受領》

 

《発送元――第三保全中継所》

 

 三枚目。

 

《中央保全拠点への照会経路》

 

《第三保全中継所に保持》

 

「見つけたぞ、ポックン」

 

 思わず口にしてから、ルシアンは周囲を見回した。

 

 白い棚。

 

 揺れる水。

 

 当然、返事はない。

 

「……こういうときに限っていないのだから困る」

 

 記録板を掴み、棚から外そうとする。

 

《保全記録の区域外搬出を禁止》

 

「では、どうやってポックンに見せるのだ」

 

《従事者用複製を作成可能》

 

 ルシアンはしばらく黙った。

 

「最初からそう言いたまえ」

 

 棚の側面が開いた。

 

 内部から、元の記録板より小さな白い板が一枚押し出される。

 

 表面には細い線と古代文字。

 

 そして、三つの区画をつなぐ簡単な図が刻まれていた。

 

《関連記録を複製》

 

 ルシアンはそれを掴んだ。

 

「実に便利だ」

 

 少し考える。

 

「……先ほどの水中機能ほど腹は立たないな」

 

     ◇

 

「遅い!」

 

 水面から頭を出した瞬間、ポックの声が飛んできた。

 

「随分と感動の薄い出迎えだな」

 

「どれだけ待ったと思ってるんだ!」

 

「記録が多かったのだよ」

 

 ルシアンは石段へ上がった。

 

 手には白い板を持っている。

 

「何だ、それ」

 

「古代人の帳簿だ」

 

 ポックの表情が変わった。

 

「見せろ」

 

「君は僕が戻ったことより、帳簿の方が重要なのかね」

 

「センセイは戻ってきた。帳簿はまだ読んでない」

 

「合理的すぎて腹が立つな」

 

 二人は準備区画へ戻った。

 

 ポックは白い板を床へ置き、しゃがみ込む。

 

「読める?」

 

「文字は僕が読む」

 

「じゃあ、上から順に」

 

「命令するのかね」

 

「鎧が脱げるかどうかに関係するかもしれないぞ」

 

「始めよう」

 

 ルシアンは板へ触れた。

 

 意味が頭の内側へ流れ込む。

 

「一つは、共鳴導管区・第一支線」

 

「鐘鳴り坑道だ」

 

「おそらくね。そこで保全要請が出ている」

 

「いつ?」

 

「分からない。数字はあるが、今の暦とは違うような気がする」

 

「次」

 

「沈降庭区。交換部材を受け取った記録」

 

「どこから?」

 

「第三保全中継所」

 

 ポックの指が止まった。

 

「中継所?」

 

「さらに、中央保全拠点への照会経路を、その中継所が保持しているとある」

 

 ポックは白い板を見つめた。

 

「じゃあ、次はそこだ」

 

「場所が分かればね」

 

「書いてないのか?」

 

「古代人は肝心なところで不親切なのだよ」

 

 板の下部には、細い線で描かれた図がある。

 

 いくつかの区画。

 

 その間を結ぶ線。

 

 端には、大きく湾曲した形が刻まれていた。

 

 ポックがそこへ顔を近づける。

 

「これ、何だ?」

 

「分からない」

 

「川?」

 

「古代人の芸術作品かもしれない」

 

「地図に芸術の要素を入れるなよ」

 

 ポックは板の向きを変えた。

 

 しばらく眺める。

 

「……湖に見える」

 

「湖?」

 

「親父の帳簿に、東の方に大きな湖があるって書いてあった」

 

 ルシアンは白い板を見た。

 

「そこに中継所があると?」

 

「分からない」

 

「君も分からないのかね」

 

「だから調べるんだよ」

 

 ポックは板を慎重に布へ包んだ。

 

「古代の地図だけじゃ場所は決められない。今の街道や町と照らし合わせないと」

 

「ラドメルへ戻る?」

 

「その前にミルダだ」

 

 ポックは管理通路の入口の方を見た。

 

 その向こう。

 

 太い石柱へ括りつけたままの岩背亀がいる。

 

「こいつを二日もそのまま運べない」

 

「僕へ二日間、亀を背負わせるつもりだったのかね」

 

「ミルダなら半日だ。解体できる人もいるはずだし、燻製小屋もある」

 

「そして宿もある」

 

「ああ」

 

「今回は君が部屋で寝たまえ」

 

 ポックがルシアンを見上げた。

 

「センセイは?」

 

「僕なら倉庫か荷車置き場で十分だ」

 

「また荷車置き場か」

 

「僕はどこでも快適に眠れる身体になってしまったからね」

 

 少しだけ間を置いて、ルシアンは続けた。

 

「君まで付き合う必要はない」

 

 ポックは何も言わなかった。

 

 代わりに、白い板を背負い袋の一番奥へしまった。

 

「じゃあ、亀を載せるぞ」

 

「話題を変えたな?」

 

「暗くなる前に出たい」

 

 沈み庭で得たものは、甲冑を外す方法ではなかった。

 

 水の中で動くための機能。

 

 古い帳簿。

 

 そして、まだ場所さえ分からない第三保全中継所。

 

 それでも。

 

 鐘鳴り坑道と沈み庭の先に、もう一つ道がつながった。

 

 ルシアンは白い通路を振り返った。

 

「よろしい」

 

「何が?」

 

「旅を続ける理由が、また一つ増えた」

 

「最初から脱ぐまで続けるだろ」

 

「理由は多い方が美しいのだよ、ポックン」

 

 ポックは返事の代わりに、亀を縛るための縄を投げてよこした。

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