岩背亀を背負子へ載せる作業は、思ったより難しかった。
重さの問題ではない。
形の問題である。
「右が下がってる」
「こうか?」
「もう少し左」
「君から見てかね、僕から見てかね」
「センセイから見て左」
ルシアンは岩背亀の甲羅を持ち上げた。
ポックが背負子と甲羅の間へ縄を通す。
「上げすぎ!」
「細かな注文が多いな」
「歩いてる途中で落ちたら困るだろ」
「この程度の重量なら、片手でも持てるのだよ」
「手で持ったら引きずっちゃうだろ」
正論だった。
甲羅を背負子へ押しつけ、ポックが縄を締める。
首と脚はすでに動かないようまとめてある。
最後に背負子上部の鉄輪へ縄を通し、ポックが結び目を二重にした。
「歩いてみて」
ルシアンが一歩進む。
背中で巨大な甲羅が揺れた。
二歩。
三歩。
「どうだ?」
「大丈夫そうだ」
「見た目は?」
ポックが少し離れた。
黒く丸い甲冑。
その背中には、泥の残った巨大な亀。
さらに縄や滑車、防水袋まで括りつけられている。
「すごいぞ」
「ほう」
「荷物の小山が歩いてるみたいだ」
「もっと優美な表現に訂正したまえ」
「でかい虫が亀を運んでる」
「悪化したぞ」
ポックは背負い袋を担いだ。
沈み庭を出るころには、日は西へ傾き始めていた。
◇
ミルダへ向かう道は、沈み庭から南東へ伸びていた。
最初は草に埋もれた細い道だったが、しばらく進むと二本の轍が現れる。
さらに歩けば、轍は深くなった。
荷馬車が通る道だ。
「この先で街道へ合流する」
ポックが言った。
「知っているのか?」
「親父の手帳にあった。ミルダは北から来る道と、東へ行く道がぶつかる」
「君の父上の手帳には、道まで書いてあるのかね」
「荷物を運ぶのに道を知らなくてどうするんだよ」
「僕の知っている帳簿とは、ずいぶん内容が違うな」
「帳簿じゃない、手帳だよ」
「一緒ではないのかね?」
「帳簿ってのは金の管理に使う専用の記録だよ。そんなんだから銅貨六枚になったんだぞ」
ルシアンは聞こえなかったことにした。
やがて道は広くなった。
北から来る街道との合流点には、古びた道標が立っている。
片方にはミルダ。
もう片方には、ルシアンの知らない山間の町の名前。
しばらく待つと、北から荷馬車が一台やってきた。
長い丸太を何本も載せている。
御者が二人を見た。
正確には、ルシアンを見た。
その後ろの岩背亀を見た。
もう一度ルシアンを見た。
「……狩ったのか?」
「ああ」
ポックが答えた。
「沈み庭で、ちょっとね」
「二人でか?」
「まぁね。こっちの鎧が強いんだ」
「用心棒だ」
ルシアンが胸を張る。
御者は背負子を見た。
「そ、そうか」
「信じていない顔だね」
「顔は見えてないだろ」
ポックが言った。
荷馬車はミルダへ向かう途中だった。
御者によれば、今日は北山から切り出した木材を運んでいるという。
「湖の魚なら明日の朝だな」
ポックが反応した。
「東の湖から?」
「ああ。塩漬けは昼前には着く。生はもっと早い」
「湖へ行く荷車もミルダを通る?」
「通るさ。東へ行くなら、大抵ここで荷を積み替える」
ポックは小さく頷いた。
白い記録板のことは言わなかった。
ルシアンも黙っていた。
第三保全中継所。
その場所を探すなら、ミルダは都合がよさそうだった。
◇
宿場町ミルダは、ラドメルよりずっと小さかったが、元気のよい町という印象だった。
小ぢんまりした旅客向けの店がぎゅうぎゅうとひしめき合っており、賑わっている。
町の北側には木材置き場。
東側には魚を扱う店が並び、軒下から魚の干物が吊られている。
煙突の低い建物からは、薪の煙と肉の匂いが流れていた。
通りには荷車。
馬。
猟師。
樽を転がす男たち。
そして。
そこへ、巨大な黒い甲虫が岩背亀を背負って入ってきた。
鳥の影に驚いて素早く散る魚影のように、さっと道が空いた。
「便利だな、センセイ」
「ラドメルでも聞いた気がするよ」
子どもが母親の後ろから顔を出した。
「あれ、亀?」
「亀ではない、美の化身だよ坊や」
「虫がしゃべったっ」
「訂正したまえ!」
母親が子どもを抱えて逃げた。
「訂正する前にいなくなったぞ」
「まったく。ここにも真の美しさを理解できるものはいないようだな」
ポックは通りの看板を見ながら進んだ。
やがて、軒先に鹿の角と魚の骨を吊るした大きな作業場を見つける。
奥には石敷きの床。
吊り鉤などの様々な道具があちこちにぶら下がっている。
そして水場。
さらに裏手には、煙を上げる小屋が二棟あった。
「ここだ」
主人らしい男が出てきた。
四十を過ぎたくらい。
革の前掛けには、古い脂の染みが残っている。
「何の用――」
男の視線がルシアンの背中で止まった。
「岩背亀か?」
「丸ごとだぜ」
ポックが答えた。
「甲羅もきれいに丸ごと残ってる。あと嘴も爪もな」
「見せろ」
「査定が先だ」
「降ろさなきゃ見られん」
「降ろしたら、なしくずしで解体する気だろ?」
「いやなら背負って帰んな」
ポックは一瞬考えた。
「査定だけなら銅貨?」
男が笑った。
「坊主。どこで覚えた」
「親父が商人だった」
「なるほどな」
裏の石床を貸してもらい、ルシアンが岩背亀を降ろした。
どすん。
「もう少し静かに置け!」
「私の心のように静かだったではないか」
「石床が揺れたぞ」
「地盤がゆるいのではないかね」
「んなわけあるか」
主人は甲羅を叩き、嘴を確かめ、首元の傷を見る。
裏返して腹側も調べた。
「きれいに仕留めてるな」
「だろ。高く買い取ってくれよ」
ポックが言った。少し自慢げだ。
「センセイがひっくり返して、おれが首の付け根を刺したんだ」
「甲羅を割らなかったのは正解だ」
男は甲羅の縁を指でなぞった。
「これなら欲しがる奴ぁ多い。嘴と爪も別で売れる。肉も旨いぞ。脂は灯りと軟膏だな」
ポックの目が細くなった。
「全部ここで処理できる?」
「できるが、これだけの大物は久しぶりだな。とても一晩じゃ終わらん」
「預かり証は?」
男はまた笑った。
「しっかりしてやがんな。出すよ」
「部位ごとの重量も書いて」
「あん?そこまでやるなら手数料を取るぞ」
「いくら?」
交渉が始まった。
ルシアンは少し離れたところで腕を組んだ。
「僕が命を張って捕らえた亀なのだが」
誰も聞いていない。
《装着者生体状態、良好》
「君の声もたまには慰めになるな」
◇
交渉は、ポックが満足するまで続いた。
解体料。
燻製の加工料。
売却する部位。
持って帰る部位。
売れ残った場合の扱い。
最後に主人が紙へ書き、店の印を押した。
ポックは一行ずつ確かめる。
「よし」
「終わったかね」
「ああ」
「では宿だ」
「まだ東の湖のことを――」
「明日にしたまえ」
ポックが振り返った。
「まだ明るいぞ」
「君は今日、朝から何をしていた?」
「沈み庭を調べて――」
「泥の中を歩き、弁を回し、僕を吊り上げ、亀を解体し、半日歩いた」
「解体はまだだ」
「細かいところへ口を挟むな」
「センセイは疲れてないだろ」
「僕の話ではない」
ポックが黙った。
「風呂へ入り、食事をして、寝たまえ」
「でも――」
「これは用心棒としての指示だ」
「用心棒が依頼主に命令するのかよ」
「依頼主が十三歳だからね」
「関係ないだろ」
「大いにある。生意気な依頼主のメンテナンスも業務のうちさ」
ルシアンは歩き出した。
「明日、湖の話を聞くのであれば、なおさら今日は休むべきだ」
ポックはしばらく動かなかったが、やがて後ろからついてきた。
「高い宿は駄目だからな」
「君は僕を何だと思っているのだ」
「銅貨六枚まで減らした人」
「いつまで言うつもりだね!」
◇
街道沿いの宿は、一階が食堂になっていた。
主人はルシアンを見るなり眉を上げたが、裏手の石造りの荷車小屋なら使ってよいと言った。
ポックには二階の小部屋が取れた。
「同じ宿なのに、僕だけ別棟か」
「床が抜けるから仕方ないだろ」
「僕の扱いだけ、建築基準に左右されすぎではないかね」
ポックは部屋代を払い、鍵を受け取った。
「センセイ」
「何だね」
「本当にいいのか?」
「何が?」
「おれだけ部屋」
ルシアンは黒い腕を広げた。
「僕を寝台へ載せる方が宿に迷惑だろう」
「それはそうだけど」
「それに」
ルシアンは少し胸を張った。
「僕は荷車置き場で眠ることについては、すでに経験者だ」
「自慢するところじゃないぞ」
「経験は人を成長させるのだよ、ポックン」
ポックは鍵を握ったまま、しばらくルシアンを見上げた。
「……じゃあ、風呂入ってくる」
「そうしたまえ」
「飯のとき呼ぶ」
「ああ」
「先に寝るなよ」
「君に食事を運んでもらわなければならないからね」
「結局そこは、おれなんだな」
「僕たちは相棒だからね」
「都合のいいときだけ言うなよ」
ニヤリと笑って、ポックは宿の中へ入っていった。
階段を上がる小さな足音が遠ざかる。
ルシアンは一人、裏手の荷車小屋へ向かった。
石造りの壁。
広い入口。
乾いた藁。
少なくとも、ラドメルの荷車置き場よりは上等だった。
「悪くない」
誰もいない小屋の中で、ルシアンは呟いた。
そして、少し考えてから付け加えた。
「苦難が僕をさらに磨き上げるのだ」