朝になっても、ポックは来なかった。
ルシアンは宿の裏手にある荷車小屋で、腕を組んで待っていた。
入口から差し込む朝日は、すでに床の半分まで届いている。
街道では荷車の音がする。
馬が鳴く。
表の食堂からは、焼いたパンと肉の匂いまで漂ってきた。
「遅いな」
《装着者生体状態、良好》
「僕の話ではない」
当然、返事はない。
昨夜、ポックは風呂へ入ったあと、一度だけ食堂へ降りてきた。
髪はまだ濡れていて、革鎧も脱いでいた。
夕食を食べながら何度も欠伸をし、それでも岩背亀の預かり証を三度確認してから二階へ上がっていった。
それきりである。
「十三歳というものは、ずいぶん長く眠るのだな」
自分にも十三歳の頃はあったはずだが、覚えているのは鏡の前に立っていた時間ばかりだった。
もう少し待つ。
ようやく宿の裏口が開いた。
ポックが出てきた。
髪の片側が大きく跳ねている。
上着のボタンも、一つずれていた。
「おはよう、ポックン」
「……おはよう」
「よく眠れたかね」
「……寝すぎた」
「よいことだ。今日は声に棘が少ない」
「いつもどおりだよ」
「まだ眠そうだね」
「誰のせいで昨日あんなに働いたと思ってるんだ」
「主として亀のせいだろう」
ポックは目を細めた。
棘が戻った。
「何時だ?」
「僕に聞くのかね」
「時計ないの?」
「この外殻は水の中を動くことはできても、時刻を教える気はないらしい」
《現在時刻情報、取得不能》
「鎧に聞いてみたのか?」
「ああ。役に立たなかった」
「便利なんだかそうでもないんだか」
「聞くだけなら無料だからね」
ポックは空を見上げた。
「魚の荷、もう来てるかも」
「朝食が先だ」
「聞き込みしてからでいい」
「朝食が先だ」
ルシアンは繰り返した。
ポックが怪訝そうに見上げる。
「センセイ、腹減ったのか?」
「僕ではない」
「おれ?」
「君以外に誰がいるのだね」
「昨日いっぱい食ったぞ」
「昨日食べたから今日食べなくてよい、という理屈にはならないだろう」
「甲冑着てから腹が減らない人に言われたくないな」
「僕は特殊な事情がある」
ポックは少しだけ黙った。
「……分かったよ」
「よろしい」
「その代わり、朝飯食ったらすぐ行くぞ」
「構わないとも」
◇
宿の朝食には、丸いパンと卵、それに小さな魚が二尾ついていた。
魚は腹を割いて塩を振り、皮が焦げるまで焼いてある。
「湖の魚かな」
ポックが早速一尾を手に取る。
「食べれば分かるのか?」
「魚屋なら分かるかもしれない」
「君は?」
「うまいかどうかなら」
一口。
ポックの頬が少し緩んだ。
「うまい」
「それは何よりだ」
ルシアンの前には、宿の女将が困った顔で麦粥を置いている。
「本当に、そこから食べるのかい?」
「本意ではないがね」
ポックが匙を取った。
「開けて」
「僕の口へ対する指示として、簡潔すぎないかね」
「早く」
口吻の下面が小さく開く。
《経口補給経路を開放》
ポックが麦粥を流し込んだ。
「ずいぶん慣れたもんだねぇ」
女将が感心する。
「毎日やってるから」
「僕も自分で食べられないわけではない」
「毎回匙を曲げてたらそれだけでも大損だぞ」
「あれは柄が細かっただけだよ」
「今朝のも同じだよ」
女将が笑いながら奥へ戻っていく。
ポックは二尾目の魚へ手を伸ばした。
昨夜より顔色がいい。
ルシアンは何も言わなかった。
◇
岩背亀を預けた作業場では、すでに解体が始まっていた。
甲羅は外され、裏側を洗われている。
嘴と爪は別の桶。
肉は大きな塊に分けられ、一部には塩が擦り込まれていた。
「脂が思ったより取れる」
主人が言った。
「肉も悪くない。今日売る分なら、こっちで引き取る」
「値段は?」
ポックの眠気が消えた。
主人が金額を言う。
「安い」
「昨日言った範囲内だぞ」
「昨日は解体前だろ。肉の状態がいいなら上がるはずだ」
「やれやれ。坊主、朝から元気だな」
「寝たからな」
そこからしばらく交渉が続いた。
ルシアンは横で待った。
結局、肉と脂の一部はその場で売却。
残りは燻製に回す。
甲羅、嘴、爪については、乾燥と処理が済むまで預けることになった。
「ラドメルへ送る便もある」
主人が言った。
「まとまった荷が出るのは五日後だ」
「運賃はいくら?」
「甲羅の大きさ次第だ」
「昨日測っただろ」
「乾けば少し軽くなる」
「重量で取るの?」
「あとはデカさも関係するぞ」
また交渉が始まりそうになった。
ルシアンは主人へ尋ねた。
「東の湖へ行く荷車も、ここから出るのだったね」
「ああ?」
主人がこちらを見た。
「魚が来る道を知りたい」
「湖へ行くのか?」
「その辺りに用がある」
主人はポックを見た。
「それなら魚市へ行け。今朝の便が来てるはずだ」
ポックが頷いた。
「西岸から来る?」
「大半はな。南から回る荷もあるが、遠い」
「西岸にダンジョンは?」
主人は一瞬考えた。
「いくつかあるぞ」
「大きいの」
「だったら転輪城だろ」
ポックの動きが止まった。
「転輪城?」
「知らんのか」
「名前だけなら」
嘘だった。
ルシアンには分かった。
ポックが知らないことを隠すときは、少しだけ返事が早い。
「湖からどのくらい?」
「西へ半日も入らん。でかいから迷いようがない」
「城なのか?」
ルシアンが尋ねる。
「どう見てもそう見えるからな」
主人は肩をすくめた。
「中へ入れば道が勝手に動く。橋も階段も昨日と同じとは限らん。有名な場所だよ」
「道が動く?」
「鐘を聞き逃すなって話だ。詳しいことは潜る奴に聞け」
主人は甲羅へ戻っていった。
ポックは何も言わない。
作業場を出てから、ようやく背負い袋へ手を入れた。
「センセイ」
「僕も同じことを考えている」
「まだ何も言ってないぞ」
「君がそういう顔をするときは、たいてい金か手掛かりの話だ」
「表情読まないでくれ」
「僕と違って、君の顔は見えるからね」
ポックは少し嫌そうな顔をした。
◇
魚市は、町の東門近くにあった。
荷車が六台。
樽。
籠。
銀色の魚が山になっている。
湖水を入れた桶の中では、まだ生きた魚が尾を振っていた。
売り手の声と、魚を捌く刃物の音。
その上を、荷車に吊るされた小さな魔術灯が青白く照らしている。
ポックは古代の白い記録板を持ち出さなかった。
宿で紙へ写しておいた、湖らしい曲線と、その脇にある四角い印だけを見せた。
「この辺りの地形に似てない?」
魚商人は紙を回した。
「これだけじゃ分からんな」
「湖の西側。少し内陸に、大きな場所は?」
「何を探してる?」
「古い建物」
「そんなものはいくらでもある」
別の御者が紙を覗き込んだ。
「この曲がり方なら北西岸じゃないか?」
「ほら、岬が出てるだろ」
「昔の絵なら当てにならんぞ」
「この辺りに四角いものは?」
「四角?」
御者は考え、指を置いた。
「転輪城なら、この辺だ」
ポックの目が紙へ落ちる。
「湖から離れてる?」
「歩けば二刻くらい。昔の街道ならもっと近かったらしいが、今は道が南へ回る」
「昔の街道?」
「城の近くを通ってた道がある。今は使わん」
「なんで?」
「荷車で通る場所じゃないからだよ」
御者が笑った。
「近くに魔物が出る。それに城へ潜る連中が道を塞ぐ。荷を運ぶなら南を回った方が早い」
別の商人が口を挟んだ。
「転輪城へ行くなら、ミルダで地図を買っていけ。古いのは安いが役に立たんぞ」
「どうして?」
「中が変わるからだ」
「どのくらい?」
「さぁな。俺も聞いた話だから詳しいことはわからねぇな」
男は魚の入った籠を持ち上げた。
「三年くらい前にも、大階段の向きが変わったって騒ぎになった。あそこはそういう場所らしいぞ」
それだけ言って、仕事へ戻っていく。
ポックは紙を見た。
古い曲線。
湖。
その西側にある四角。
そして転輪城。
◇
宿へ戻ると、ポックはいったん二階へ上がった。
ほどなくして、背負い袋と何枚かの紙を抱えて降りてくる。
「センセイ、こっち」
「どちらへ行くのかね」
「センセイの部屋」
「荷車小屋を部屋と呼ぶことには異議がある」
「じゃあ、センセイの荷車小屋」
「さらに惨めになったな」
ポックは宿の裏へ回った。
荷車小屋へ入ると、壁際に置かれていた木箱を二つ引っ張り出す。
並べて、その上へ荷物を広げた。
白い記録板。
紙へ写した古代図。
魚商人から買った湖西岸の道案内。
「ずいぶん狭い机だな」
「センセイのところで見るなら仕方ないだろ」
「僕が君の部屋へ行けば済む話では?」
「二階だぞ」
「……そうだったな」
「忘れてたのかよ」
「僕の行動範囲を建築物に制限される生活には、まだ慣れていないのだよ」
「うっかりして床踏み抜かないでくれよ」
「宿というものは、もう少し利用者へ歩み寄るべきだと思うね」
「はいはい。頑丈な宿があるといいな」
ポックは適当に流し、二枚の紙を並べた。
湖岸の形は完全には一致しない。
古い記録がどれほど昔のものかも分からない。
川の位置も違う。
だが、大きく張り出した岬。
その北側の湾。
そこから西へ離れた印。
似ている。
「たぶん」
ポックが指を置いた。
「この辺だ」
「第三保全中継所?」
「分からない」
「慎重だね」
「似てるだけだからな」
「では、確認すればよい」
「その前に調べる」
「またかね」
ポックが顔を上げた。
「沈み庭で、作業前に行く場所を探さなかったの誰だよ」
「僕たちだ」
「珍しく素直だな」
「同じ失敗を二度するほど、僕は未熟ではない」
「ほんとかなあ」
ポックは道案内の端へ、小さく書き込んだ。
転輪城。
「有名なダンジョンなら、情報は集めやすい」
「有名なのか?君は知ったかぶりをしていたようだが」
「なんだよ、バレてたのか。まぁでも魚商人まで知ってただろ。この辺じゃ有名なんだろうさ」
「それもそうだね」
「組合の出張所があれば地図もある。潜った冒険者もいる。魔物も、必要な装備も調べられる」
「では明日か」
「早くてもな」
「今日は?」
「岩背亀の金を受け取る。地図を買う。道を調べる。食料も補充する」
「ずいぶん仕事が多いな」
「センセイもやるんだぞ」
「僕は用心棒だ」
「荷物も持つ用心棒」
「美しくない」
ポックは白い記録板を布で包んだ。
最後にもう一度、現代の地図へ目を落とす。
湖の西。
街道から外れたところに、小さな文字がある。
転輪城。
「道が動くダンジョンか」
ルシアンが言った。
「面白そうじゃないか」
「センセイ」
「何だね」
「遊びに行くんじゃないぞ」
「当然だ」
ルシアンは胸を張った。
「僕の美貌を取り戻すために行くのだからね」
ポックはしばらく黙ってから、地図を畳んだ。
「……じゃあ、そのついでに稼ごう」
「君はぶれないな」
「センセイもな」
二人の間に、折り畳まれた地図が残った。
その片隅に書かれた名だけが、次の行き先として初めて形を持っていた。
転輪城。
鐘鳴り坑道とも、沈み庭とも違う。
道そのものが動くという、湖西のダンジョンだった。