翌朝。
ルシアンの背中は、妙に軽かった。
「何か足りない気がするな」
「亀だろ」
ポックが即答した。
「ああ、そういえばそうだったか。言われてみれば修行を終えたかのように軽やかではある」
「何言ってんだよセンセイ。さっさと行こうぜ」
岩背亀は、ミルダの作業場へ預けたままである。
肉と脂の売却分は受け取り、燻製に回した分と甲羅、嘴、爪は処理が終わってから精算する。
ポックは朝から預かり証と明細を照らし合わせ、最後に主人の印まで確認してきた。
甲羅は五日後に出るラドメル行きの荷へ載せる予定になっている。
その代わり、ルシアンの背負子には新しい荷物が増えていた。
保存食。
水袋。
長縄。
防水袋。
それに、昨日買ったばかりの転輪城の地図。
「結局、荷物は減らなかったな」
「亀より軽いだろ」
「比較対象がおかしいのだよ」
「おれも少しは持つよ」
「その必要はない」
ルシアンは背負子の革帯を直した。
「僕が持った方が速いからね」
「助かる」
「もう少し有難がってもよいのでは?」
「ありがとう、センセイ」
「素直に言われると、それはそれで物足りないな」
「面倒くさいなあ」
二人はミルダの東門を出た。
◇
東へ向かう街道は、朝から荷車が多かった。
ミルダへ魚を運び終えた空荷の車。
塩の樽を積んだ車。
籠を山ほど載せた小さな二輪車。
昨日聞いたとおり、東から来る荷がこの道へ集まっているらしい。
歩き始めて一刻ほど。
緩やかな坂を登り切ったところで、前方の景色が突然開けた。
「ほう」
ルシアンは足を止めた。
遠くまで続く青い水面。
湖だった。
向こう岸は霞み、ほとんど見えない。
朝の光を受けた水面が、細かな銀色の光を無数に散らしている。
岸辺には小さな舟がいくつも浮かび、そのさらに奥では、白い帆を張った船がゆっくりと北へ進んでいた。
「大きいな」
「親父の手帳にも、大湖って書いてあった」
ポックも足を止めている。
「君も見るのは初めてなのか?」
「ああ」
「知っているような顔をしていたから、何度も来ているのかと思ったよ」
「道を知ってるだけで、来たのは初めてだよ」
「なるほど」
ポックはしばらく湖を眺めていたが、やがて地図を取り出した。
「転輪城はあっちだ」
湖へ下る本道から、左へ分かれる道がある。
道標は古かった。
文字の半分は擦れていたが、その下に新しい板が打ちつけられている。
『転輪城』
さらに、その下。
『荷馬車進入非推奨』
「ずいぶん親切だな」
「昨日、魚屋が言ってただろ。結構危ない道だって」
「僕がいれば恐るるに足りず、さ」
「頼りにしてるよ、センセイ」
「君の言葉に心が籠ってないときは、大体分かるようになってきたぞ」
二人は街道を外れた
◇
古い道には、荷車の轍がほとんどなかった。
代わりに、人の足跡が多い。
一人、二人ではない。
前を歩く四人組。
後ろから追い抜いていく三人組。
大きな盾を背負った男。
長杖を持つ女。
弓を肩へ掛けた少年。
「ずいぶん人がいるな」
「有名なダンジョンなんだろ」
ラドメルの鐘鳴り坑道とは、雰囲気が違った。
あちらは初心者が近場で稼ぐための場所だった。
沈み庭には、そもそも人がいなかった。
この道を歩く者たちは、明らかに転輪城そのものを目指している。
前を行く一団の中で、赤い外套を着た女が杖を振った。
小さな火が先端へ灯る。
火は風のないところで細長く伸び、そのまま仲間の持つ灯籠へ移った。
少し離れたところでは、別の一団が荷物を囲んでいる。
男が手をかざすと、縄の結び目の周囲に淡い風が巻き、濡れた布から水滴が次々と飛んだ。
ルシアンはその様子を眺めた。
「便利なものだな」
「何が?」
「魔術だよ」
「センセイも似たようなことできるだろ」
「僕は脚から風が出るだけだ」
「水の中なら便利じゃないか」
「陸上で披露できれば良かったのだが」
道の脇に座っていた冒険者が、二人を見た。
正確には、ルシアンを見た。
しばらく見た。
それからポックへ声をかける。
「そいつは人間なのか?」
「なんだよ、いきなり。人間だよ、センセイは」
「先生?」
「用心棒のセンセイ」
「よくわからんが、めちゃくちゃ強そうだな」
「僕にも分からない呼び名だが、定着してしまってね」
「センセイは喜んでただろ」
「敬意から生まれたものだと思っていたからだよ」
冒険者は笑いながら道を譲った。
以前ほど、ルシアンの姿を見て逃げる者はいない。
それだけでも、ラドメルやミルダとは少し違った。
奇妙な装備の冒険者など、ここでは珍しくないのかもしれない。
◇
最初に見えたのは、塔だった。
木々の向こうから、石造りの尖塔が一本突き出している。
さらに進む。
二本。
三本。
そして丘を越えたところで、全体が現れた。
「……城だな」
ポックが呟いた。
「城だね」
ルシアンも同意した。
灰色の巨大な城壁が、丘陵を丸ごと囲んでいた。
赤茶けた石。
蔦に覆われた塔。
ところどころに青緑色の装飾が残っている。
だが、普通の城とはどこか違う。
塔と塔の間に、あまりにも多くの橋が架かっていた。
低い橋。
高い橋。
行き先の見えない回廊。
壁の途中から突き出し、どこにもつながっていない石段まである。
「僕の美的センスからするとあまり好みではない、少し雑然としすぎているな。さては作りかけなのか?」
「確かに、色々なものをめちゃくちゃに付け足しまくったみたいに見えるな。でも、これずっと前からあるんだろ、作りかけってことはないんじゃないか」
「古代人が飽きた可能性もある」
「そんなことあんのかなあ」
城の手前には、大きな石造りの広場があった。
簡素な小屋。
馬をつなぐ柱。
武器を手入れする職人。
食料や縄を売る露店。
冒険者組合の印を掲げた詰所まである。
人がとにかく多い。
城から出てきた者。
これから入る者。
血のついた包帯を巻く者。
大きな羽根を束にして担いでいる者。
盾ほどもある硬い殻を二人がかりで運んでいる者。
「なるほど」
ポックの目が、素材を運ぶ冒険者へ向いた。
「何がなるほどなのだね」
「稼げそうだ」
「君は城を見て最初に思うことがそれなのか?」
「センセイは?」
ルシアンは巨大な城を見上げた。
「悪くないが、良くもない」
「それだけ?」
「僕の屋敷としては少々無骨だが、規模については評価できる」
「ここならセンセイが泊まれる部屋があるかもな」
ポックは組合の詰所へ向かった。
◇
詰所の前には、大きな板が立てられていた。
何枚もの紙が貼られている。
転輪城の地図。
魔物の注意書き。
崩落した通路。
最近使えるようになった階段。
その一番上には、大きな文字で、
『中央大階段 現在東向き』
と書かれていた。
「階段に向きがあるのかね」
「転輪城だからな」
ポックは持ってきた地図と板を見比べた。
地図には、道の脇に小さな鐘の印がいくつも書き込まれている。
「昨日買ったやつと少し違う」
「一日で?」
「南の回廊。こっちは通れることになってるけど」
板には、赤い線が引かれていた。
『南回廊・閉鎖』
「いつから?」
ポックが詰所の男へ尋ねる。
「今朝だ」
「崩れたか壊れた?」
「うんにゃ、ここは単純に建物自体が動くんだよ。知らなかったか?」
男は城を見た。
「話だけは聞いてきたんだ。まだ入ったことないけど」
ポックは地図へ線を引いた。
「中央大階段は?」
「次の二鐘で北へ向くはずだ」
「はず?」
「絶対を期待するなら、転輪城には入らん方がいい」
「なるほど」
ポックはさらに書き込む。
「あと、昨日から上層に風切羽が増えてる。飛び道具を持ってないなら、吹き抜けには長居するな」
「分かった」
「そっちの黒いのは?」
「用心棒」
「美しき用心棒だ」
ルシアンが訂正した。
男は黒い外殻を見上げた。
「お前さんも、入るのは初めてか?」
「ああ」
「中で鐘が鳴ったら、立ち止まるな。道が動き始める前に、広いところへ出ろ」
「道が動くところを見てみたいのだが」
「見られるぞ」
男は即答した。
「嫌になるほどな」
◇
巨大な正門をくぐる。
その先は、暗い城内ではなかった。
いきなり大きな中庭へ出た。
空が見える。
四方を高い城壁に囲まれ、その壁面を何本もの回廊が横切っている。
石橋。
階段。
塔。
その間を、羽根を持つ小さな魔物が飛び交っていた。
右手の回廊では、別の冒険者たちが何かと戦っている。
剣が光る。
火球が飛ぶ。
壁へ当たり、赤い火花が散った。
「おお」
ルシアンは立ち止まった。
「これは――」
ごおん。
低い鐘の音が、城全体へ響いた。
腹の底まで震えるような音だった。
中庭にいた冒険者たちが、一斉に動き始める。
「ポックン?」
「待って」
ポックは地図を見る。
ごおん。
二度目。
「二鐘だ」
どこか遠くで、巨大な石が擦れる音がした。
ごごごごご――。
ルシアンの正面。
中庭の向こうにあった大階段が、ゆっくりと動き始めた。
「……本当に動くのだな」
階段そのものが、基部から回っている。
正面へ向いていた石段が、少しずつ横を向く。
その上にいた冒険者たちは、慣れた様子で手すりにつかまっていた。
「センセイ!」
ポックが叫んだ。
「何だね」
「右へ走るぞ!」
「なぜ?」
「今なら東回廊へ渡れる!」
ルシアンは、回転する大階段を見た。
その向こうには、高い塔。
塔へ続く長い石橋。
さらに奥には、装飾の施された巨大な門が見える。
「ポックン」
「なんだよ!」
「あちらの方が美しい」
「今日は閉まるんだよ!」
「では、仕方がない」
ルシアンはポックを追って走り出した。
足元で石床が震える。
頭上では橋が動く。
遠くでは、また別の壁が低い音を立てながら横へ滑っていた。
鐘鳴り坑道とも。
沈み庭とも違う。
今度のダンジョンは、立ち止まって考えている間にも、道そのものが変わっていくらしい。