「センセイ、急げ!」
「急いでいるとも!」
ポックの後ろを、ルシアンは駆けていた。
石床が足元で震えている。
右手では、巨大な大階段がゆっくりと向きを変え続けていた。
それにつられるように、壁から突き出していた石橋も動く。
橋の先端が、東側の回廊へ近づいていく。
「今だ!」
ポックが橋へ飛び乗った。
ルシアンも続く。
橋はまだ動いていた。
足元から低い振動が伝わってくる。
ポックが走る。
だが、十三歳の脚とルシアンの歩幅では、どうしても差が開いた。
「ポックン」
「なんだよ!」
「遅い」
「センセイがでかすぎるんだよ!」
橋の向こう側が近づく。
同時に、こちら側は少しずつ離れ始めていた。
ルシアンはポックへ追いつくと、その身体を横から抱え上げた。
「うわっ!」
「少し失礼するよ」
「先に言えよ!」
ポックを脇に抱えたまま、ルシアンは走った。
黒い脚が石橋を蹴る。
一歩ごとに重い音が響いた。
「揺れる! 揺れるって!」
「我慢したまえ!」
「絶対に落とさないでくれよ!」
「心配するな、君は亀よりずっと軽い!」
最後の一歩。
ルシアンが東回廊へ飛び移った。
その直後、背後で石橋が離れていく。
ずずずず、と音を立てながら、今まで渡ってきた道が別の壁へ向かっていった。
「間に合ったな」
ルシアンはポックを床へ下ろした。
ポックは乱れた上着を直しながら、橋を睨んだ。
「落ちたらどうするつもりだったんだよ」
「僕は無事だろう」
「おれがいるんだよ!」
「だから抱えたのだが?」
ポックが口を閉じた。
「……それもそうか」
「珍しく素直だね」
「センセイが珍しく考えて動いたからな」
「僕は常に考えているとも」
「その割には失敗しまくってないか?」
「昔の失敗をいつまでも持ち出すものではないよ」
◇
東回廊は、中庭よりずっと狭かった。
片側には背の高い石壁。
反対側には腰ほどの欄干があり、その向こうは吹き抜けになっている。
下を覗けば、先ほど通った中庭が小さく見えた。
「結構高いな」
ポックがすぐに欄干から離れ、地図を開いた。
「今いるのが東回廊。たぶん、この辺」
「たぶん?」
「さっき道が動いただろ」
地図には何本もの線が引かれ、その脇に鐘の印や矢印が書き込まれている。
さらに前の持ち主が残したらしい書き込みまで重なり、ルシアンにはひどく見づらい。
「美しくない地図だな」
「役に立てばいいんだよ」
「美しさと実用性は両立できる」
「センセイが描いたら、余白に自画像描くだろ」
「必要だろう?僕は、描く絵も美しいんだ」
「必要ないよ」
ポックが地図へ顔を寄せた。
「この先に小広間がある。そこまで行けば、次の動きを待てる」
「では行こう」
「待って」
ポックの声が低くなった。
ルシアンも足を止める。
「どうした?」
「音がする」
耳を澄ませる。
かり。
かりかり。
石を引っ掻くような音。
だが、前方には何もいない。
「上だ」
ポックが言った。
ルシアンが見上げる。
灰色の獣が、壁へ張りついていた。
「ほう」
狼ほどの大きさ。
胴は細く、四本の脚は長い。
指先だけが妙に幅広く、垂直な石壁へ吸いつくように身体を支えている。
さらに一匹。
その上にもう一匹。
三匹。
「石走りだ」
ポックが短刀へ手をかけた。
「ポックン、あれはどんな魔物なんだね?」
「俺も情報しか知らないからなぁ。壁を走る犬型の魔物らしいけど」
その直後。
回廊の奥にある石壁の一部が、低い音を立ててずれた。
隙間の向こうから、灰色の影が二つ現れる。
ポックが地図を見た。
「……増えた」
「五匹だね」
「隣とつながったんだ!」
「昨日買ったばかりの地図ではなかったかね」
「地図が古くなったんじゃない。城が変わったんだよ!」
一匹目が壁を蹴った。
真横からルシアンへ飛びかかる。
黒い腕で受け止める。
爪が外殻を擦った。
《外殻への接触を検出》
《外殻損傷なし》
「軽いな」
「センセイ、左!」
二匹目が低い位置を走る。
狙っているのはルシアンではない。
その脇にいるポックだ。
ルシアンが身体をずらした。
黒い巨体が回廊を塞ぐ。
石走りが胸へぶつかり、弾かれた。
「よし!」
「褒めるならもう少し――」
「上!」
「忙しいな!」
天井から三匹目が落ちてきた。
ルシアンは両腕を上げた。
石走りが兜へ着地する。
爪が頭部装甲を掻いた。
「僕の頭を足場にするな!」
腕を伸ばす。
だが石走りは先に壁へ飛び移った。
「すばしっこいぞ」
「だから石走りなんだよ!」
「名前に説明を任せすぎではないかね!」
五匹が壁と天井を走る。
ルシアンへ襲いかかっては離れ、隙を見てポックへ向かう。
ルシアンには傷一つつかない。
だが、捕まえられない。
「ポックン!」
「待って!」
ポックは戦いながら、地図を見ていた。
「こんなときに何を」
「こんなときだからだよ!」
一匹が欄干の上を走った。
ポックが身を低くする。
爪が頭のすぐ上を通り過ぎた。
「ポックン!」
「大丈夫!」
ルシアンが踏み出す。
「来るな! そこにいろ!」
「なぜだね!」
「その辺に集めろ!」
ポックが指したのは、回廊の壁際だった。
何の変哲もない石壁。
「何をするつもりだ?」
「いいから!」
石走りが再びルシアンへ飛びかかる。
一匹。
二匹。
ルシアンは腕で受ける。
反撃はせず、ポックから離れない。
「あと少し!」
「何がだね!」
「たぶん、そこが動く!」
「たぶん!?」
「地図にそう書いてある!」
「君は先ほど地図を信用するなと言ったばかりでは――」
「今は信じろ!」
「どちらなんだ!」
ごおん。
鐘が鳴った。
「センセイ、下がれ!」
ルシアンは即座に後ろへ下がった。
石走りが二匹、壁へ飛びつく。
次の瞬間。
壁が動いた。
石走りの足場になっていた石面が、横へ滑る。
一匹が体勢を崩した。
もう一匹とぶつかる。
二匹まとめて床へ落ちた。
「今!」
「ふんっ」
ルシアンが両腕を伸ばす。
一匹ずつ掴んだ。
「捕まえたぞ」
「離すな!」
「今度は商品価値を気にしなくてよいのかね」
「石走りの皮は売れる! 潰すなよ!」
「まったく君らしい」
残った三匹は、仲間が捕まったのを見ると一斉に壁を駆け上がった。
高い位置まで登り、そのまま開いた別の通路へ消えていく。
ルシアンは両手の石走りを見た。
暴れている。
「これをどうすればよい」
「首を押さえて」
「こうか?」
「もっと急所が見えるようにして」
「注文が細かい!」
◇
二匹を仕留め、使える部位だけを袋へ収める。
ポックは早速、地図の余白へ何かを書き込んでいた。
「何を書いているのだね」
「二鐘のあと、東回廊北側がつながった。石走りが最低五匹」
「次に来たときも同じとは限らないのだろう?」
「何の情報もないよりはいいだろ」
「役に立つのか?」
「役に立つかもしれない」
ポックは炭筆をしまった。
「親父も、こうやって手帳を書いてたんだと思う」
それだけ言って、歩き出す。
ルシアンも後に続いた。
◇
しばらく進むと、前方から三人の冒険者が走ってきた。
「そっち行くなら気をつけろ!」
先頭の男が叫んだ。
「次の三鐘で、先の床が開く!」
「どの辺?」
「青い柱の先!」
「分かった!」
ポックが返す。
三人はそのまま走り去った。
「親切なものだね」
「ここでは知ってることを黙ってても得しないからな」
「君なら情報料を取るのかと思っていた」
「命に関わることまで売らないよ」
「そうか」
ルシアンは短く答えた。
少し進む。
青い石を埋め込んだ柱が見えた。
「ここから先だな」
ポックが足を止める。
「三鐘を待とう」
「了解した」
ルシアンも止まった。
ポックは地図を開く。
「三鐘のあと、この床が下がるなら……たぶん、こっちの橋がつながる」
「また、たぶんかね」
「転輪城で絶対はないって、入口のおっちゃんも言ってただろ」
「面倒な場所だな」
そのときだった。
耳ではない。
頭の内側へ、突然意味が流れ込んできた。
《第三経路・切替準備》
ルシアンは顔を上げた。
《保全従事者は移動部より退避》
「ポックン」
「待って。今見てる」
「動くぞ」
「え?」
「そこの橋だ」
ルシアンが右手を指した。
細い石橋。
今は何にもつながっていない。
「なんで分かる?」
「甲冑が――」
ごおん。
一度。
ポックが顔を上げる。
ごおん。
二度。
「まだ二鐘だぞ」
「三度来る」
「センセイ?」
ごおん。
三度目。
直後。
石橋が動いた。
壁の中へ半分埋まっていた基部がせり出し、橋全体がゆっくりと横へ向きを変えていく。
ポックは橋と、ルシアンを交互に見た。
「……鐘が鳴る前に分かったのか?」
「ああ」
「何て言われた?」
「第三経路を切り替えるから、動くところから離れろ、と」
「第三経路……」
ポックが呟く。
橋が完全に動ききった。
今まで隠れていた壁面が現れる。
その一角だけ、周囲の灰色の石とは色が違っていた。
白い。
「センセイ」
「ああ」
白い石の中央。
円。
その中に、三本の短い線。
鐘鳴り坑道でも。
沈み庭でも見た印だった。