東回廊へ入ってから、ポックは三度地図を開いた。
「今いるのが、たぶんここ」
指先が、地図に描かれた細長い回廊をたどる。
「たぶん?」
「さっき動いたばっかりだからな。向こうの中庭が見えれば、もう少し分かるんだけど」
東回廊は、城壁の内側を通る幅広い石造りの道だった。
片側には背の高い窓が並び、もう片側にはいくつもの通路が口を開けている。
そのうち一つは、途中まで階段が続いているのに、上には天井しかない。
「ずいぶん不親切な造りだね」
「動きの法則が読めれば、もっと進みやすいんだけどな」
「予想外というのも魅力の一つ、というわけだね」
ルシアンは先ほど渡ってきた方角を振り返った。
もう中庭は見えない。
巨大な石壁が、何事もなかったように道を塞いでいる。
「帰り道もなくなったね」
「別の道が開くよ」
ポックは地図へ小さく線を書き足した。
「たぶん」
「急に自信がなくなったな」
「初めて来たんだから仕方ないだろ」
そのときだった。
回廊の奥から、重い音が響いた。
どん。
二人とも顔を上げる。
少し遅れて、男の怒鳴り声。
「右へ流せ!」
また、どん。
今度は石を引っ掻く音まで聞こえた。
「戦ってるな」
ポックが地図を畳んだ。
「見に行こう」
二人は音のする方へ向かった。
◇
回廊の先は、天井の高い広間へつながっていた。
そこで四人の冒険者が、一頭の巨大な猪と戦っている。
ルシアンは足を止めた。
「大きいな」
「盾殻猪だ」
ポックもその場に止まる。
「知っているのかね、ポックン」
「本で見た。正面が硬いらしい」
牛より一回り大きな身体。
短く太い脚。
鼻先から肩にかけて、灰褐色の分厚い甲殻が幾重にも重なっている。
頭を下げれば、正面から見えるのはほとんど殻と牙だけだった。
その巨体が石床を蹴った。
「来るぞ!」
正面にいた男が、大盾を斜めに構える。
盾殻猪がぶつかった。
があん、と広間に音が響く。
男はまともには受け止めない。
身体を捻り、盾の面を滑らせるようにして猪の頭を横へ逸らした。
横に控えていた槍使いが踏み込む。
穂先が甲殻の切れ目を狙った。
だが猪が身体を振る。
槍は浅く脇腹を裂いただけで抜けた。
「下がって!」
後方から少女の声が飛ぶ。
杖の先から青白い光が走った。
光の塊が盾殻猪の左側で弾ける。
猪が顔を背けた。
そこへ大盾の男がぶつかり、進路を変える。
「ほう」
ルシアンは感心した。
「なかなか見事だね」
「ああ。たしかに、戦い慣れてるな。心配なさそうだ」
後衛には、もう一人女がいた。
杖を片手に持ち、大盾の男の動きを見ている。
男の腕から血が流れると、すぐに淡い光が伸びた。
傷が見る間に塞がっていく。
「手伝わなくていいのかね?」
「変に手を出しちゃいけないんだぜ、こういう場面は」
ポックは四人の動きを見ていた。
実際、押されてはいない。
盾役が正面を受け流し。
槍が横から狙い。
少女の魔術が猪の向きを崩す。
傷を負えば後ろの女が塞ぐ。
少し時間はかかっても、倒せそうだった。
ルシアンもその場に立ったまま、戦いを見ていた。
盾殻猪が再び距離を取る。
頭を低くした。
そのとき。
ごおん。
低い鐘が一度、城内へ響いた。
「切り替わる!」
大盾の男が叫んだ。
四人がすぐに壁際から離れる。
ルシアンたちの足元にも細かな振動が伝わってきた。
広間の右側で、石壁が動き始める。
ごごごごご――。
開いていた通路が、少しずつ狭くなっていく。
同時に盾殻猪が走った。
「くそっ!」
大盾の男が前へ出る。
先ほどと同じように受け流そうとした。
だが床が動いた。
男の右足がわずかに沈む。
盾の角度が崩れた。
猪が大盾を弾いた。
男が横へ転がる。
「ガレス!」
後ろの女が声を上げた。
盾殻猪は止まらない。
正面に残った二人の後衛へ向かって、そのまま突っ込んでいく。
少女が杖を上げる。
女も前へ出た。
だが、右の通路はもう半分以上閉じている。
「センセイ」
「ああ」
ルシアンは走った。
盾殻猪と二人の間へ入る。
直後。
黒い巨体と灰褐色の巨体が、真正面からぶつかった。
轟音が響いた。
ルシアンの足が滑る。
一歩。
二歩。
石床に黒い足跡が残った。
《外殻への衝撃を検出》
《外殻損傷なし》
三歩目。
止まった。
「ずいぶんと情熱的だね、君は」
目の前で盾殻猪が鼻息を荒くする。
分厚い頭部が、ルシアンの腹へ押しつけられていた。
後ろから声がする。
「大丈夫!?」
「問題ないよ」
ルシアンは両手を伸ばした。
猪の牙の根元。
正確には、その外側を覆う厚い甲殻を掴む。
盾殻猪が頭を振った。
黒い腕は離れない。
「少し落ち着きたまえ」
力を込める。
猪の頭がゆっくりと下がった。
前脚が石床を掻く。
巨体が左右へ暴れる。
それでも動かない。
「押さえられるのかよ……!」
起き上がった槍使いが目を見開いた。
すぐに槍を構える。
「そのまま押さえててくれ!」
「承知した」
槍使いが走り込んだ。
猪の横へ回る。
前脚の後ろ。
甲殻の切れた胸の側面へ、穂先を当てる。
一歩。
深く踏み込んだ。
槍が根元近くまで刺さった。
盾殻猪が激しく跳ねる。
ルシアンの腕へ衝撃が伝わった。
それでも離さない。
槍使いが武器を引き抜く。
血が石床へ流れた。
猪の脚から、急に力が抜ける。
巨体が崩れた。
ルシアンはその重さを受けながら、ゆっくりと床へ横たえた。
しばらく鼻から荒い息が漏れていたが、それもやがて止まった。
広間に、動き続ける城の低い振動だけが残った。
「センセイ、やるじゃん」
ポックが駆け寄ってきた。
「受け止める包容力も僕の魅力だからね」
ルシアンは胸を張った。
「どこか壊れてない?」
《外殻損傷なし》
「問題ないよ」
「ならいい」
ポックはすぐに盾殻猪へ目を移した。
ルシアンには、次に何を考えているのか分かった。
◇
「助かった」
大盾の男が近づいてきた。
四十には届かないくらいだろう。
短く刈った髪に、左眉を横切る古い傷がある。
「ガレスだ」
「ルシアン・イモターレ。世界で最も美しい男だ」
ガレスは一度、黒い甲虫のような頭部を見た。
「……ルシアンだな」
槍使いもやってきた。
「見事な一突きだったよ」
ルシアンが先に声をかける。
「俺はセヴ。さっきは本当に助かった。あそこまで止まってりゃ、外す方が難しい」
後衛の二人も合流した。
先ほど神術を使っていた女はミレア。
もう一人はリネット。
濃紺の外套を羽織った少女で、近くで見るとポックより二、三歳上に見える。
戦いが終わっても杖を手放さず、少し誇らしげに立っていた。
「私は魔法学校に通ってるの」
名乗ったあと、リネットは自分から付け加えた。
「今日はガレスたちと実地」
「学生なのか」
ポックが少し意外そうに言った。
「何よ」
「別に」
「今、学生がダンジョンにいるの変だと思ったでしょ」
「思ってないよ」
「絶対思った」
「何で決めつけるんだよ」
「顔に出てるから」
「出てない」
「出てる」
「はいはい」
ミレアが二人の間へ入る。
「リネット。助けてもらって最初にする話じゃないでしょう」
「分かってるって」
リネットはポックを見た。
「……ありがと」
「おれ、何もしてないぞ」
リネットの目がルシアンへ移る。
「あっちに言ったの」
「僕の名前はルシアンだよ」
「ルシアンも、ありがと」
「うむ」
ルシアンは満足した。
一方、ポックはすでに盾殻猪の前へしゃがみ込んでいた。
牙を見る。
甲殻を見る。
槍の刺さった場所を確認する。
ガレスがその姿を見た。
「素材が気になるか?」
「うん。この殻、持って帰るの?」
「そのつもりだ。ここまで来る途中で一頭見つけて、追ってた」
「じゃあ、これはそっちの獲物だな」
ポックはあっさり言った。
「おれたちは途中からだし」
ガレスが首を振る。
「いや。あそこで止めてもらわなきゃ、ミレアかリネットがやられてた」
「防護は張ってたわよ」
ミレアが言った。
「無事だった保証にはならん」
「それはそうね」
ガレスは少し考えた。
「牙一本と、殻を一枚持っていけ」
「いいの?」
「それでも少ないくらいだ」
ポックが盾殻猪を見た。
「じゃあ、それで」
即答だった。
「遠慮しないのね」
ミレアが笑った。
「向こうがくれるって言ってるから」
「しっかりしてるわね」
「商人だし」
「商人?」
「今は兼業冒険者」
ポックは答えながら、素材袋を取り出した。
ミレアはしゃがみ込み、その手元を見る。
「それで、あの大きい人が相棒?」
「うん」
「センセイって呼んでたでしょう」
「そうだけど」
「変わった呼び方ね」
「最初にそう呼んだら、そのままになった」
ポックは牙の根元を覗き込みながら答えた。
ミレアがルシアンを見る。
もう一度ポックを見る。
「ずいぶん気に入ってるのね」
ポックの手が止まった。
「何が?」
「呼び方」
「別に」
「そう?」
「そうだよ」
ポックは少し強めに素材袋を広げた。
その横で、リネットが盾殻猪の甲殻を杖の先で叩いた。
「これ、高いの?」
「状態がよければ」
「どれくらい?」
「町と時期による」
「知らないんだ」
ポックが顔を上げた。
「ここで時価のモンの値段を断言して信用できるか?」
「ふうん」
リネットは少し考えた。
「それはそうね」
「分かればいい」
「何、その言い方」
「そっちが先だろ」
ミレアが笑った。
ガレスとセヴはすでに盾殻猪の解体を始めている。
しばらくして、ガレスが手を止めた。
「お前たちは、この先どっちへ行く?」
「北」
ポックが地図を取り出す。
「北塔の方へ行きたい」
「なら途中まで同じだ」
ガレスが言った。
「俺たちも上へ向かう。風切羽を狙ってる」
ポックの目が少し細くなった。
「入口で増えてるって聞いた」
「ああ。素材の値も上がってる」
「へえ」
「今、ちょっと嬉しそうだった」
リネットが言った。
「そうだけど」
「否定しないんだ」
「値段が上がって嬉しくない商人はいないだろ」
「今は冒険者なんでしょ?」
「両方でいいだろ」
ポックは地図を畳んだ。
ガレスが笑う。
「初めてなら一緒に来い。次の切り替わりまでは俺たちの方が道を知ってる」
ポックはルシアンを見た。
「センセイ」
「僕は構わないよ」
「じゃあ、頼む」
「決まりだな」
盾殻猪の解体が終わるころには、先ほど動いていた壁も完全に止まっていた。
広間の端には、入ってきたときにはなかった通路が一つ開いている。
ガレスが盾を背負った。
「次の鐘までに一つ先へ行くぞ」
四人が歩き出す。
ポックもその後を追った。
途中でリネットが振り返る。
「そっちじゃないわよ」
「分かってるよ」
「地図、逆さじゃない?」
「逆さじゃない!」
ポックが地図を確認する。
逆さではなかった。
ルシアンはその後ろを歩きながら、少しだけ笑った。
転輪城へ入ったときは二人だった。
今は六人いる。
悪くない。
少なくとも、先ほどまでよりは賑やかだった。