新しく開いた回廊は、拍子抜けするほど普通だった。
灰色の石壁。
ところどころ欠けた床。
高い位置には細長い窓が並び、外から差し込む光が白く伸びている。
転輪城の中で、これまで何度も見た造りだった。
「本当に地図にないのか?」
ガレスが聞いた。
ポックは歩きながら地図を見ている。
「ないよ。北塔の南側には壁があることになってる」
「昔の地図は?」
「昨日見せてもらったやつにもなかった」
「俺もここは初めてだな」
セヴが壁へ手を触れた。
「二年くらい前から何度も来てるけど、こんな道は見た覚えがない」
「転輪城なら、今まで閉じてただけじゃない?」
リネットが言った。
「それはある」
ガレスはあっさり頷いた。
「全部の道を知ってる奴なんていないからな」
ポックは地図の余白へ線を引いた。
「なら書いとこう」
「売るの?」
リネットが横から覗く。
「使えるなら」
「商魂たくましいわね」
「道の情報は役に立つだろ」
「一度しか通ってない道は売らんほうがいいぞ」
ガレスが前を向いたまま言った。
「次に来たときも開くとは限らん」
ポックの筆が止まった。
「……そっか」
書いた線の脇へ、小さく何かを書き足す。
「何て書いたの?」
「日付と確認できた回数だよ」
「そこはちゃんとしてるのね」
「金取って間違ってたら、次から買ってもらえないだろ」
リネットは少し考えたあと、
「なるほど」
とだけ言った。
ルシアンは二人の後ろを歩いていた。
道は緩やかに上っている。
北塔も近づいているはずだった。
だが一つ、妙なことがある。
「この道は動かないね」
ルシアンが言った。
ガレスが振り返る。
「今のところはな」
「そういう意味ではないのだよ」
先ほどから城のどこかで、何度か低い石の音が響いている。
遠くの橋が動き、窓の外では回廊の一部がゆっくり横へ滑っていた。
それなのに、この道には振動すらほとんど伝わってこない。
そのとき、甲冑の内側へ短い意味が流れ込んだ。
《北側経路は保全経路のため固定されています》
ルシアンは少しだけ歩みを緩めた。
「ポックン」
「何?」
「この道は動かないらしい」
ポックが地図から顔を上げた。
「甲冑が?」
「ああ」
「どれくらい?」
「そこまでは教えてくれない」
「じゃあ今のうちに進もう」
それだけ言うと、ポックはまた歩き始めた。
ガレスが黒い甲冑を見た。
「便利だな、それ」
「脱ぎ着が自由ならいうことはないのだがね」
それ以上、誰も甲冑のことを聞かなかった。
◇
回廊は長かった。
それなのに分岐はほとんどない。
一度だけ下へ続く階段があったが、途中で大きな石扉に塞がれていた。
魔物も出なかった。
壁に爪痕もない。
床に血痕もない。
冒険者が残した白墨の印さえ見当たらなかった。
「本当に誰も使ってないんだな」
ポックが呟いた。
「地図にないからじゃない?」
リネットが言う。
「それだけかな」
「ほかに何があるのよ」
ポックは床を見た。
薄く埃が積もっている。
その上に残っているのは、今ついた六人分の足跡だけだった。
「誰も通らない道なら、こんなもんじゃないか?」
セヴが言った。
「そうかも」
ポックはそれ以上何も言わなかった。
しばらく進むと、左側の壁が途切れた。
外へ出られる。
小さな露台だった。
「おお」
セヴが先に出る。
続いたポックが、思わず足を止めた。
転輪城が一望できた。
幾重にも重なった城壁。
塔と塔を結ぶ石橋。
中庭。
屋根のない回廊。
その向こうには、大きな湖が青く広がっている。
高い位置から見ると、城が動いていることがよく分かった。
遠くで一つの橋がゆっくり回転している。
その下では巨大な階段が横へ滑り、別の塔へ接続しようとしていた。
小さく見える冒険者たちが、その動きを待っている。
「すごいな」
ポックが言った。
「上から見ると、余計に落ち着きのない城だね」
ルシアンも露台へ出た。
「僕の屋敷には採用しないことにしよう」
ガレスが荷物を下ろした。
「少し休むぞ。北塔まではもう近い」
六人は露台の壁際へ腰を下ろした。
ミレアが水袋を回し、セヴはさっそく干し肉を噛み始める。
ポックも保存食を取り出した。
その横で、リネットが杖を膝へ置いた。
近くで見ると、濃い色の木に細い銀色の金具が何本も巻かれている。
先端には半透明の青い石。
ポックの視線に気づき、リネットが杖を抱え直した。
「何?」
「それ、学校の?」
「違う。私の」
「高そうだな」
「また値段?」
「商人なら気になるだろ」
「今は冒険者なんでしょ」
「冒険者になったら値段が気にならなくなるのか?」
「……ならないか」
リネットは杖を見た。
「入学したときに買ってもらったの。ずっと使ってる」
「壊れたら?」
「直す」
「直せるの?」
「学校に工房があるから」
「へえ」
ポックは干し肉を一口かじった。
「学校って、魔法だけ習うのか?」
「そんなわけないでしょ」
「読み書きとか?」
「それくらい入る前にできるわよ。術式、魔力制御、魔物学、薬草、古代語も少し」
最後の一つに、ポックが反応した。
「古代語?」
「本当に少しよ。簡単な碑文を読むくらい」
ルシアンが顔を向ける。
「僕より上手かもしれないね」
「センセイより下手な人探す方が難しいだろ」
「ポックン」
リネットが二人を見比べた。
「そんなにひどいの?」
「美容器具だと思って今の鎧を着た」
少し間があった。
「……古代語で?」
「ああ」
リネットがルシアンを見る。
「何て書いてあったの?」
「細かな話は省くが、僕の解釈には多少の――」
「間違いがあった」
ポックが言った。
「多少だ」
「脱げなくなるくらい?」
「結果だけを見て評価するのは公平ではないね」
リネットは口元を押さえた。
「笑っているだろう」
「笑ってない」
「声が震えているよ」
「風よ」
「今、ほとんど吹いていないが」
ポックも笑っていた。
ルシアンは二人から顔を背け、湖を見ることにした。
「君はどうやって商売を覚えたの?」
しばらくして、リネットが聞いた。
「親父」
「学校じゃないんだ」
「うん。荷馬車に乗ってるときとか、店とか。字も計算も親父に教わった」
「ふうん」
リネットはそれ以上聞かなかった。
ポックも何も付け加えなかった。
「そろそろ行くぞ」
ガレスが立ち上がった。
休憩は終わった。
◇
北塔へ着いたのは、それからそれほど経たない頃だった。
太い円塔の根元に、小さな広場がある。
上へ向かう階段と、塔の内部へ入る大きな扉。
さらに外周沿いに、細い回廊が伸びていた。
「俺たちはこっちだ」
ガレスが外周の回廊を指す。
「風切羽の巣は上だ」
ポックは塔を見上げた。
「おれたちは少し中を見てみる」
「北塔が目的だったのか?」
「探してるものがあるんだ」
ガレスは一瞬だけポックを見たが、詳しく聞かなかった。
「分かった。ここから先は別だな」
「うん」
「帰りも転輪城の中だ。知らない道へ入りすぎるなよ」
「気をつける」
セヴが手を上げた。
「また会ったら、今度はもっと楽な獲物にしようぜ」
「それは賛成だね」
ルシアンが答える。
ミレアも笑って手を振った。
リネットは少し遅れて歩き出し、それからポックを振り返った。
「迷わないでよ」
「そっちこそな」
リネットは鼻を鳴らし、三人を追っていった。
やがて四人の姿が回廊の先へ消える。
広場に残ったのは、ルシアンとポックだけになった。
「静かになったね」
「二人に戻っただけだろ」
「少し物足りなく感じるのだから、不思議なものだね」
ポックは地図を広げた。
「まず塔の中を見るか」
「ああ」
二人は大きな扉へ向かった。
その途中。
ポックが足を止めた。
「センセイ」
「何だね」
「これ」
塔の壁を指す。
古い装飾石が帯のように壁を一周している。
植物の蔓。
鳥。
幾何学模様。
その中に、小さな印が混じっていた。
円。
その内側に並ぶ、三本の短い線。
ルシアンも止まった。
鐘鳴り坑道。
沈み庭。
どちらにもあった印。
「見つけたね」
黒い手を伸ばす。
指先が印へ触れた。
頭の内側へ、すぐに意味が流れ込んできた。
《保全従事者を確認》
一拍。
《第三保全中継所・外周経路》
ルシアンは動かなかった。
「センセイ?」
「ポックン」
「あった?」
「ああ」
壁の奥で、小さな音がした。
何かが動き始めている。
ルシアンは印へ手を当てたまま答えた。
「どうやら、ここで間違いないらしい」