壁の奥で、重い石が擦れる音が続いていた。
ルシアンが手を離すと、円と三本線の印を含んだ装飾帯が、そのまま横へ沈んでいく。
現れたのは扉ではなかった。
人ひとりが通れるほどの隙間と、その奥へ下る細い階段。
外から見えていた北塔の壁より、ずっと深い。
「入れそうだな」
ポックが覗き込む。
「僕には少々狭そうだ」
「通れなかったら?」
「広げる」
「壊すって言えよ」
「必要に応じた改築だよ」
ルシアンが先に身体を入れた。
肩が左右の石壁へ触れたものの、どうにか通れる。
十段ほど下ると、壁の様子が変わった。
表面を覆っていた灰色の石が途切れ、その隙間から滑らかな白い面が現れている。
さらに下では、白い部分の方が多くなった。
「またこれか」
ポックが壁へ触れる。
「鐘鳴り坑道と沈み庭にあったやつ」
「古代人は、人目につかないところほど飾り気をなくすらしい」
ルシアンの頭の内側へ意味が流れ込んだ。
《第三保全中継所・外周経路》
《接続先確認中》
足を止める。
「どうした?」
「この先を確認しているらしい」
「何を?」
「それを僕に聞かれても困るね」
しばらく待っても、新しい意味は届かなかった。
「進めるなら行こう」
「ああ」
階段の先は、狭い通路へ続いていた。
右側は白い壁。
左側にはところどころ隙間があり、その向こうから巨大な石材が動く低い音が聞こえてくる。
転輪城の内部が、すぐ横にある。
ポックが隙間へ顔を近づけた。
「何か見える?」
「暗い。……いや」
奥で何かが動いた。
巨大な石の塊。
壁なのか床なのかも分からない。
それがゆっくり横切っていく。
「城の中って、こんなふうになってるのか」
「なんのためにこうなってるのだろうね」
遠くで鐘が鳴った。
ごおん。
一度。
すぐに足元へ震動が伝わる。
「来るぞ」
ポックが壁へ手をついた。
通路の奥で、低い音がした。
床に一本の継ぎ目が走る。
そこから先が、ゆっくり横へ動き始めた。
「センセイ!」
「待ちたまえ」
ルシアンはポックの肩を掴んだ。
「何――」
《経路切替中》
《停止位置を維持》
次の瞬間、二人の目の前にあった床が消えた。
正確には、横へ滑っていった。
代わりに暗い縦穴が口を開ける。
ずっと下で石同士が噛み合う音がしていた。
ポックが穴を見下ろす。
「……何回体験してもとんでもない場所だな、ここは」
「古代文明に常識を求めるのは、そろそろ諦めた方がいいかもしれない」
二人はその場で待った。
やがて別の床が横から近づいてくる。
ぴたりと止まった。
先ほどまで正面へ伸びていた通路は消え、今度は左へ道が続いている。
《経路切替完了》
「進めるらしい」
ポックが新しく現れた通路を見る。
「センセイがいなかったら、今ので落ちてたな」
「その場合は僕が掴んでいたよ」
「掴む前に落ちてたかもしれないだろ」
「では、僕が先に止めた判断は正しかったわけだ」
「うん」
ポックは素直に頷いた。
「助かった」
ルシアンは一瞬黙り、それから先へ向き直った。
「当然だよ。用心棒だからね」
◇
新しい道は、先ほどまでとは違っていた。
白い壁の一部が開き、その向こうへ古い石造りの通路が接続されている。
転輪城の表側へ戻ったらしい。
ただし、どこなのかは分からない。
「地図にある?」
ルシアンが尋ねる。
「たぶん北塔の中……だと思う」
「自信がないね」
「道そのものが動いたんだから仕方ないだろ」
ポックは地図を回した。
右へ。
左へ。
もう一度右へ。
「窓があれば分かるんだけど」
そのとき、前方から声が聞こえた。
「――待て!」
聞き覚えがある。
続いて、石を叩く音。
ルシアンとポックは顔を見合わせた。
「ガレス?」
「行こう」
角を曲がる。
少し先の広間で、四人が立ち止まっていた。
「やっぱり!」
リネットが先に気づいた。
「何でそっちから出てくるのよ!」
「こっちが聞きたいよ」
ポックが駆け寄る。
「北塔の外周にいたんじゃないのか?」
「いたわよ。鐘が鳴るまでは」
ガレスが広間の反対側を指した。
そこには大きな石橋がある。
ただし途中で途切れていた。
向こう側の半分は、別の壁の奥へ入り込んでいる。
「橋ごとこっちへ運ばれた」
「城に?」
「ほかに誰がやる」
セヴが肩をすくめる。
「巣を一つ見つけたところだったんだけどな」
足元には、風切羽の羽根が入った袋が二つ置かれていた。
「成果はあったみたいだね」
「まあな」
ガレスはルシアンたちを見る。
「そっちは?」
「探してた場所への道は見つかった」
ポックが答えた。
「でも途中で道が動いた」
「それでここか」
ガレスは周囲を見回した。
「ここも初めてだな」
広間は六角形をしていた。
六方向すべてに通路がある。
だが、そのうち三つは壁で塞がれ、残りの三つも途中から暗くなっている。
中央の床には、巨大な円形の模様。
いくつもの輪が重なり、その間に線が走っていた。
リネットが杖の先を近づける。
「魔術式……じゃないわね」
「読める?」
ポックが聞く。
「何でも読めると思わないで」
「古代語やってるって言ってただろ」
「文字がないものは読めないわよ」
「それはそうか」
リネットが少しだけ意外そうな顔をした。
「納得するの早いわね」
「間違ってたからな」
ポックは床の円へしゃがみ込んだ。
いくつもの溝。
傷。
端の方には、最近ついたらしい靴跡もある。
「誰か来てる」
ガレスも気づいた。
「完全に閉じてる場所ってわけでもないらしい」
セヴが壁際を調べる。
「こっちにも傷があるぞ」
壁に、刃物で刻まれた文字が残っていた。
かなり古い。
半分ほど崩れている。
ガレスが近づき、埃を払った。
「……『三輪重なる時』」
その下は読めない。
「知ってるの?」
ポックが聞いた。
ガレスは返事をせず、もう一度床を見た。
六角形の広間。
中央の大きな輪。
開いている三本の通路。
そして、それぞれの先に見える位置の違う石橋。
「まさかな」
「何?」
「転輪庫かもしれん」
セヴが振り返った。
「本気か?」
「何だね、その転輪庫というのは」
ルシアンが尋ねる。
今度はミレアが答えた。
「転輪城の宝物庫よ」
ポックが顔を上げた。
「宝物庫?」
「昔から話はあるの」
ミレアは中央の床を見た。
「城のどこかに宝を溜めた部屋がある。でも、場所が決まってないって」
「場所が決まっていない?」
ルシアンが首を傾げる。
「宝物庫まで歩き回るのかね」
「城が動くたびに、入口につながる場所が変わるらしい」
ガレスが言った。
「見つかった記録はある。何年かに一度くらいだがな」
ポックが立ち上がった。
「何が入ってる?」
「期待していいぞ」
セヴが笑う。
「武器。魔術具。宝石。古い硬貨。見つけた奴によって話は違う」
「いくらくらい?」
「お前、本当にぶれないな」
「大事だろ」
「本物なら、しばらく働かなくてもいいくらいだ」
ポックの目が変わった。
ルシアンにも分かった。
「ポックン」
「何?」
「今、非常に良い顔をしているよ」
「そう?」
「ああ。僕の美貌を初めて見た者も、きっと同じ目をする」
「それはないと思う」
適当に返答したあと、ポックの視線はずっと床の円へ向いたままだった。
リネットも杖を抱え直した。
「本当に転輪庫なら、私も初めて見る」
「学校じゃ教えないの?」
「個別のダンジョンの幻の伝説なんて授業に出ないわよ」
「でも知ってるんだ」
「有名だもの、宝物庫の噂」
ガレスは広間を一周した。
「問題は、本当にここがそうなのかだ」
そのとき。
再び鐘が鳴った。
今度は二度。
ごおん。
ごおん。
中央の円が震えた。
六人が一斉に足元を見る。
床に刻まれた三重の輪のうち、一番外側がゆっくり回り始める。
続いて二つ目。
広間の壁の向こうでも、巨大な何かが動き出した。
開いていた通路の一つが閉じる。
代わりに、正面の壁が左右へ分かれた。
その向こう。
まだ遠い。
いくつもの石橋の先に、巨大な扉が見えた。
左右に獅子のような石像が立っている。
ガレスが息を呑んだ。
「……当たりだ」
ポックは扉を見たまま動かなかった。
「ガレス」
「ああ」
「宝物庫?」
「たぶんな」
広間がさらに震える。
遠くの巨大な扉の前で。
一対の石像のうち、片方が動いた。
石が落ちる。
太い前脚が床へ下りる。
次いで頭が上がった。
違う。
石像ではない。
灰色のたてがみが、大きく広がった。
ルシアンはその姿を見つめた。
「ポックン」
「うん」
「あれも宝の一部かね?」
「たぶん違う」
獅子が口を開いた。
離れているはずなのに、空気が震えた。
六人の衣服が揺れる。
ルシアンの黒い外殻にまで、低い振動が伝わってきた。
ガレスが大盾を下ろす。
「転輪庫の番だ」
巨大な獅子が、ゆっくりとこちらを向いた。